萩原朔太郎 青猫



閑雅な食慾



 怠惰の暦

いくつかの季節はすぎ

もう憂鬱の櫻も白つぽく腐れてしまつた

馬車はごろごろと遠くをはしり

海も 田舍も ひつそりとした空氣の中に眠つてゐる

なんといふ怠惰な日だらう

運命はあとからあとからとかげつてゆき

さびしい病鬱は柳の葉かげにけむつてゐる

もう暦もない 記憶もない

わたしは燕のやうに巣立ちをし さうしてふしぎな風景のはてを翔つてゆかう。

むかしの戀よ 愛する猫よ

わたしはひとつの歌を知つてる

さうして遠い海草の焚けてる空から 爛れるやうな接吻(きす)を投げよう

ああ このかなしい情熱の外 どんな言葉も知りはしない。


 閑雅な食慾

松林の中を歩いて

あかるい氣分の珈琲店(かふえ)をみた。

遠く市街を離れたところで

だれも訪づれてくるひとさへなく

林間の かくされた 追憶の夢の中の珈琲店(かふえ)である。

をとめは戀戀の羞をふくんで

あけぼののやうに爽快な 別製の皿を運んでくる仕組

私はゆつたりとふほふくを取つて

おむれつ ふらいの類を喰べた。

空には白い雲が浮んで

たいそう閑雅な食慾である。


 馬車の中で

馬車の中で

私はすやすやと眠つてしまつた。

きれいな婦人よ

私をゆり起してくださるな

明るい街燈の巷(ちまた)をはしり

すずしい緑蔭の田舍をすぎ

いつしか海の匂ひも行手にちかくそよいでゐる。

ああ蹄(ひづめ)の音もかつかつとして

私はうつつにうつつを追ふ

きれいな婦人よ

旅館の花ざかりなる軒にくるまで

私をゆり起してくださるな。


 青空

    表現詩派

このながい烟筒(えんとつ)は

をんなの圓い腕のやうで

空にによつきり

空は青明な弧球ですが

どこにも重心の支へがない

この全景は象のやうで

妙に膨大の夢をかんじさせる。


 最も原始的な情緒

この密林の奧ふかくに

おほきな護謨(ごむ)葉樹のしげれるさまは

ふしぎな象の耳のやうだ。

薄闇の濕地にかげをひいて

ぞくぞくと這へる羊齒(しだ)植物 爬蟲類

蛇 とかげ ゐもり 蛙 さんしようをの類。

白晝(まひる)のかなしい思慕から

なにをあだむが追憶したか

原始の情緒は雲のやうで

むげんにいとしい愛のやうで

はるかな記憶の彼岸にうかんで

とらへどころもありはしない。


 天候と思想

書生は陰氣な寢臺から

家畜のやうに這ひあがつた

書生は羽織をひつかけ

かれの見る自然へ出かけ突進した。

自然は明るく小綺麗でせいせいとして

そのうへにも匂ひがあつた

森にも 辻にも 賣店にも

どこにも青空がひるがへりて美麗であつた

そんな輕快な天氣に

美麗な自働車(かあ)が 娘等がはしりつた。

わたくし思ふに

思想はなほ天候のやうなものであるか

書生は書物を日向にして

ながく幸福のにほひを嗅いだ。


 笛の音のする里へ行かうよ

俥に乘つてはしつて行くとき

野も 山も ばうばうとして霞んでみえる

柳は風にふきながされ

燕も 歌も ひよ鳥も かすみの中に消えさる

ああ 俥のはしる轍(わだち)を透して

ふしぎな ばうばくたる景色を行手にみる

その風光は遠くひらいて

さびしく憂鬱な笛の音を吹き鳴らす

ひとのしのびて耐へがたい情緒である。

このへんてこなる方角をさして行け

春の朧げなる柳のかげで 歌も燕もふきながされ

わたしの俥やさんはいつしんですよ。





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