夏目漱石 虞美人草


        十

 謎(なぞ)の女は宗近(むねちか)家へ乗り込んで来る。謎の女のいる所には波が山となり炭団(たどん)が水晶と光る。禅家では柳は緑花は紅(くれない)と云う。あるいは雀はちゅちゅで烏(からす)はかあかあとも云う。謎の女は烏をちゅちゅにして、雀をかあかあにせねばやまぬ。謎の女が生れてから、世界が急にごたくさになった。謎の女は近づく人を鍋(なべ)の中へ入れて、方寸(ほうすん)の杉箸(すぎばし)に交(ま)ぜ繰り返す。芋をもって自(みず)からおるものでなければ、謎の女に近づいてはならぬ。謎の女は金剛石(ダイヤモンド)のようなものである。いやに光る。そしてその光りの出所(でどころ)が分らぬ。右から見ると左に光る。左から見ると右に光る。雑多な光を雑多な面から反射して得意である。神楽(かぐら)の面(めん)には二十通りほどある。神楽の面を発明したものは謎の女である。――謎の女は宗近家へ乗り込んでくる。

 真率なる快活なる宗近家の大和尚(だいおしょう)は、かく物騒な女が天(あめ)が下(した)に生を享(う)けて、しきりに鍋の底を攪(か)き廻しているとは思いも寄らぬ。唐木(からき)の机に唐刻の法帖(ほうじょう)を乗せて、厚い坐布団の上に、信濃(しなの)の国に立つ煙、立つ煙と、大きな腹の中から鉢(はち)の木(き)を謡(うた)っている。謎の女はしだいに近づいてくる。

 悲劇マクベスの妖婆(ようば)は鍋(なべ)の中に天下の雑物(ぞうもつ)を攫(さら)い込んだ。石の影に三十日(みそか)の毒を人知れず吹く夜(よる)の蟇(ひき)と、燃ゆる腹を黒き背(せ)に蔵(かく)す蠑(いもり)の胆(きも)と、蛇の眼(まなこ)と蝙蝠(かわほり)の爪と、――鍋はぐらぐらと煮える。妖婆はぐるりぐるりと鍋を廻る。枯れ果てて尖(とが)れる爪は、世を咀(のろ)う幾代(いくよ)の錆(さび)に瘠(や)せ尽くしたる鉄(くろがね)の火箸(ひばし)を握る。煮え立った鍋はどろどろの波を泡(あわ)と共に起す。――読む人は怖ろしいと云う。

 それは芝居である。謎の女はそんな気味の悪い事はせぬ。住むは都である。時は二十世紀である。乗り込んで来るのは真昼間(まっぴるま)である。鍋の底からは愛嬌(あいきょう)が湧(わ)いて出る。漾(ただよ)うは笑の波だと云う。攪(か)き淆(ま)ぜるのは親切の箸と名づける。鍋そのものからが品(ひん)よく出来上っている。謎の女はそろりそろりと攪き淆ぜる。手つきさえ能掛(のうがかり)である。大和尚(だいおしょう)の怖(こわ)がらぬのも無理はない。

「いや。だいぶ御暖(おあったか)になりました。さあどうぞ」と布団の方へ大きな掌(てのひら)を出す。女はわざと入口に坐ったまま両手を尋常につかえる。

「その後(のち)は……」

「どうぞ御敷き……」と大きな手はやっぱり前へ突き出したままである。

「ちょっと出ますんでございますが、つい無人(ぶにん)だもので、出よう出ようと思いながら、とうとう御無沙汰(ごぶさた)になりまして……」で少し句が切れたから大和尚が何か云おうとすると、謎の女はすぐ後(あと)をつける。

「まことに相済みません」で黒い頭をぴたりと畳へつけた。

「いえ、どう致しまして……」ぐらいでは容易に頭を上げる女ではない。ある人が云う。あまりしとやかに礼をする女は気味がわるい。またある人が云う。あまり丁寧に御辞儀をする女は迷惑だ。第三の人が云う。人間の誠は下げる頭の時間と正比例するものだ。いろいろな説がある。ただし大和尚は迷惑党である。

 黒い頭は畳の上に、声だけは口から出て来る。

「御宅でも皆様御変りもなく……毎々欽吾(きんご)や藤尾(ふじお)が出まして、御厄介(ごやっかい)にばかりなりまして……せんだってはまた結構なものをちょうだい致しまして、とうに御礼に上がらなければならないんでございますが、つい手前にかまけまして……」

 頭はここでようやく上がる。阿父(おとっさん)はほっと気息(いき)をつく。

「いや、詰らんもので……到来物でね。アハハハハようやく暖(あった)かになって」と突然時候をつけて庭の方を見たが

「どうです御宅の桜は。今頃はちょうど盛(さかり)でしょう」で結んでしまった。

「本年は陽気のせいか、例年より少し早目で、四五日前(ぜん)がちょうど観頃(みごろ)でございましたが、一昨日(いっさくじつ)の風で、だいぶ傷(いた)められまして、もう……」

「駄目ですか。あの桜は珍らしい。何とか云いましたね。え? 浅葱桜(あさぎざくら)。そうそう。あの色が珍らしい」

「少し青味を帯びて、何だか、こう、夕方などは凄(すご)いような心持が致します」

「そうですか、アハハハハ。荒川(あらかわ)には緋桜(ひざくら)と云うのがあるが、浅葱桜(あさぎざくら)は珍らしい」

「みなさんがそうおっしゃいます。八重はたくさんあるが青いのは滅多にあるまいってね……」

「ないですよ。もっとも桜も好事家(こうずか)に云わせると百幾種とかあるそうだから……」

「へええ、まあ」と女はさも驚ろいたように云う。

「アハハハ桜でも馬鹿には出来ない。この間も一(はじめ)が京都から帰って来て嵐山へ行ったと云うから、どんな花だと聞いて見たら、ただ一重だと云うだけでね、何にも知らない。今時のものは呑気(のんき)なものでアハハハハ。――どうです粗菓(そか)だが一つ御撮(おつま)みなさい。岐阜(ぎふ)の柿羊羹(かきようかん)」

「いえどうぞ。もう御構い下さいますな……」

「あんまり、旨(うま)いものじゃない。ただ珍らしいだけだ」と宗近老人は箸(はし)を上げて皿の中から剥(は)ぎ取った羊羹の一片(ひときれ)を手に受けて、独(ひと)りでむしゃむしゃ食う。

「嵐山と云えば」と甲野(こうの)の母は切り出した。

「せんだって中(じゅう)は欽吾(きんご)がまた、いろいろ御厄介になりまして、御蔭(おかげ)様で方々見物させていただいたと申して大変喜んでおります。まことにあの通の我儘者(わがままもの)でございますから一さんもさぞ御迷惑でございましたろう」

「いえ、一の方でいろいろ御世話になったそうで……」

「どう致しまして、人様の御世話などの出来るような男ではございませんので。あの年になりまして朋友(ほうゆう)と申すものがただの一人もございませんそうで……」

「あんまり学問をすると、そう誰でも彼でもむやみに附合(つきあい)が出来にくくなる。アハハハハ」

「私には女でいっこう分りませんが、何だか欝(ふさ)いでばかりいるようで――こちらの一さんにでも連れ出していただかないと、誰も相手にしてくれないようで……」

「アハハハハ一はまた正反対。誰でも相手にする。家(うち)にさえいるとあなた、妹(いもと)にばかりからかって――いや、あれでも困る」

「いえ、誠に陽気で淡泊(さっぱり)してて、結構でございますねえ。どうか一さんの半分でいいから、欽吾がもう少し面白くしてくれれば好いと藤尾にも不断申しているんでございますが――それもこれもみんな彼人(あれ)の病気のせいだから、今さら愚癡(ぐち)をこぼしたって仕方がないとは思いますが、なまじい自分の腹を痛めた子でないだけに、世間へ対しても心配になりまして……」

「ごもっともで」と宗近老人は真面目(まじめ)に答えたが、ついでに灰吹(はいふき)をぽんと敲(たた)いて、銀の延打(のべうち)の煙管(きせる)を畳の上にころりと落す。雁首(がんくび)から、余る煙が流れて出る。

「どうです、京都から帰ってから少しは好いようじゃありませんか」

「御蔭様で……」

「せんだって家(うち)へ見えた時などは皆(みんな)と馬鹿話をして、だいぶ愉快そうでしたが」

「へええ」これは仔細(しさい)らしく感心する。「まことに困り切ります」これは困り切ったように長々と引き延ばして云う。

「そりゃ、どうも」

「彼人(あれ)の病気では、今までどのくらい心配したか分りません」

「いっそ結婚でもさせたら気が変って好いかも知れませんよ」

 謎(なぞ)の女は自分の思う事を他(ひと)に云わせる。手を下(くだ)しては落度になる。向うで滑(すべ)って転ぶのをおとなしく待っている。ただ滑るような泥海(ぬかるみ)を知らぬ間(ま)に用意するばかりである。

「その結婚の事を朝暮(あけくれ)申すのでございますが――どう在(あ)っても、うんと云って承知してくれません。私も御覧の通り取る年でございますし、それに甲野もあんな風に突然外国で亡(な)くなりますような仕儀で、まことに心配でなりませんから、どうか一日(いちじつ)も早く彼人のために身の落つきをつけてやりたいと思いまして……本当に、今まで嫁の事を持ち出した事は何度だか分りません。が持ち出すたんびに頭から撥(は)ねつけられるのみで……」

「実はこの間見えた時も、ちょっとその話をしたんですがね。君がいつまでも強情を張ると心配するのは阿母(おっかさん)だけで、可愛想だから、今のうちに早く身を堅めて安心させたら善かろうってね」

「御親切にどうもありがとう存じます」

「いえ、心配は御互で、こっちもちょうどどうかしなければならないのを二人背負(しょ)い込んでるものだから、アハハハハどうも何ですね。何歳(いくつ)になっても心配は絶えませんね」

「此方(こちら)様などは結構でいらっしゃいますが、私は――もし彼人がいつまでも病気だ病気だと申して嫁を貰ってくれませんうちに、もしもの事があったら、草葉の陰で配偶(つれあい)に合わす顔がございません。まあどうして、あんなに聞き訳がないんでございましょう。何か云い出すと、阿母(おっかさん)私(わたし)はこんな身体(からだ)で、とても家の面倒は見て行かれないから、藤尾に聟(むこ)を貰って、阿母(おっか)さんの世話をさせて下さい。私は財産なんか一銭も入らない。と、まあこうでござんすもの。私が本当の親なら、それじゃ御前の勝手におしと申す事も出来ますが、御存じの通りなさぬ中の間柄でございますから、そんな不義理な事は人様に対しても出来かねますし、じつに途方に暮れます」

 謎の女は和尚(おしょう)をじっと見た。和尚は大きな腹を出したまま考えている。灰吹がぽんと鳴る。紫檀(したん)の蓋(ふた)を丁寧に被(かぶ)せる。煙管(きせる)は転がった。

「なるほど」

 和尚の声は例に似ず沈んでいる。

「そうかと申して生(うみ)の母でない私が圧制がましく、むやみに差出た口を利(き)きますと、御聞かせ申したくないようなごたごたも起りましょうし……」

「ふん、困るね」

 和尚は手提(てさげ)の煙草盆の浅い抽出(ひきだし)から欝金木綿(うこんもめん)の布巾(ふきん)を取り出して、鯨(くじら)の蔓(つる)を鄭重(ていちょう)に拭き出した。

「いっそ、私からとくと談じて見ましょうか。あなたが云い悪(にく)ければ」

「いろいろ御心配を掛けまして……」

「そうして見るかね」

「どんなものでございましょう。ああ云う神経が妙になっているところへ、そんな事を聞かせましたら」

「なにそりゃ、承知しているから、当人の気に障(さわ)らないように云うつもりですがね」

「でも、万一私がこなたへ出てわざわざ御願い申したように取られると、それこそ後(あと)が大変な騒ぎになりますから……」

「弱るね、そう、疳(かん)が高くなってちゃあ」

「まるで腫物(はれもの)へ障(さわ)るようで……」

「ふうん」と和尚(おしょう)は腕組を始めた。裄(ゆき)が短かいので太い肘(ひじ)が無作法(ぶさほう)に見える。

 謎(なぞ)の女は人を迷宮に導いて、なるほどと云わせる。ふうんと云わせる。灰吹をぽんと云わせる。しまいには腕組をさせる。二十世紀の禁物は疾言(しつげん)と遽色(きょしょく)である。なぜかと、ある紳士、ある淑女に尋ねて見たら、紳士も淑女も口を揃(そろ)えて答えた。――疾言と遽色は、もっとも法律に触れやすいからである。――謎の女の鄭重(ていちょう)なのはもっとも法律に触れ悪い。和尚は腕組をしてふうんと云った。

「もし彼人(あれ)が断然家(うち)を出ると云い張りますと――私がそれを見て無論黙っている訳には参りませんが――しかし当人がどうしても聞いてくれないとすると……」

「聟(むこ)かね。聟となると……」

「いえ、そうなっては大変でございますが――万一の場合も考えて置かないと、いざと云う時に困りますから」

「そりゃ、そう」

「それを考えると、あれが病気でもよくなって、もう少ししっかりしてくれないうちは、藤尾を片づける訳に参りません」

「左様(さよう)さね」と和尚は単純な首を傾けたが

「藤尾さんは幾歳(いくつ)ですい」

「もう、明けて四(し)になります」

「早いものですね。えっ。ついこの間までこれっぱかりだったが」と大きな手を肩とすれすれに出して、ひろげた掌(てのひら)を下から覗(のぞ)き込むようにする。

「いえもう、身体(なり)ばかり大きゅうございまして、から、役に立ちません」

「……勘定すると四になる訳だ。うちの糸が二だから」

 話は放(ほう)って置くとどこかへ流れて行きそうになる。謎の女は引っ張らなければならぬ。

「こちらでも、糸子さんやら、一(はじめ)さんやらで、御心配のところを、こんな余計な話を申し上げて、さぞ人の気も知らない呑気(のんき)な女だと覚(おぼ)し召すでございましょうが……」

「いえ、どう致して、実は私(わたし)の方からその事についてとくと御相談もしたいと思っていたところで――一(はじめ)も外交官になるとか、ならんとか云って騒いでいる最中だから、今日明日(きょうあす)と云う訳にも行かないですが、晩(おそ)かれ、早かれ嫁を貰わなければならんので……」

「でございますとも」

「ついては、その、藤尾さんなんですがね」

「はい」

「あの方(かた)なら、まあ気心も知れているし、私も安心だし、一は無論異存のある訳はなし――よかろうと思うんですがね」

「はい」

「どうでしょう、阿母(おっかさん)の御考は」

「あの通(とおり)行き届きませんものをそれほどまでにおっしゃって下さるのはまことにありがたい訳でございますが……」

「いいじゃ、ありませんか」

「そうなれば藤尾も仕合せ、私も安心で……」

「御不足ならともかく、そうでなければ……」

「不足どころじゃございません。願ったり叶(かな)ったりで、この上もない結構な事でございますが、ただ彼人(あれ)に困りますので。一さんは宗近家を御襲(おつ)ぎになる大事な身体でいらっしゃる。藤尾が御気に入るか、入らないかは分りませんが、まず貰っていただいたと致したところで、差し上げた後で、欽吾がやはり今のようでは私も実のところはなはだ心細いような訳で……」

「アハハハそう心配しちゃ際限がありませんよ。藤尾さんさえ嫁に行ってしまえば欽吾さんにも責任が出る訳だから、自然と考もちがってくるにきまっている。そうなさい」

「そう云うものでございましょうかね」

「それに御承知の通、阿父(おとっさん)がいつぞやおっしゃった事もあるし。そうなれば亡(な)くなった人も満足だろう」

「いろいろ御親切にありがとう存じます。なに配偶(つれあい)さえ生きておりますれば、一人で――こん――こんな心配は致さなくっても宜(よろ)しい――のでございますが」

 謎の女の云う事はしだいに湿気(しっけ)を帯びて来る。世に疲れたる筆はこの湿気を嫌う。辛(かろ)うじて謎の女の謎をここまで叙し来(きた)った時、筆は、一歩も前へ進む事が厭(いや)だと云う。日を作り夜を作り、海と陸(おか)とすべてを作りたる神は、七日目に至って休めと言った。謎の女を書きこなしたる筆は、日のあたる別世界に入ってこの湿気を払わねばならぬ。

 日のあたる別世界には二人の兄妹(きょうだい)が活動する。六畳の中二階(ちゅうにかい)の、南を受けて明るきを足れりとせず、小気味よく開け放ちたる障子の外には、二尺の松が信楽(しがらき)の鉢(はち)に、蟠(わだか)まる根を盛りあげて、くの字の影を椽(えん)に伏せる。一間(いっけん)の唐紙(からかみ)は白地に秦漢瓦鐺(しんかんがとう)の譜を散らしに張って、引手には波に千鳥が飛んでいる。つづく三尺の仮の床(とこ)は、軸を嫌って、籠花活(かごはないけ)に軽い一輪をざっくばらんに投げ込んだ。

 糸子は床の間に縫物の五色を、彩(あや)と乱して、糸屑(いとくず)のこぼるるほどの抽出(ひきだし)を二つまであらわに抜いた針箱を窓近くに添える。縫うて行く糸の行方(ゆくえ)は、一針ごとに春を刻(きざ)む幽(かす)かな音に、聴かれるほどの静かさを、兄は大きな声で消してしまう。

 腹這(はらばい)は弥生(やよい)の姿、寝ながらにして天下の春を領す。物指(ものさし)の先でしきりに敷居を敲(たた)いている。

「糸公。こりゃ御前の座敷の方が明かるくって上等だね」

「替えたげましょうか」

「そうさ。替えて貰ったところで余(あんま)り儲(もう)かりそうでもないが――しかし御前には上等過ぎるよ」

「上等過ぎたって誰も使わないんだから好いじゃありませんか」

「好いよ。好い事は好いが少し上等過ぎるよ。それにこの装飾物がどうも――妙齢の女子には似合わしからんものがあるじゃないか」

「何が?」

「何がって、この松さ。こりゃたしか阿父(おとっさん)が苔盛園(たいせいえん)で二十五円で売りつけられたんだろう」

「ええ。大事な盆栽よ。転覆(ひっくりかえし)でもしようもんなら大変よ」

「ハハハハこれを二十五円で売りつけられる阿爺(おとっさん)も阿爺だが、それをまた二階まで、えっちらおっちら担(かつ)ぎ上げる御前も御前だね。やっぱりいくら年が違っても親子は爭われないものだ」

「ホホホホ兄さんはよっぽど馬鹿ね」

「馬鹿だって糸公と同じくらいな程度だあね。兄弟だもの」

「おやいやだ。そりゃ私(わたし)は無論馬鹿ですわ。馬鹿ですけれども、兄さんも馬鹿よ」

「馬鹿よか。だから御互に馬鹿よで好いじゃあないか」

「だって証拠があるんですもの」

「馬鹿の証拠がかい」

「ええ」

「そりゃ糸公の大発明だ。どんな証拠があるんだね」

「その盆栽はね」

「うん、この盆栽は」

「その盆栽はね――知らなくって」

「知らないとは」

「私大嫌よ」

「へええ、今度(こんだ)こっちの大発明だ。ハハハハ。嫌(きらい)なものを、なんでまた持って来たんだ。重いだろうに」

「阿父(おとう)さまが御自分で持っていらしったのよ」

「何だって」

「日が中(あた)って二階の方が松のために好いって」

「阿爺(おやじ)も親切だな。そうかそれで兄さんが馬鹿になっちまったんだね。阿爺親切にして子は馬鹿になりか」

「なに、そりゃ、ちょっと。発句(ほっく)?」

「まあ発句に似たもんだ」

「似たもんだって、本当の発句じゃないの」

「なかなか追窮するね。それよりか御前今日は大変立派なものを縫ってるね。何だいそれは」

「これ? これは伊勢崎(いせざき)でしょう」

「いやに光(ぴか)つくじゃないか。兄さんのかい」

「阿爺(おとうさま)のよ」

「阿爺(おとっさん)のものばかり縫って、ちっとも兄さんには縫ってくれないね。狐の袖無(ちゃんちゃん)以後御見限(おみかぎ)りだね」

「あらいやだ。あんな嘘(うそ)ばかり。今着ていらっしゃるのも縫って上げたんだわ」

「これかい。これはもう駄目だ。こらこの通り」

「おや、ひどい襟垢(えりあか)だ事、こないだ着たばかりだのに――兄さんは膏(あぶら)が多過ぎるんですよ」

「何が多過ぎても、もう駄目だよ」

「じゃこれを縫い上げたら、すぐ縫って上げましょう」

「新らしいんだろうね」

「ええ、洗って張ったの」

「あの親父(おとっさん)の拝領ものか。ハハハハ。時に糸公不思議な事があるがね」

「何が」

「阿爺は年寄の癖に新らしいものばかり着て、年の若いおれには御古(おふる)ばかり着せたがるのは、少し妙だよ。この調子で行くとしまいには自分でパナマの帽子を被って、おれには物置にある陣笠(じんがさ)をかぶれと云うかも知れない」

「ホホホホ兄さんは随分口が達者ね」

「達者なのは口だけか。可哀想(かわいそう)に」

「まだ、あるのよ」

 宗近君は返事をやめて、欄干(らんかん)の隙間(すきま)から庭前(にわさき)の植込を頬杖(ほおづえ)に見下している。

「まだあるのよ。一寸(ちょいと)」と針を離れぬ糸子の眼は、左の手につんと撮(つま)んだ合せ目を、見る間(ま)に括(く)けて来て、いざと云う指先を白くふっくらと放した時、ようやく兄の顔を見る。

「まだあるのよ。兄さん」

「何だい。口だけでたくさんだよ」

「だって、まだあるんですもの」と針の針孔(めど)を障子(しょうじ)へ向けて、可愛(かわい)らしい二重瞼(ふたえまぶた)を細くする。宗近君は依然として長閑(のどか)な心を頬杖に託して庭を眺(なが)めている。

「云って見ましょうか」

「う。うん」

 下顎(したあご)は頬杖で動かす事が出来ない。返事は咽喉(のど)から鼻へ抜ける。

「あし。分ったでしょう」

「う。うん」

 紺の糸を唇(くちびる)に湿(しめ)して、指先に尖(とが)らすは、射損(いそく)なった針孔を通す女の計(はかりごと)である。

「糸公、誰か御客があるのかい」

「ええ、甲野の阿母(おっかさん)が御出(おいで)よ」

「甲野の阿母か。あれこそ達者だね、兄さんなんかとうてい叶(かな)わない」

「でも品(ひん)がいいわ。兄さん見たように悪口はおっしゃらないからいいわ」

「そう兄さんが嫌(きらい)じゃ、世話の仕栄(しばえ)がない」

「世話もしない癖に」

「ハハハハ実は狐の袖無(ちゃんちゃん)の御礼に、近日御花見にでも連れて行こうかと思っていたところだよ」

「もう花は散ってしまったじゃありませんか。今時分御花見だなんて」

「いえ、上野や向島(むこうじま)は駄目だが荒川(あらかわ)は今が盛(さかり)だよ。荒川から萱野(かやの)へ行って桜草を取って王子へ廻って汽車で帰ってくる」

「いつ」と糸子は縫う手をやめて、針を頭へ刺す。

「でなければ、博覧会へ行って台湾館で御茶を飲んで、イルミネーションを見て電車で帰る。――どっちが好い」

「わたし、博覧会が見たいわ。これを縫ってしまったら行きましょう。ね」

「うん。だから兄さんを大事にしなくっちゃあ行けないよ。こんな親切な兄さんは日本中に沢山(たんと)はないぜ」

「ホホホホへえ、大事に致します。――ちょっとその物指を借(か)してちょうだい」

「そうして裁縫(しごと)を勉強すると、今に御嫁に行くときに金剛石(ダイヤモンド)の指環(ゆびわ)を買ってやる」

「旨(うま)いのねえ、口だけは。そんなに御金があるの」

「あるのって、――今はないさ」

「いったい兄さんはなぜ落第したんでしょう」

「えらいからさ」

「まあ――どこかそこいらに鋏(はさみ)はなくって」

「その蒲団(ふとん)の横にある。いや、もう少し左。――その鋏に猿が着いてるのは、どう云う訳だ。洒落(しゃれ)かい」

「これ? 奇麗(きれい)でしょう。縮緬(ちりめん)の御申(おさる)さん」

「御前がこしらえたのかい。感心に旨(うま)く出来てる。御前は何にも出来ないが、こんなものは器用だね」

「どうせ藤尾さんのようには参りません――あらそんな椽側(えんがわ)へ煙草の灰を捨てるのは御廃(およ)しなさいよ。――これを借(か)して上げるから」

「なんだいこれは。へええ。板目紙(いためがみ)の上へ千代紙を張り付けて。やっぱり御前がこしらえたのか。閑人(ひまじん)だなあ。いったい何にするものだい。――糸を入れる? 糸の屑(くず)をかい。へええ」

「兄さんは藤尾さんのような方(かた)が好きなんでしょう」

「御前のようなのも好きだよ」

「私は別物として――ねえ、そうでしょう」

「嫌(いや)でもないね」

「あら隠していらっしゃるわ。おかしい事」

「おかしい? おかしくってもいいや。――甲野の叔母(おばさん)はしきりに密談をしているね」

「ことに因(よ)ると藤尾さんの事かも知れなくってよ」

「そうか、それじゃ聴きに行こうか」

「あら、御廃しなさいよ――わたし、火熨(ひのし)がいるんだけれども遠慮して取りに行かないんだから」

「自分の家(うち)で、そう遠慮しちゃ有害だ。兄さんが取って来てやろうか」

「いいから御廃しなさいよ。今下へ行くとせっかくの話をやめてしまってよ」

「どうも剣呑(けんのん)だね。それじゃこっちも気息(いき)を殺して寝転(ねころ)んでるのか」

「気息を殺さなくってもいいわ」

「じゃ気息を活かして寝転ぶか」

「寝転ぶのはもう好い加減になさいよ。そんなに行儀がわるいから外交官の試験に落第するのよ」

「そうさな、あの試験官はことによると御前と同意見かも知れない。困ったもんだ」

「困ったもんだって、藤尾さんもやっぱり同意見ですよ」

 裁縫(しごと)の手を休(や)めて、火熨に逡巡(ためら)っていた糸子は、入子菱(いりこびし)に縢(かが)った指抜を抽(ぬ)いて、色(ときいろ)に銀(しろかね)の雨を刺す針差(はりさし)を裏に、如鱗木(じょりんもく)の塗美くしき蓋(ふた)をはたと落した。やがて日永(ひなが)の窓に赤くなった耳朶(みみたぶ)のあたりを、平手(ひらて)で支えて、右の肘(ひじ)を針箱の上に、取り広げたる縫物の下で、隠れた膝(ひざ)を斜めに崩(くず)した。襦袢(じゅばん)の袖に花と乱るる濃き色は、柔らかき腕を音なく滑(すべ)って、くっきりと普通(つね)よりは明かなる肉の柱が、蝶(ちょう)と傾く絹紐(リボン)の下に鮮(あざや)かである。

「兄さん」

「何だい。――仕事はもうおやめか。何だかぼんやりした顔をしているね」

「藤尾さんは駄目よ」

「駄目だ? 駄目とは」

「だって来る気はないんですもの」

「御前聞いて来たのか」

「そんな事がまさか無躾(ぶしつけ)に聞かれるもんですか」

「聞かないでも分かるのか。まるで巫女(いちこ)だね。――御前がそう頬杖(ほおづえ)を突いて針箱へ靠(も)たれているところは天下の絶景だよ。妹ながら天晴(あっぱれ)な姿勢だハハハハ」

「沢山(たんと)御冷(おひ)やかしなさい。人がせっかく親切に言って上げるのに」

 云いながら糸子は首を支(ささ)えた白い腕をぱたりと倒した。揃(そろ)った指が針箱の角を抑(おさ)えるように、前へ垂れる。障子に近い片頬は、圧(お)し付けられた手の痕(あと)を耳朶(みみたぶ)共にぽうと赤く染めている。奇麗に囲う二重(ふたえ)の瞼(まぶた)は、涼しい眸(ひとみ)を、長い睫(まつげ)に隠そうとして、上の方から垂れかかる。宗近君はこの睫の奥からしみじみと妹に見られた。――四角な肩へ肉を入れて、倒した胴を肘(ひじ)に撥(は)ねて起き上がる。

「糸公、おれは叔父さんの金時計を貰う約束があるんだよ」

「叔父さんの?」と軽く聞き返して、急に声を落すと「だって……」と云うや否や、黒い眸は長い睫の裏にかくれた。派出(はで)な色の絹紐(リボン)がちらりと前の方へ顔を出す。

「大丈夫だ。京都でも甲野に話して置いた」

「そう」と俯目(ふしめ)になった顔を半ば上げる。危ぶむような、慰めるような笑が顔と共に浮いて来る。

「兄さんが今に外国へ行ったら、御前に何か買って送ってやるよ」

「今度(こんだ)の試験の結果はまだ分らないの」

「もう直(じき)だろう」

「今度は是非及第なさいよ」

「え、うん。アハハハハ。まあ好いや」

「好(よ)かないわ。――藤尾さんはね。学問がよく出来て、信用のある方(かた)が好きなんですよ」

「兄さんは学問が出来なくって、信用がないのかな」

「そうじゃないのよ。そうじゃないけれども――まあ例(たとえ)に云うと、あの小野さんと云う方があるでしょう」

「うん」

「優等で銀時計をいただいたって。今博士論文を書いていらっしゃるってね。――藤尾さんはああ云う方が好なのよ」

「そうか。おやおや」

「何がおやおやなの。だって名誉ですわ」

「兄さんは銀時計もいただけず、博士論文も書けず。落第はする。不名誉の至(いたり)だ」

「あら不名誉だと誰も云やしないわ。ただあんまり気楽過ぎるのよ」

「あんまり気楽過ぎるよ」

「ホホホホおかしいのね。何だかちっとも苦(く)にならないようね」

「糸公、兄さんは学問も出来ず落第もするが――まあ廃(よ)そう、どうでも好い。とにかく御前兄さんを好い兄さんと思わないかい」

「そりゃ思うわ」

「小野さんとどっちが好い」

「そりゃ兄さんの方が好いわ」

「甲野さんとは」

「知らないわ」

 深い日は障子を透(とお)して糸子の頬を暖かに射る。俯向(うつむ)いた額の色だけがいちじるしく白く見えた。

「おい頭へ針が刺さってる。忘れると危ないよ」

「あら」と翻(ひるが)える襦袢(じゅばん)の袖(そで)のほのめくうちを、二本の指に、ここと抑(おさ)えて、軽く抜き取る。

「ハハハハ見えない所でも、旨(うま)く手が届くね。盲目(めくら)にすると疳(かん)の好い按摩(あんま)さんが出来るよ」

「だって慣(な)れてるんですもの」

「えらいもんだ。時に糸公面白い話を聞かせようか」

「なに」

「京都の宿屋の隣に琴(こと)を引く別嬪(べっぴん)がいてね」

「端書(はがき)に書いてあったんでしょう」

「ああ」

「あれなら知っててよ」

「それがさ、世の中には不思議な事があるもんだね。兄さんと甲野さんと嵐山(あらしやま)へ御花見に行ったら、その女に逢ったのさ。逢ったばかりならいいが、甲野さんがその女に見惚(みと)れて茶碗を落してしまってね」

「あら、本当? まあ」

「驚ろいたろう。それから急行の夜汽車で帰る時に、またその女と乗り合せてね」

「嘘(うそ)よ」

「ハハハハとうとう東京までいっしょに来た」

「だって京都の人がそうむやみに東京へくる訳がないじゃありませんか」

「それが何かの因縁(いんねん)だよ」

「人を……」

「まあ御聞きよ。甲野が汽車の中であの女は嫁に行くんだろうか、どうだろうかって、しきりに心配して……」

「もうたくさん」

「たくさんなら廃(よ)そう」

「その女の方(かた)は何とおっしゃるの、名前は」

「名前かい――だってもうたくさんだって云うじゃないか」

「教えたって好いじゃありませんか」

「ハハハハそう真面目(まじめ)にならなくっても好い。実は嘘(うそ)だ。全く兄さんの作り事さ」

「悪(にく)らしい」

 糸子はめでたく笑った。




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