渋谷にて
こきむらさきの杜若(かきつばた)
採(と)ろと水際(みぎは)につくばんで
濡(ぬ)れた袂(たもと)をしぼる身は、
ふと小娘(こむすめ)の気に返る。
男の机に倚(よ)り掛り、
男の遣(つか)ふペンを執(と)り、
男のするよに字を書けば、
また初恋の気に返る。
浜なでしこ
逗子(づし)の旅からはるばると
浜なでしこをありがたう。
髪に挿せとのことながら、
避暑地の浜の遊びをば
知らぬわたしが挿したなら、
真黒(まつくろ)に焦げて枯れませう。
ゆるい斜面をほろほろと
踏めば崩れる砂山に、
水著(みづぎ)すがたの脛白(はぎじろ)と
なでしこを摘む楽しさは
女のわたしの知らぬこと。
浜なでしこをありがたう。
恋
むかしの恋の気の長さ、
のんべんくだりと日を重ね、
互(たがひ)にくどくど云(い)ひ交(かは)す。
当世(たうせい)の恋のはげしさよ、
常(つね)は素知(そし)らぬ振(ふり)ながら、
刹那(せつな)に胸の張りつめて
しやうも、やうも無い日には、
マグネシユウムを焚(た)くやうに、
機関の湯気の漏るやうに、
悲鳴を上げて身もだえて
あの白鳥(はくてう)が死ぬやうに。
夏の宵
いたましく、いたましく、
流行(はやり)の風(かぜ)に三人(みたり)まで
我児(わがこ)ぞ病める。
梅霖(つゆ)の雨しとどと降るに、汗流れ、
こんこんと、苦しき喉(のど)に咳(せき)するよ。
兄なるは身を焼く※(ねつ)[#「執/れんが」、U+24360、100-上-6]に父を呼び、
泣きむづかるを、その父が
抱(いだ)きすかして、売薬の
安知歇林(アンチピリン)を飲ませども、
咳(せき)しつつ、半(なかば)ゑづきぬ[#「ゑづきぬ」は底本では「えづきぬ」]。
あはれ、此夜(このよ)のむし暑さ、
氷ぶくろを取りかへて、
団扇(うちは)とり児等(こら)を扇(あふ)げば、
蚊帳(かや)ごしに蚊のむれぞ鳴く。
如何に若き男
如何(いか)に若き男、
ダイヤの玉(たま)を百持てこ。
空手(むなで)しながら採(と)り得(う)べき
物とや思ふ、あはれ愚かに。
たをやめの、たをやめの紅(あか)きくちびる。
男
男こそ慰めはあれ、
おほぎみの側(そば)にも在りぬ、
みいくさに出(い)でても行(ゆ)きぬ、
酒(さか)ほがひ、夜通(よどほ)し遊び、
腹立(だ)ちて罵(のゝし)りかはす。
男こそ慰めはあれ、
少女(をとめ)らに己(おの)が名を告(の)り、
厭(あ)きぬれば棄(す)てて惜(をし)まず。
夢
わが見るは人の身なれば、
死の夢を、沙漠(さばく)のなかの
青ざめし月のごとくに。
また見るは、女にしあれば
消し難(がた)き世のなかの夢。
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