萩原朔太郎 青猫



幻の寢臺



 薄暮の部屋

つかれた心臟は夜(よる)をよく眠る

私はよく眠る

ふらんねるをきたさびしい心臟の所有者だ

なにものか そこをしづかに動いてゐる夢の中なるちのみ兒

寒さにかじかまる蠅のなきごゑ

ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ。

私はかなしむ この白つぽけた室内の光線を

私はさびしむ この力のない生命の韻動を。

戀びとよ

お前はそこに坐つてゐる 私の寢臺のまくらべに

戀びとよ お前はそこに坐つてゐる。

お前のほつそりした頸すぢ

お前のながくのばした髮の毛

ねえ やさしい戀びとよ

私のみじめな運命をさすつておくれ

私はかなしむ

私は眺める

そこに苦しげなるひとつの感情

病みてひろがる風景の憂鬱を

ああ さめざめたる部屋の隅から つかれて床をさまよふ蠅の幽靈

ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ。

戀びとよ

私の部屋のまくらべに坐るをとめよ

お前はそこになにを見るのか

わたしについてなにを見るのか

この私のやつれたからだ 思想の過去に殘した影を見てゐるのか

戀びとよ

すえた菊のにほひを嗅ぐやうに

私は嗅ぐ お前のあやしい情熱を その青ざめた信仰を

よし二人からだをひとつにし

このあたたかみあるものの上にしも お前の白い手をあてて 手をあてて。

戀びとよ

この閑寂な室内の光線はうす紅く

そこにもまた力のない蠅のうたごゑ

ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ。

戀びとよ

わたしのいぢらしい心臟は お前の手や胸にかじかまる子供のやうだ

戀びとよ

戀びとよ。


 寢臺を求む

どこに私たちの悲しい寢臺があるか

ふつくりとした寢臺の 白いふとんの中にうづくまる手足があるか

私たち男はいつも悲しい心でゐる

私たちは寢臺をもたない

けれどもすべての娘たちは寢臺をもつ

すべての娘たちは 猿に似たちひさな手足をもつ

さうして白い大きな寢臺の中で小鳥のやうにうづくまる

すべての娘たちは 寢臺の中でたのしげなすすりなきをする

ああ なんといふしあはせの奴らだ

この娘たちのやうに

私たちもあたたかい寢臺をもとめて

私たちもさめざめとすすりなきがしてみたい。

みよ すべての美しい寢臺の中で 娘たちの胸は互にやさしく抱きあふ

心と心と

手と手と

足と足と

からだとからだとを紐にてむすびつけよ

心と心と

手と手と

足と足と

からだとからだとを撫でることによりて慰めあへよ

このまつ白の寢臺の中では

なんといふ美しい娘たちの皮膚のよろこびだ

なんといふいぢらしい感情のためいきだ。

けれども私たち男の心はまづしく

いつも悲しみにみちて大きな人類の寢臺をもとめる

その寢臺はばね仕掛けでふつくりとしてあたたかい

まるで大雪の中にうづくまるやうに

人と人との心がひとつに解けあふ寢臺

かぎりなく美しい愛の寢臺

ああ どこに求める 私たちの悲しい寢臺があるか

どこに求める

私たちのひからびた醜い手足

このみじめな疲れた魂の寢臺はどこにあるか。


 沖を眺望する

ここの海岸には草も生えない

なんといふさびしい海岸だ

かうしてしづかに浪を見てゐると

浪の上に浪がかさなり

浪の上に白い夕方の月がうかんでくるやうだ

ただひとり出でて磯馴れ松の木をながめ

空にうかべる島と船とをながめ

私はながく手足をのばして寢ころんでゐる

ながく呼べどもかへらざる幸福のかげをもとめ

沖に向つて眺望する。


 強い腕に抱かる

風にふかれる葦のやうに

私の心は弱弱しく いつも恐れにふるへてゐる

女よ

おまへの美しい精悍の右腕で

私のからだをがつしりと抱いてくれ

このふるへる病氣の心を しづかにしづかになだめてくれ

ただ抱きしめてくれ私のからだを

ひつたりと肩によりそひながら

私の弱弱しい心臟の上に

おまへのかはゆらしい あたたかい手をおいてくれ

ああ 心臟のここのところに手をあてて

女よ

さうしておまへは私に話しておくれ

涙にぬれたやさしい言葉で

「よい子よ

恐れるな なにものをも恐れなさるな

あなたは健康で幸福だ

なにものがあなたの心をおびやかさうとも あなたはおびえてはなりません

ただ遠方をみつめなさい

めばたきをしなさるな

めばたきをするならば あなたの弱弱しい心は鳥のやうに飛んで行つてしまふのだ

いつもしつかりと私のそばによりそつて

私のこの健康な心臟を

このうつくしい手を

この胸を この腕を

さうしてこの精悍の乳房をしつかりと。」


 群集の中を求めて歩く

私はいつも都會をもとめる

都會のにぎやかな群集の中に居ることをもとめる

群集はおほきな感情をもつた浪のやうなものだ

どこへでも流れてゆくひとつのさかんな意志と愛欲とのぐるうぷだ

ああ ものがなしき春のたそがれどき

都會の入り混みたる建築と建築との日影をもとめ

おほきな群集の中にもまれてゆくのはどんなに樂しいことか

みよこの群集のながれてゆくありさまを

ひとつの浪はひとつの浪の上にかさなり

浪はかずかぎりなき日影をつくり 日影はゆるぎつつひろがりすすむ

人のひとりひとりにもつ憂ひと悲しみと みなそこの日影に消えてあとかたもない

ああ なんといふやすらかな心で 私はこの道をも歩いて行くことか

ああ このおほいなる愛と無心のたのしき日影

たのしき浪のあなたにつれられて行く心もちは涙ぐましくなるやうだ。

うらがなしい春の日のたそがれどき

このひとびとの群は 建築と建築との軒をおよいで

どこへどうしてながれ行かうとするのか

私のかなしい憂鬱をつつんでゐる ひとつのおほきな地上の日影

ただよふ無心の浪のながれ

ああ どこまでも どこまでも この群集の浪の中をもまれて行きたい

浪の行方は地平にけむる

ひとつの ただひとつの「方角」ばかりさしてながれ行かうよ。


 その手は菓子である

そのじつにかはゆらしい むつくりとした工合はどうだ

そのまるまるとして菓子のやうにふくらんだ工合はどうだ

指なんかはまことにほつそりとしてしながよく

まるでちひさな青い魚類のやうで

やさしくそよそよとうごいてゐる樣子はたまらない

ああ その手の上に接吻がしたい

そつくりと口にあてて喰べてしまひたい

なんといふすつきりとした指先のまるみだらう

指と指との谷間に咲く このふしぎなる花の風情はどうだ

その匂ひは麝香のやうで 薄く汗ばんだ桃の花のやうにみえる。

かくばかりも麗はしくみがきあげた女性の指

すつぽりとしたまつ白のほそながい指

ぴあのの鍵盤をたたく指

針をもて絹をぬふ仕事の指

愛をもとめる肩によりそひながら

わけても感じやすい皮膚のうへに

かるく爪先をふれ

かるく爪でひつかき

かるくしつかりと押へつけるやうにする指のはたらき

そのぶるぶるとみぶるひをする愛のよろこび はげしく狡猾にくすぐる指

おすましで意地惡のひとさし指

卑怯で快活なこゆびのいたづら

親指の肥え太つたうつくしさと その暴虐なる野蠻性

ああ そのすべすべとみがきあげたいつぽんの指をおしいただき

すつぽりと口にふくんでしやぶつてゐたい いつまでたつてもしやぶつてゐたい

その手の甲はわつぷるのふくらみで

その手の指は氷砂糖のつめたい食慾

ああ この食慾

子供のやうに意地のきたない無恥の食慾。


 青猫

この美しい都會を愛するのはよいことだ

この美しい都會の建築を愛するのはよいことだ

すべてのやさしい女性をもとめるために

すべての高貴な生活をもとめるために

この都にきて賑やかな街路を通るのはよいことだ

街路にそうて立つ櫻の竝木

そこにも無數の雀がさへづつてゐるではないか。

ああ このおほきな都會の夜にねむれるものは

ただ一疋の青い猫のかげだ

かなしい人類の歴史を語る猫のかげだ

われの求めてやまざる幸福の青い影だ。

いかならん影をもとめて

みぞれふる日にもわれは東京を戀しと思ひしに

そこの裏町の壁にさむくもたれてゐる

このひとのごとき乞食はなにの夢を夢みて居るのか。


 月夜

重たいおほきな羽をばたばたして

ああ なんといふ弱弱しい心臟の所有者だ。

花瓦斯のやうな明るい月夜に

白くながれてゆく生物の群をみよ

そのしづかな方角をみよ

この生物のもつひとつのせつなる情緒をみよ

あかるい花瓦斯のやうな月夜に

ああ なんといふ悲しげな いぢらしい蝶類の騷擾だ。


 春の感情

ふらんすからくる烟草のやにのにほひのやうだ

そのにほひをかいでゐると氣がうつとりとする

うれはしい かなしい さまざまのいりこみたる空の感情

つめたい銀いろの小鳥のなきごゑ

春がくるときのよろこびは

あらゆるひとのいのちをふきならす笛のひびきのやうだ

ふるへる めづらしい野路のくさばな

おもたく雨にぬれた空氣の中にひろがるひとつの音色

なやましき女のなきごゑはそこにもきこえて

春はしつとりとふくらんでくるやうだ。

春としなれば山奧のふかい森の中でも

くされた木株の中でもうごめくみみずのやうに

私のたましひはぞくぞくとして菌を吹き出す

たとへば毒だけ へびだけ べにひめぢのやうなもの

かかる菌の類はあやしげなる色香をはなちて

ひねもすさびしげに匂つてゐる。

春がくる 春がくる

春がくるときのよろこびは あらゆるひとのいのちを吹きならす笛のひびきのやうだ

そこにもここにも

ぞくぞくとしてふきだす菌 毒だけ

また藪かげに生えてほのかに光るべにひめぢの類。


 野原に寢る

この感情の伸びてゆくありさま

まつすぐに伸びてゆく喬木のやうに

いのちの芽生のぐんぐんとのびる。

そこの青空へもせいのびをすればとどくやうに

せいも高くなり胸はばもひろくなつた。

たいそううららかな春の空氣をすひこんで

小鳥たちが喰べものをたべるやうに

愉快で口をひらいてかはゆらしく

どんなにいのちの芽生たちが伸びてゆくことか。

草木は草木でいつさいに

ああ どんなにぐんぐんと伸びてゆくことか。

ひろびろとした野原にねころんで

まことに愉快な夢をみつづけた。


 蠅の唱歌

春はどこまできたか

春はそこまできて櫻の匂ひをかぐはせた

子供たちのさけびは野に山に

はるやま見れば白い浮雲がながれてゐる。

さうして私の心はなみだをおぼえる

いつもおとなしくひとりで遊んでゐる私のこころだ

この心はさびしい

この心はわかき少年の昔より 私のいのちに日影をおとした

しだいにおほきくなる孤獨の日かげ

おそろしい憂鬱の日かげはひろがる。

いま室内にひとりで坐つて

暮れゆくたましひの日かげをみつめる

そのためいきはさびしくして

とどまる蠅のやうに力がない

しづかに暮れてゆく春の夕日の中を

私のいのちは力なくさまよひあるき

私のいのちは窓の硝子にとどまりて

たよりなき子供等のすすりなく唱歌をきいた。


 恐ろしく憂鬱なる

こんもりとした森の木立のなかで

いちめんに白い蝶類が飛んでゐる

むらがる むらがりて飛びめぐる

てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ

みどりの葉のあつぼつたい隙間から

ぴか ぴか ぴか ぴかと光る そのちひさな鋭どい翼(つばさ)

いつぱいに群がつてとびめぐる てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ

ああ これはなんといふ憂鬱な幻だ

このおもたい手足 おもたい心臟

かぎりなくなやましい物質と物質との重なり

ああ これはなんといふ美しい病氣だらう

つかれはてたる神經のなまめかしいたそがれどきに

私はみる ここに女たちの投げ出したおもたい手足を

つかれはてた股や乳房のなまめかしい重たさを

その鮮血のやうなくちびるはここにかしこに

私の青ざめた屍體のくちびるに

額に 髮に 髮の毛に 股に 胯に 腋の下に 足くびに 足のうらに

みぎの腕にも ひだりの腕にも 腹のうへにも押しあひて息ぐるしく重なりあふ

むらがりむらがる 物質と物質との淫猥なるかたまり

ここにかしこに追ひみだれたる蝶のまつくろの集團

ああこの恐ろしい地上の陰影

このなまめかしいまぼろしの森の中に

しだいにひろがつてゆく憂鬱の日かげをみつめる

その私の心はばたばたと羽ばたきして

小鳥の死ぬるときの醜いすがたのやうだ

ああこのたへがたく惱ましい性の感覺

あまりに恐ろしく憂鬱なる。

註。「てふ」「てふ」はチヨーチヨーと讀むべからず。蝶の原音は「て・ふ」である。蝶の翼の空氣をうつ感覺を音韻に寫したものである。




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