ヴィクトル・ユゴー 死刑囚最後の日


       四八

市庁の一室にて
 市庁にて!――私はこうして市庁に来ている。呪うべき道程はなされた。広場はすぐそこにある。窓の下には嫌悪すべき人群が吠えている、私を待っている、笑っている。

 私はいかに身を固くしても、いかに身をひきしめても、やはり気がくじけてしまった。群集の頭越しに、黒い三角刃を一端に具えてるあの二本の赤い柱が、河岸の街灯のあいだにつっ立っているのを見た時、私は気がくじけてしまった。私は最後の申立てをしたいと求めた。人々は私をここに置いて、検事か誰かを呼びに行った。私はそれが来るのを待っている。とにかくそれだけ猶予を得るわけだ。

 これまでのことを述べておこう。

 三時が鳴ってる時、時間だと私に知らせに人が来た。私は六時間前から、六週間前から、六か月も前から、他のことばかり考えていたかのように、ぞっと震えた。何だか意外なことのような感じがした。

 彼らは私にいくつもの廊下を通らせ、いくつもの階段を降りさせた。彼らは私を一階の二つのくぐり戸のあいだに押し入れた。薄暗い狭い円天井の室で、雨と霧の日の弱い明るみだけがほのかにさしていた。室のまんなかに椅子が一つあった。彼らは私に座れと言った。私は座った。

 扉のそばと壁にそって、司祭と憲兵らのほかになお、数人の者が立っていた。三人のあいつらもいた。

 三人のうち最初のは、いちばん背が高く、いちばん年長で、あぶらぎって赤い顔をしていた。フロックを着て、変な形の三角帽をかぶっていた。そいつがそうだった。

 そいつが死刑執行人、断頭台の給仕だった。他の二人はそいつについてる助手だった。

 私が腰をおろすや否や、その二人が後ろから猫のように近寄ってきた。それから突然、私は刃物の冷たさを髪のなかに感じた。はさみの音が耳に響いた。

 私の髪の毛は手当りしだいに切られて、ひと房ずつ肩の上に落ちた。三角帽の男はそれを太い手で静かにはらいのけた。

 周囲では人々が低い声で話していた。

 戸外には、空中にうねってる振動のような大きな音がしていた。私ははじめそれを河の音と思った。しかしどっとおこる笑い声を聞いて、群集であることがわかった。

 窓のそばにいて手帳に鉛筆で何か書いてた若い男が、看守の一人にそこでなされてる事柄は何というのかたずねた。

「受刑人の身じたくです。」と看守は答えた。

 それが明日の新聞に出ることを私は悟った。

 突然助手の一人は私の上衣を脱ぎ取った。もう一人の助手は私の垂れてる両手をとらえ、それを背後にまわさせた。そして私は合わさってるその両の手首のまわりに、綱の結び目が徐々にできてくるのを感じた。と同時に、一方の助手は私のネクタイをといた。昔の私自身の唯一のなごりの布きれであるバチスト織のシャツに、彼はちょっと躊躇(ちゅうちょ)したらしかった。が、やがてそのシャツのえりを切りはじめた。

 私はその恐ろしい用心を見てとり、首にふれる刃物の感触が身にしみて、両肱がふるえ、息をつめたうなり声をもらした。えりを切ってる男の手はふるえた。

「どうか、ごめんください。」と彼は私に言った。「どこか痛かったのですか。」

 その死刑執行人はきわめて穏和な人間だ。

 群集は外部でますます高くわめいていた。

 顔に吹出物のある大きな男は、私に嗅がせるため酢にひたしたハンカチを差し出した。

「ありがとう。」と私はできるだけ強い声で彼に言った。「それにはおよびません。大丈夫です。」

 すると彼らの一人は身をかがめて、小股でしか歩かれないようなふうに、私の両足を巧妙にゆるく縛った。その綱は両手の綱へ結びつけられた。

 それから大きな男は、上衣を私の背に投げかけ、その両袖の先を私のあごの下でゆわえた。なすべきことはすっかりなされた。

 そこで司祭が十字架像を持って近寄ってきた。

「さあ、あなた。」と彼は私に言った。

 死刑執行人の助手たちは私の両脇をとらえた。私は持ちあげられて歩いた。私の足には力がなく、両方に膝が二つずつもあるかのようにまがった。

 その時、外部に通ずる戸口の両の扉がさっと開かれた。激しい喧騒の声と冷たい空気と白っぽい光とが、影のなかに私のところへまではいりこんできた。私は薄暗い戸口の奥から、雨のなかをすかして、すべてを急に一度に見てとった。パレ・ド・ジュスティスの大階段の斜面にごっちゃに積み重なってる人々の、喚き立ててる無数の頭。右手には、入口と同平面に、戸口が低いので私には馬の前足と胸としか見えないが、騎馬の憲兵の一列。正面には、展開している一隊の兵士。左手には、急なはしごが立てかけてある荷馬車の後部。すべて監獄の戸口にはめこまれた一幅の醜悪な画面だ。

 その恐るべき瞬間のために私は勇気をたくわえておいたのだった。私は三歩進んで、くぐり戸の出口にあらわれた。

「あれだ、あれだ!」と群集は叫んだ。「とうとう、出てきた。」

 そして私に近い者らは手をたたいた。人民からいかに愛されてる国王であろうと、これほどの歓迎はされないだろう。

 車はふつうの荷馬車で、痩(や)せこけた馬が一頭つけられていて、ビセートル付近の野菜作りらが着るような赤い模様の青の上っ張りを着てる、荷馬車ひきが一人ついていた。

 三角帽の大きな男がまっ先に乗った。

「こんにちは、サンソン先生!」と鉄柵にぶらさがってる子供らは叫んだ。

 一人の助手が彼につづいて乗った。

「ひやひや、どんたく先生!」と子供らはまた叫んだ。

 彼らは二人とも前部の腰かけに座った。

 こんどは私の番だった。私はかなりたしかな態度で馬車に乗った。

「しっかりしてる!」と憲兵のそばの一人の女が言った。

 その不逞(ふてい)な賛辞は私を元気づけた。司祭が私のそばに来て席を占めた。私は馬のほうに背を向けて後ろむきに、後部の腰かけに座らされたのだった。そういう最後の注意を見てとって私はぞっとした。

 彼らはそれを人情のあることだとしている。

 私はあたりを見まわしてみた。前には憲兵ら、後にも憲兵ら、それから群集に群集に群集、広場の上はまるで人の頭の海だった。

 鉄門のところに、騎馬の憲兵の一隊が私を待っていた。

 将校は命令をくだした。荷馬車とつきそいの行列とは、いやしい群集の喚声で押し進められるように動きだした。

 鉄門を通過した。馬車がポン・トー・シャンジュのほうへまがった時、広場じゅうが敷石から屋根に至るまでどっとわき立ち、ほうぼうの橋と河岸とがこたえ合って、地震のような騒ぎになった。

 そこで、待ってる憲兵の一隊が護衛に加わった。

「帽子取れ、帽子取れ!」と無数の声が一緒に叫んでいた。――国王に対してのようだ。

 そこでこの私までがひどく笑った。そして司祭に言った。

「彼らのほうは帽子だが、私のほうは頭です。」

 一同は並足で進んでいった。

 花物河岸は香りを立てていた。花市の日だった。花売娘らは花をすてて私のほうに駆けだしてきた。

 真正面に、パレ・ド・ジュスティスの角となってる四角な塔のすこし前方に数軒の居酒屋があって、その中二階は好位置だというので見物人でいっぱいだった。ことに女が多かった。居酒屋にとっては上乗の日にちがいない。

 テーブルや椅子やふみ台や荷車などが貸し出されていた。どれにもみなしなうほど見物人が乗っていた。人の血をあてこんだ商人らが声のかぎりに叫んでいた。

「席のいるかたはありませんか。」

 そういう群集に対して私は憤激を覚えた。彼らにむかって叫んでやりたかった。

「俺の席のほしい者はないか。」

 そのうちにも馬車は進んでいた。馬車が進むにつれて、群集はその後ろから崩れていって、私の道すじの遠くのほうに行ってまた集まるのが、私の茫然とした目にも見えた。

 ポン・トー・シャンジュの橋にさしかかった時、私はふと右手後ろのほうを見やった。するとむこう岸に、人家の上方に、彫像のいっぱいついている黒い塔が一つぽつりと立ってるのが目についた。その頂上に、横向きに座ってる二つの石の怪物が見えていた。なぜだかわからないが、私はそれが何の塔だか司祭にたずねた。

「サン・ジャック・ラ・ブーシュリーの塔です。」と死刑執行人は答えた。〔ラ・ブーシュリーは普通の言葉では屠殺所のこと。〕

 靄(もや)がかかっていたし、こまかな白い雨脚が蜘蛛(くも)の巣をはったようになっていたが、それでも周囲に起こることはみな、どうしてだかわからないが、なにひとつ私の目をのがれなかった。そしてそのひとつひとつの事柄が私を悩ました。その感じはとうてい言葉にはつくされない。

 ポン・トー・シャンジュの橋は広かったが、やっとのことでしか通れないほど人でいっぱいになっていた。その橋の中ほどで、私は急激な恐怖の念に襲われた。私は気を失いはしないかと心配した。最後の見栄(みえ)だ。で私は自ら自分をごまかして、なにも見ずなにも聞かないで、ただ司祭のほうだけに心を向けようとした。が、司祭の言葉は、喧騒のためとぎれてよく聞こえなかった。

 私は十字架像を取ってそれに接吻した。

「御慈悲を、神よ!」と私は言った。――そしてその一念のうちに沈潜しようとつとめた。

 しかし冷酷な荷馬車の動揺は私の心をゆすった。それから突然私はひどい寒さを覚えた。雨はもう服をしみ通していたし、みじかく刈られた髪を通して頭の皮膚をぬらしていた。

「寒さにふるえていますね、あなた。」と司祭は私にたずねた。

「ええ。」と私は答えた。

 悲しいかな、ただ寒さのためばかりではなかった。橋からまがってゆく角のところで、私の若さを女どもが憐れんでくれた。

 私たちは最後の河岸に進んだ。私はもう目が見えず耳が聞こえなくなりはじめた。それらの人声、窓や戸口や商店の格子窓や街灯の柱などに積み重なってるそれらの頭、貪欲な残忍なそれらの見物人、皆が私を知っていて私のほうでは一人も知らないその群集、敷石も壁も人の顔でできてるその街路……私は酔わされ、茫然とし、白痴のようになっていた。あれほど多くの人の目が自分の上にのしかかってくることは堪えがたいものである。

 私は腰かけの上にふらふらして、もう司祭にも十字架にも注意をかさなかった。

 周囲の騒擾(そうじょう)のなかに、憐れみの叫びと喜びの叫びとを、笑いと嘆きとを、人声と物音とを、私はもう聞きわけられなかった。それらはみな一つの轟きとなって、銅の太鼓の中のように私の頭のなかに鳴りわたった。

 私の目は機械的に商店の看板を読んでいた。

 一度私は異様な好奇心にかられて、自分の進んでるほうをふりむいて見ようとした。それが、私の知性の最後の挑戦だった。しかし体はいうことをきかなかった。私の首すじは麻痺(まひ)して、前もって死んだようになっていた。

 私はただ横手に、左のほうに、河のむこうに、ノートル・ダームの塔をちらと見ただけだった。そこから見ると、その塔はもう一つの塔を隠している。見えるのは旗の立った塔だけだ。塔の上には多くの人がいた。彼らはよく見えたにちがいない。

 そして荷馬車はますます進んでゆき、商店はつぎつぎに通りすぎ、看板は書いたのや塗ったのや金色のがひきつづき、いやしい群集は泥のなかで笑い躍った。そして私は、眠ってる者が夢のままになるように、連れてゆかれるままに自分をまかせた。

 突然、私の目に映っていた商店の軒なみは、一つの広場の角で切れた。群集の声はなおいっそう広く甲高く愉快そうになった。馬車は急にとまった。私はうつむけに倒れかかった。司祭が私を支えてくれた。

「しっかりなさい。」と彼は囁いた。その時馬車の後部に梯子(はしご)が持ってこられた。司祭は私に腕をかした。私は降りた。それから一足歩いた。次に向きなおってもう一足歩こうとした。が足は進まなかった。河岸の街灯のあいだに、すごいものを見てとったのである。

 おお、それは現実だった!

 私はもうその打撃を受けてよろめいてるかのように立ちどまった。

「最後の申し立てをしたい。」と私はよわよわしく叫んだ。

 彼らは私をここに連れてきた。

 私は最後の意志を書かせてくれと願った。彼らは私の手を解いてくれた。しかし綱はいつでも私を縛るばかりになってここにあるし、その他のものは、あすこに、下のほうにある。




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