ヴィクトル・ユゴー 死刑囚最後の日


       五

 到着するかしないうちに、鉄の手が私をつかみ取った。人々は注意に注意を重ねた。私の食事にはナイフもフォークもなかった。緊束衣(きんそくい)が、一種の帆布の袋が、私の両腕を捉(とら)えた。人々は私の生命について責めを帯びてるのだった。私の事件は上告してあった。そのやっかいな事柄がまだ六、七週間はかかるはずだったし、またグレーヴの広場のために私を無事に保存しておくことが大切だった。

 初めの数日間私はやさしく取り扱われた。それがかえって私には恐ろしく思えた。看守の敬意は死刑台を思わせるものだ。が、しあわせにも数日たつと、また習慣どおりになった。彼らは私を他の囚人らと一緒に暴虐に取り扱い、私の目に絶えず死刑執行人を映らせるような、不馴(な)れなていねいな区別をもうしなかった。よくなったのはそのことばかりではなかった。私の若さ、私の従順さ、監獄教誨師(きょうかいし)の世話、それからことに、わかりもしない門衛に私が言ってやったラテン語の数語、そんなもののために私は、他の囚人らとともに一週一回散歩することが許され、身動きのできなかった緊束衣もつけずにすんだ。いろいろ躊躇(ちゅうちょ)されたのちに、インキと紙とペンも与えられ、夜のランプも与えられた。

 毎日曜日には、ミサの式の後で、休息の時間に、私は中庭に放たれる。そこで私は囚人らと話をする。話をせずにはいられないものだ。彼らは、そのみじめな者たちは、みな善良である。彼らはその仕事を私に話してきかせる。聞いてると恐ろしいほどであるが、しかし彼らが自慢誇張してることを私は知っている。彼らは私に隠語を話すことを、彼らの言葉でいえば赤舌をたたくことを教えてくれる。それは一般の言葉の上につぎ合わした一つの言葉であって、見苦しい瘤(こぶ)のようなものであり、疣(いぼ)のようなものである。時とするとふしぎな力をそなえ、恐ろしい光景を見せる。リボンの上にジャムがある――道の上に血がある。後家をめとる――絞首される。あたかも首吊り台の縄はすべての被絞首者の寡婦(かふ)であるかのようだ。盗人の頭は二つの名前をもっている。考えたり理屈をこねたり罪悪をすすめたりする時には、ソルボンヌ大学と言い、死刑執行人に切られる時には、切株となる。また時とすると、通俗喜劇めいた才気を示すこともある。柳の肩掛け――屑屋の負籠(おいかご)。嘘つき――舌。またいたるところに絶えず由来のわからない奇態なふしぎな醜い下品な言葉が出てくる、かなとこ――死刑執行人。松ぼっくり――死。押入れ――死刑場。まるで蟇(がま)や蜘蛛(くも)の言葉のようだ。その言葉が話されるのを聞く時には、何か汚ならしい埃まみれのもののような気がし、ひとたばのぼろ布を顔の前で打ち振られるような気がする。

 少なくともその男たちは私を憐れんでくれる。その男たちだけだ。獄吏や看守や鍵番らは――私はそれを怨(うら)むのではないが――話し合ったり笑ったりしていて、私の前ででも私のことを一個の物のように話している。




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