萩原朔太郎 青猫



      自由詩の價値

 自由詩のリズムとその本質に就いては、既に前章で大要を説きつくした。しかしながら「自由詩の價値」に就いては尚多くの疑問と宿題とが殘されて居る。最後の問題として、簡單に一言しよう。

 本來、自由詩の動機は、文藝上に於ける自由主義の精神から流出してゐる。自由主義の精神! それは言ふ迄もなく形式主義に對する叛逆である。「形式よりも内容を」と、かく自由主義の標語は叫ぶ。しかしながら元來、藝術にあつては形式と内容とが不二である。形式と内容とは、しかく抽象的に離して考へらるべきものでない。形式は外殼であり、内容は生命であると考ふる如きは、肉體と靈魂を二元的に見た古代人の生命觀の如く、最も笑ふべき幼稚な妄想に屬する。文藝上に於ける形式主義と自由主義とは、もとよりその本質的價値に於て何等の優劣もない。なぜならば彼等の意識する美は――即ち彼等の趣味は――始から互にその特色を別にする。そしてこの趣味の相異が、各各の主義の分派となつて現はれた。事實はかうである。形式主義とは、空間的、繪畫的の美を愛する一派の趣味である。この趣味の表現にあつては、必然的に形式が重大な要素となる。否、形式の完美が即ち内容それ自身である、之れに對して自由主義とは、時間的、音樂的の美を愛溺する主觀派である。この趣味の表現では何等形式上の美を必要としない。彼等の求めるものは感情や氣分の肉感的發想である。そしてこの要求の故に、彼等は形式美を排斥して所謂内容(感情や氣分)の自由發想を主張する。

 近代に於ける藝術の潮流は、實に形式主義――それは古代の希臘藝術やゴシツク建築やによつて高調された――の衰退から、次いで新興した自由主義の優勢を示してゐる。あらゆる藝術の傾向は、すべて「眼で見る美」よりは「心で聽く美」、「形式の完美」よりは「感情の充實」、即ち一言にして言へば「繪畫より音樂へ」の潮流に向つて流れて居る。かのあらゆる一切の形相を假象として排斥し、ひたすら時間上の實在性を捕捉しようとした象徴主義、藝術上に於ける音樂至上主義を主張した象徴主義の如きも、實にこの時流的自由主義の精神を極端に高調したものに外ならぬ。

 自由詩は實にかくの如き精神によつて胎出された。したがつて自由詩は、本質的に主觀的、感情的、象徴的、音樂的である。自由詩の趣味は、根本的に古典派や高踏派と一致しない。此等の詩派が形式の美を尊重するのは、彼等の内容から見て必然である。彼等にとつて「形式の美」は即ち「内容の美」である。然るに自由詩は、何等空間的の形式美を必要としない。なぜならば自由主義の美は、空間的の繪畫美でなくして時間的の音樂美であり、その形式は「眼に映る形式」でなく「感じられる形式」を意味するから。

 以上の如き精神は、實に自由詩の根本哲學である。この哲學によつて、自由詩は定律詩に戰を挑んだ。これによつて定律詩のあらゆる形式を破壞しようと試みた。確かに、この戰爭は――その優勢なる時代的潮流に乘じて居る限り――自由詩のために有利であつた。一時殆んど定形詩派は蟄伏されてしまつた。しかしながら最近、歐羅巴の詩壇に於てその猛烈な反動が現はれた。かの新古典派や新定律詩派の花花しい運動が之れである。最も致命的な逆襲は、象徴主義そのものに對する一派の著しい反感である。象徴主義にして否定されんか、自由詩の唯一の城塞は根柢から覆されてしまふ。

 自由詩に對する定律派の非難は、それが不完全なる未成品の藝術にすぎないと言ふにある。實例としても、自由詩の多くは散文的惰氣に類して、その眞に成功し、詩としての十分な魅惑を贏ち得たものは、僅かに少數を數へるに過ぎない。しかもその少數の成功も多くは偶然の結果である。これによつて見ても、自由詩は藝術的未成品であると彼等は言ふ。特に新定律詩派の如きは、自由詩を目して明かに過渡期の者と稱して居る。彼等の説に依れば、詩の發育の歴史は、原始の單純素樸なる自然定律の時代から、未來の複雜にして高遠なる新定律の形式に移るべきで、自由詩はこの中間に於ける過渡期の不定形律にすぎない。それは過去の幼稚なる詩形の破壞を目的とする限りに於て啓蒙時代の産物である。それ自身に於ては獨立せる創造的價値を持たないと。もし自由詩にして、單に定律詩形の破壞を目的とし、その意味での自由を叫ぶ以外、それ自身の獨立した詩學を持たないならば確かに彼等の言ふ如き無價値のものであらう。けだし藝術に於ける「型」の破壞は、多くの場合、次いで現はるべき「型」への創造を豫備するからである。

 しかしながら自由詩に對する、一つの最も恐るべき毒牙は、直接我我の急所に向つて噛みついてくる。既に述べた如く、自由詩の特色はその「旋律的な音樂」にある。心内の節奏と言葉の節奏との一致、情操に於ける肉感性の高調的表現、これが自由詩の本領である。故に自由詩のリズムは、自然に旋律的なものになつてくる。旋律本位になつてくる。したがつてまた非拍節的なものになつてくる。即ち格調の曖昧な、拍子の不規則な、タクトの散漫で響の弱いものとして現はれる。しかしてかくの如きは、一面自由詩の長所であると同時に、一面實にその著しい缺點である。およそ自由詩を好まない所の人――自由詩は音樂的でないといふやうな人――は、すべて皆この短所に向つて反感を抱くのである。

 拍節の不規則からくる、このタクトの薄弱な結果は、詩をして甚だしく力のない弱弱しいものにしてしまふ。「自由詩は何となく散文的で薄寢ぼけてゐる」といふ一般の非難は正當である。自由詩にはこの「力」がない。したがつてそれは多く散文的な薄弱な感じをあたへる。之に反して定律詩の強味は、その拍節の明確な響からくる力強い躍動にある。多くの場合、定律詩の感情は、自由詩に比して強くはつきりと響いてくる。勿論そこには自由詩のやうな情感の複雜性がない。けれども單純に、衝動的に、一つの逞ましい筋肉の力を以て迫つてくる。この事實は、最も幼稚な定律詩である民謠や牧歌の類を取つて見ても明らかである。そのリズムは單純であるけれども「力」がある。強く、逞ましく、直接まつすぐにぶつかつてくる力がある。然るに自由詩にはそれがない。何と自由詩のリズムが薄弱であることよ、殆んどそれは散文的なかつたるい感じしかあたへない。これ皆自由詩が旋律本位であつて拍節本位でないためである。既に述べた如く、旋律は拍節の部分的なもの、言はば「より細かいリズム」である故に、しぜんその感じは纖細軟弱となり、スケールの豪壯雄大な情趣を缺いてくる。この點から見ても、自由詩は全然民衆的のものでない。民衆のもつ粗野で原始的なリズムは、牧歌や民謠の中に現はれた、あの拍節の明晰な、力の強い、筋肉の強健な、あの太くがつしりとしたリズムである。自由詩のリズムは、むしろ貴族者流の薄弱で元氣のない生活を思はせる。民衆は決して自由詩を悦ばず、また自由詩に親しまうともしないのである。

 自由詩に對する、最も忌憚なき憎惡者は新古典派である。彼等の説によれば、象徴主義は「肉體のない靈魂の幽靈」であり、自由詩はその幽靈の落し兒である。古典派の尊ぶものは、莊重、典雅、明晰、均齊、端正等の美であるのに、すべて此等は自由詩の缺くところである。彼等の趣味にまで、自由詩の如く軟體動物の醜惡を感じさせるものはない。そこには何等の確乎たる骨格がない。何等の明晰なタクトがない。何等の力あるリズムがない。全體に漠然と水ぶくれがして居る。ふわふわしてしまりがなく、薄弱で、微温的で、ぬらぬらして、そして要するに全く散文的である。けだし自由詩のリズムは主として「心像としての音樂」である故に、いつも幽靈の如く意識の背後を彷徨し、定律詩の如き強壯にして確乎たる魅力を示すことがない。すべてに於て自由詩は不健康であり病弱である。そは世紀末の文明が生んだ一種の頽廢的詩形に屬すると。

 およそ前述の如きものは、自由詩に對する最も根本的の非難である。そこには最も毒毒しい敵意と反感とが示されて居る。しかしこの類の議論は、結局言つて「趣味の爭ひ」にすぎぬ。定律詩と自由詩、古典主義と自由主義とは、本質的にその「美」の對象を別にする。自由詩の求める美は、始より既に「旋律本位の美」である。この趣味に同感する限り、自由詩のリズムは限りなく美しい。しかしてその同じことが、一方の定律詩に就いても言へるだらう。もし我等の趣味が「拍子本位の美」に共鳴しないならば、そは全然單調にして風情なき無價値のものと考へられる。かくの如き論議は、畢竟趣味の相違を爭ふ水かけ論にすぎないだらう。ただ上述のことは、自由詩の特色が一方から見て長所であると同時に、一方から見て短所であるといふ事實を示したにすぎぬ。しかしてこの限りに於ては、別に論議すべき何の問題もない。

 そもそもまた自由詩が「過渡期のもの」であつて、未來詩形への假橋にすぎないと言ふ如き説に對しては、此所に全く論ずべき限りでない、新定律詩派の所謂「未來詩形」とは如何なるものか。今日我等の聞くところによれば、そは未だ一つの學説にすぎない。實證なき机上の理論にすぎない。しかして藝術の自由なる創作が、文典や詩形の後に生れると云ふ如き怪事は、未來に於ても容易に想像を許さないところである、よしそれが實現された所で、かかる種類の細工物は眞の藝術と言ひがたい。さらば今日に於て我等の選ぶべき唯一の詩形はどこにあるか。けだし我等の自由詩に對する興味は、むしろそれが一つの「宿題」であり「疑問」であり、且つまた「未成品」でさへある所にある。あへて我等は、自由詩の價値そのものを問はないのである。


底本:「萩原朔太郎全集 第一卷」筑摩書房


   1975(昭和50)年5月25日初版発行

底本の親本:「青猫」新潮社

   1923(大正12)年1月26日發行

※底本では一行が長くて二行にわたっているところは、二行目が1字下げになっています。

入力:kompass

校正:門田裕志、小林繁雄

2005年6月14日作成

青空文庫作成ファイル:

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