真夜中頃であります。とん、とん、と誰か戸を叩く者がありました。年よりのものですから耳敏(さと)く、その音を聞きつけて、誰だろうと思いました。
「どなた?」と、お婆さんは言いました。
けれどもそれには答えがなく、つづけて、とん、とん、と戸を叩きました。
お婆さんは起きて来て、戸を細目にあけて外を覗きました。すると、一人の色の白い女が戸口に立っていました。
女は蝋燭を買いに来たのです。お婆さんは、少しでもお金が儲かるなら、決していやな顔付(かおつき)をしませんでした。
お婆さんは、蝋燭の箱を出して女に見せました。その時、お婆さんはびっくりしました。女の長い黒い頭髪(かみ)がびっしょりと水に濡れて月の光に輝いていたからであります。女は箱の中から、真赤な蝋燭を取り上げました。そして、じっとそれに見入っていましたが、やがて銭を払ってその赤い蝋燭を持って帰って行きました。
お婆さんは、燈火(あかり)のところで、よくその銭をしらべて見ますと、それはお金ではなくて、貝殻(かいがら)でありました。お婆さんは、騙されたと思うと怒って、家(うち)から飛び出して見ましたが、もはや、その女の影は、どちらにも見えなかったのであります。
その夜のことであります。急に空の模様が変って、近頃にない大暴風雨となりました。ちょうど香具師が、娘を檻の中に入れて、船に乗せて南の方の国へ行く途中で沖合にあった頃であります。
「この大暴風雨では、とてもあの船は助かるまい」と、お爺さんと、お婆さんは、ふるふると震えながら話をしていました。
夜が明けると沖は真暗で物凄い景色でありました。その夜、難船をした船は、数えきれない程でありました。
不思議なことに、赤い蝋燭が、山のお宮に点(とも)った晩は、どんなに天気がよくても忽(たちま)ち大あらしになりました。それから、赤い蝋燭は、不吉ということになりました。蝋燭屋の年より夫婦は、神様の罰が当ったのだといって、それぎり蝋燭屋をやめてしまいました。
しかし、何処からともなく、誰が、お宮に上げるものか、毎晩、赤い蝋燭が点りました。昔は、このお宮にあがった絵の描いた蝋燭の燃えさしを持ってさえいれば、決して海の上では災難に罹(かか)らなかったものが、今度は、赤い蝋燭を見ただけでも、その者はきっと災難に罹って、海に溺(おぼ)れて死んだのであります。
忽ち、この噂が世間に伝わると、もはや誰も、山の上のお宮に参詣する者がなくなりました。こうして、昔、あらたかであった神様は、今は、町の鬼門となってしまいました。そして、こんなお宮が、この町になければいいのにと怨(うら)まぬものはなかったのであります。
船乗りは、沖から、お宮のある山を眺めて怖れました。夜になると、北の海の上は永(とこしえ)に物凄うございました。はてしもなく、何方(どっち)を見まわしても高い波がうねうねとうねっています。そして、岩に砕けては、白い泡が立ち上っています。月が雲間から洩れて波の面を照らした時は、まことに気味悪うございました。
真暗な、星も見えない、雨の降る晩に、波の上から、蝋燭の光りが、漂って、だんだん高く登って、山の上のお宮をさして、ちらちらと動いて行くのを見た者があります。
幾年も経たずして、その下の町は亡(ほろ)びて、失(なく)なってしまいました。