ヴィクトル・ユゴー 死刑囚最後の日


       一六

 病室でわずかな時間をすごしたとき、私は窓のそばに座って、日の光に――日の光がまた射してきたのだった――あたっていたことがある。あるいは少なくとも、窓の鉄格子がもらしてくれる日光を受けていたことがある。

 私はそこで、重い燃えるような頭を、支えかねる両手でかろうじて支え、両肱(ひじ)を膝につき、両足先を椅子の桟(さん)にかけていた。というのも、喪心の極、四肢には骨がなくなり肉には筋肉がなくなったかのように、かがみこみ折れまがってしまったのだ。

 私は監獄のよどんだ臭いにいつもよりひどく息苦しさを覚え、耳にはなお徒刑囚らの鎖の音が残っており、ビセートル全体の大きなものうさを感じていた。そしてもし善良な神があったら、私を憐れんでくれて、せめて一羽の小鳥でも私に送って、そこで、正面のところで、屋根のへりで、さえずらせてくれるはずだが、というように思われた。

 その私の願いをききとどけてくれたのは、はたして善良な神だか悪魔だかわからないが、ほとんどその時すぐに、窓の下に、一つの声がおこってくるのが聞こえた。小鳥の声ではなかったが、もっとよいもので、十五、六歳の小娘の清い爽やかな柔かな声だった。私は飛びたつように頭をあげて、彼女が歌ってる唄にむさぼるように耳をすませた。それはゆるやかな弱々しい節(ふし)で、悲しい哀れっぽい一種のさえずりで、文句はつぎのとおりだった。――〔(次の唄の言葉は隠語交りであるが、そのまま日本の隠語交りに翻訳することは至難であるから、だいたい普通の言葉に訳出する。しかし隠語交りの唄であることを頭において読んでいただきたい。)〕

マイユ街にて

俺は捕えられた、

    マリュレ、

三人の憲兵に、

  リルロンファ・マリュレット、

おっ伏せられた、

  リルロンファ・マリュレ。

 私の失望がどんなに苦々しいものであったか、言葉にはつくされない。歌声はなおつづいた。

おっ伏せられた、

    マリュレ。

手錠もらった、

  リルロンファ・マリュレット。

刑事がやってきた、

  リルロンファ・マリュレ。

途中で出会った、

  リルロンファ・マリュレット、

町内のどろぼう、

  リルロンファ・マリュレ。
町内のどろぼう、

    マリュレ。

――行って女房に言っとくれ、

  リルロンファ・マリュレット、

俺は上げられちまったと、

  リルロンファ・マリュレ。

女房は腹立ち、

  リルロンファ・マリュレット。

俺に言う、何をしたんだ?

  リルロンファ・マリュレ。

俺に言う、何をしたんだ?

    マリュレ。

――俺はばらした、一人の野郎を、

  リルロンファ・マリュレット、

剥(は)いでやった、そいつの金を、

  リルロンファ・マリュレ。

そいつの金と時計とを、

  リルロンファ・マリュレット、

それから靴の留金を、

  リルロンファ・マリュレ。

それから靴の留金を、

    マリュレ。――

女房は出かける、ヴェルサイユ、

  リルロンファ・マリュレット、

国王陛下の足もとに、

  リルロンファ・マリュレ。

請願一つたてまつる、

  リルロンファ・マリュレット、

俺を放免してもらおうと、

  リルロンファ・マリュレ。

俺を放免してもらおうと、

    マリュレ。

――ああそれで放免されたなら、

  リルロンファ・マリュレット、

女房を飾ってやろうもの、

  リルロンファ・マリュレ。

つけさせようよ、蝶々リボン、

  リルロンファ・マリュレット、

靴には革のほこりよけ、

  リルロンファ・マリュレ。

靴には革のほこりよけ、

    マリュレ。

けれども王様いらだって、

  リルロンファ・マリュレット、

言うことに――どうでもこうでも、

  リルロンファ・マリュレ、

彼女をひとつ踊らせなくては、

  リルロンファ・マリュレット、

床なしの宙ぶらりんで、

  リルロンファ・マリュレ。――


 唄はそれから先は聞こえなかった。聞こえても私は聞くにたえなかったろう。その恐ろしい哀歌のなかばわからない意味、盗賊と警官とのその争闘、盗賊が途中で出会って女房のところへ差し立てるその盗人、俺は一人の男を殺害して捕縛された――樫の木に汗を流さしてくらいこんだ、というその恐るべき使命、請願をもってヴェルサイユの宮殿へ駆けてゆくその女房、床なしの宙踊りをさせるぞと罪人を威嚇(いかく)するその憤った陛下……しかもそれらのことが、およそ人の聞きうるもっともやさしい調子ともっともやさしい声とで歌われたのである。私は胸をえぐられ凍(こご)えあがり参らされてしまった。それらの恐ろしい言葉が小娘のまっかな鮮やかな口から出てくるというのは、たえがたいことだった。ばらの花になめくじの粘液がついているようなものだった。

 私がどういう気持を覚えたかを書き表わすことはできそうもない。私は傷つけられるとともに慰撫された。賊の巣窟と徒刑場との方言、血まみれの奇怪なその言葉、子供の声と女の声との微妙な中間にある若い娘の声に合わさっている、その醜悪な隠語、うたわれ調子をとられ真珠をちりばめられている、すべてそれらの奇形な不恰好な言葉よ!

 ああ、いかに監獄というものはけがらわしいものであることか。そこにはあらゆるものを汚す一つの毒液がある。すべてが、十五歳の娘の唄でさえも、そこでは色あせてしまう。そこで小鳥を一羽見つければ、翼に泥がついている。そこできれいな花を一つ摘んで嗅げば、くさい臭いがする。




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