ランボオ詩集 中原中也訳



 太陽と肉体


太陽、この愛と生命の家郷は、

嬉々たる大地に熱愛を注ぐ。

我等谷間に寝そべつてゐる時に、

大地は血を湧き肉を躍らす、

その大いな胸が人に激昂させられるのは

神が愛によつて、女が肉によつて激昂させられる如くで、

又大量の樹液や光、

凡ゆる胚種を包蔵してゐる。

一切成長、一切増進!

          おゝ美神(ニュス)、おゝ女神!

若々しい古代の時を、放逸な半人半山羊神(サチール)たちを。

獣的な田野の神々(フォーヌ)を私は追惜します、

愛の小枝の樹皮をば齧((かじ))り、

金髪ニンフを埃及蓮(はす)の中にて、接唇しました彼等です。

地球の生気や河川の流れ、

樹々の血潮(ちしほ)が仄紅(ほのくれなゐ)に

牧羊神(パン)の血潮と交(まざ)り循(めぐ)つた、かの頃を私は追惜します。

当時大地は牧羊神の、山羊足の下に胸ときめかし、

牧羊神が葦笛とれば、空のもと

愛の頌歌((しようか))はほがらかに鳴渡つたものでした、

野に立つて彼は、その笛に答へる天地の

声々をきいてゐました。

黙(もだ)せる樹々も歌ふ小鳥に接唇(くちづけ)し、

大地は人に接唇し、海といふ海

生物といふ生物が神のごと、情けに篤いことでした。

壮観な市々(まちまち)の中を、青銅の車に乗つて

見上げるやうに美しかつたかのシベールが、

走り廻つてゐたといふ時代を私は追惜します。

乳房ゆたかなその胸は気((かうき))の中に

不死の命の霊液をそゝいでゐました。

『人の子』は吸つたものです、よろこんでその乳房をば、

子供のやうに、膝にあがつて。

だが『人の子』は強かつたので、貞潔で、温和でありました。

なさけないことに、今では彼は云ふのです、俺は何でも知つてると、

そして、眼(め)をつぶり、耳を塞((ふさ))いで歩くのです。

それでゐて『人の子』が今では王であり、

『人の子』が今では神なのです! 『愛』こそ神であるものを!

おゝ! 神々と男達との大いなる母、シベールよ!

そなたの乳房をもしも男が、今でも吸ふのであつたなら!

昔青波(せいは)の限りなき光のさ中に顕れ給ひ

浪かをる御神体、泡降りかゝる

紅(とき)の臍(ほぞ)をば示現し給ひ、

森に鶯、男の心に、愛を歌はせ給ひたる

大いなる黒き瞳も誇りかのかの女神

アスタルテ、今も此の世におはしなば!

     

私は御身を信じます、聖なる母よ、

海のアフロヂテよ!――他の神がその十字架に

我等を繋ぎ給ひてより、御身への道のにがいこと!

肉、大理石、花、ニュス、私は御身を信じます!

さうです、『人の子』は貧しく醜い、空のもとではほんとに貧しい、

彼は衣服を着けてゐる、何故ならもはや貞潔でない、

何故なら至上の肉体を彼は汚してしまつたのです、

気高いからだを汚いわざで

火に遇つた木偶(でく)といぢけさせました!

それでゐて死の後までも、その蒼ざめた遺骸の中に

生きんとします、最初の美なぞもうないくせに!

そして御身が処女性を、ゆたかに賦与され、

神に似せてお造りなすつたあの偶像、『女』は、

その哀れな魂を男に照らして貰つたおかげで

地下の牢から日の目を見るまで、

ゆるゆる暖められたおかげで、

おかげでもはや娼婦にやなれぬ!

――奇妙な話! かくて世界は偉大なニュスの

優しく聖なる御名(みな)に於て、ひややかに笑つてゐる。

     

もしかの時代が帰りもしたらば! もしかの時代が帰りもしたらば!……

だつて『人の子』の時代は過ぎた、『人の子』の役目は終つた。

かの時代が帰りもしたらば、その日こそ、偶像壊(こぼ)つことにも疲れ、

彼は復活するでもあらう、あの神々から解き放たれて、

天に属する者の如く、諸天を吟味しだすであらう。

理想、砕くすべなき永遠の思想、

かの肉体(にく)に棲む神性は

昇現し、額の下にて燃えるであらう。

そして、凡ゆる地域を探索する、彼を御身が見るだらう時、

諸々の古き軛((くびき))の侮蔑者にして、全ての恐怖に勝てる者、

御身は彼に聖・贖罪((しよくざい))を給ふでせう。

海の上にて荘厳に、輝く者たる御身はさて、

微笑みつゝは無限の『愛』を、

世界の上に投ぜんと光臨されることでせう。

世界は顫へることでせう、巨大な竪琴さながらに

かぐはしき、巨(おほ)いな愛撫にぞくぞくしながら……

――世界は『愛』に渇(かつ)ゑてゐます。御身よそれをお鎮め下さい、

おゝ肉体のみごとさよ! おゝ素晴らしいみごとさよ!

愛の来復、黎明(よあけ)の凱旋

神々も、英雄達も身を屈め、

エロスや真白のカリピイジュ

薔薇の吹雪にまよひつゝ

足の下(もと)なる花々や、女達をば摘むでせう!

     ※[#「IIII」、158-1]

おゝ偉大なるアリアドネ、おまへはおまへの悲しみを

海に投げ棄てたのだつた、テエゼの船が

陽に燦いて、去つてゆくのを眺めつつ、

おゝ貞順なおまへであつた、闇が傷めたおまへであつた、

黒い葡萄で縁取つた、金の車でリジアスが、

驃※((へうかん))[#「馬+干」、158-7]な虎や褐色の豹に牽かせてフリジアの

野をあちこちとさまよつて、青い流に沿ひながら

進んでゆけば仄暗い波も恥ぢ入るけはひです。

牡牛ゼウスはイウロペの裸かの身をば頸にのせ、

軽々とこそ揺すぶれば、波の中にて寒気(さむけ)する

ゼウスの丈夫なその頸(くび)に、白い腕(かひな)をイウロペは掛け、

ゼウスは彼女に送ります、悠然として秋波(ながしめ)を、

彼女はやさしい蒼ざめた自分の頬をゼウスの顔に

さしむけて眼(まなこ)を閉ぢて、彼女は死にます

神聖な接唇(ベエゼ)の只中に、波は音をば立ててます

その金色の泡沫(しはぶき)は、彼女の髪毛に花となる。

夾竹桃と饒舌(おしやべり)な白蓮の間(あはひ)をすべりゆく

夢みる大きい白鳥は、大変恋々(れんれん)してゐます、

その真つ白の羽をもてレダを胸には抱締めます、

さてニュス様のお通りです、

めづらかな腰の丸みよ、反身(そりみ)になつて

幅広の胸に黄金(こがね)をはれがましくも、

雪かと白いそのお腹(なか)には、まつ黒い苔が飾られて、

ヘラクレス、この調練師(ならして)は誇りかに、

獅((しし))の毛皮をゆたらかな五体に締めて、

恐(こは)いうちにも優しい顔して、地平の方(かた)へと進みゆく!……

おぼろに照らす夏の月の、月の光に照らされて

立つて夢みる裸身のもの

丈長髪も金に染み蒼ざめ重き波をなす

これぞ御存じアリアドネ、沈黙(しじま)の空を眺めゐる……

苔も閃めく林間の空地(あきち)の中の其処にして、

肌も真白のセレネエは面(かつぎ)なびくにまかせつつ、

エンデミオンの足許に、怖づ怖づとして、

蒼白い月の光のその中で一寸接唇(くちづけ)するのです……

泉は遐((とほ))くで泣いてます うつとり和(なご)んで泣いてます……

甕((かめ))に肘をば突きまして、若くて綺麗な男をば

思つてゐるのはかのニンフ、波もて彼を抱締める……

愛の微風は闇の中、通り過ぎます……

さてもめでたい森の中、大樹々々の凄さの中に、

立つてゐるのは物云はぬ大理石像、神々の、

それの一つの御顔(おんかほ)に鶯は塒(ねぐら)を作り、

神々は耳傾けて、『人の子』と『終わりなき世』を案じ顔。

〔一八七〇、五月〕




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