二一
今はもう私は平静である。万事終った、すっかり終った。典獄が訪れてきたため恐ろしい不安におちいったが、もうそれからも出てしまった。うちあけて言えば、前には私はまだ希望をいだいていた。――今や、ありがたいことには、もう何の希望もなくなった。
次のようなことがおこったのである。
六時半が鳴ってる時に――いや、六時十五分だった――私の監房の扉はまた開かれた。褐色のフロックを着た白髪の老人がはいってきた。老人はフロックの前をすこし開いた。法衣と胸飾りとを私は見てとった。老人は司祭だった。
その司祭は監獄の教誨師(きょうかいし)ではなかった。不吉なことだった。
彼は好意ある微笑をうかべて私と向かいあって座った。それから頭を振って、目を天のほうへ、すなわち監房の天井のほうへあげた。私はその意を悟った。
「用意はしていますか。」と彼は私に言った。
私は弱い声で答えた。
「用意はしていませんが、覚悟はしています。」
それでも、私の視線は乱れ、冷たい汗が一度に全身から流れ、こめかみのあたりが脹(ふく)れあがる気がし、ひどい耳鳴りがした。
私が眠ったように椅子の上にぐらついているあいだ、善良な老人は口をきいていた。少なくとも口をきいてるように私には思えた。その唇がふるえその手が動きその目が光ってるのを、私は見たように覚えている。
扉は再度開かれた。その閂の音で、私はぼうぜんとしていたのから我にかえり、老人は話をやめた。黒い服をつけた相当な人が、典獄を従えてやってきて、私にていねいに会釈をした。その顔は、葬儀係りの役人めいたある公式の悲哀を帯びていた。彼は手に一巻の紙を持っていた。
「私は、」と彼は慇懃(いんぎん)な微笑をうかべて私に言った、「パリ法廷づきの執達吏です。検事長殿からの通牒を持って来ました。」
最初の惑乱はもう過ぎ去っていた。私はすっかりもとの沈着にかえっていた。
「検事長がそんなに私の首をほしがったのですか。」と私は答えた。「通牒を書いてくれたのは、私にとって光栄の至りです。私の死が彼に大きな喜びをもたらさんことを希望します。彼があれほど熱心に要求してる私の死が、じつは彼にとってどうでもよいことだなどとは、どうにも考えられませんからね。」
私はすっかりそう言って、それからしっかりした声でつづけた。
「読んでください。」
彼はその長い主文を、各言葉のまんなかではためらうように、各行の終りではうたうようにして、私に読んできかした。それは私の上告の却下だった。
「判決は今日グレーヴの広場で執行されることになっています。」と彼は読み終えた時まだその公文書から目をあげないで言い添えた。「正七時半にコンシエルジュリーへ出かけるのです。私と一緒に来ていただけますか。」
すこし前から私はもう彼の言葉に耳をかしていなかった。典獄は司祭と話をしていた。執達吏はその公文書の上に目をすえていた。私は扉のほうを眺めていた。扉は半開きのままになっていた……。ああ、あさましくも、廊下には四人の銃卒が!
執達吏はこんどは私のほうを見ながらその問いをくりかえした。
「ええ、いつでも。」と私は答えた。「ご都合しだいで。」
彼は私に会釈しながら言った。
「三十分ほど後に、迎えにまいりましょう。」
そこで彼らは私ひとり残して出ていった。
逃げる方法が、ああ、なんらかの方法がないものか。私は脱走しなければならない。ぜひとも、直ちに、扉や、窓や、屋根を越して、たといそれらの構桁(こうげた)に自分の肉を残そうとも!
おお、畜生、悪魔、呪われてあれ! この壁を破ることは立派な道具でしても数か月はかかるだろう。しかるに私には一本のくぎもない、一時間の余裕もない。
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