與謝野晶子 晶子詩篇全集









草と人





如何(いか)なれば草よ、

風吹けば一方(ひとかた)に寄る。

人の身は然(しか)らず、

己(おの)が心の向き向きに寄る。

何(なに)か善(よ)き、何(なに)か悪(あ)しき、

知らず、唯(た)だ人は向き向き。













わが家(いへ)の天井に鼠(ねずみ)栖(す)めり、

きしきしと音するは

鑿(のみ)とりて像を彫(きざ)む人

夜(よ)も寝ぬが如(ごと)し。

またその妻と踊りては

廻るひびき

競馬の勢(きほひ)あり。

わが物書く上に

屋根裏の砂ぼこり

はらはらと散るも

彼等いかで知らん。

されど我は思ふ、

我は鼠(ねずみ)と共に栖(す)めるなり、

彼等に食ひ物あれ、

よき温かき巣あれ、

天井に孔(あな)をも開(あ)けて

折折(をりをり)に我を覗(のぞ)けよ。







賀川豐彦さん





わが心、程(ほど)を踰(こ)えて

高ぶり、他(た)を凌(しの)ぐ時、

何時(いつ)も何時(いつ)も君を憶(おも)ふ。



わが心、消えなんばかり

はかなげに滅入(めい)れば、また

何時(いつ)も何時(いつ)も君を憶(おも)ふ。



つつましく、謙(へりくだ)り、

しかも命と身を投げ出(い)だして

人と真理の愛に強き君、

ああ我が賀川豐彦(とよひこ)の君。







人に答へて





時として独(ひとり)を守る。

時として皆と親(したし)む。

おほかたは険(けは)しき方(かた)に

先(ま)づ行(ゆ)きて命傷つく。

こしかたも是(こ)れ、

行(ゆ)く末(すゑ)も是(こ)れ。

許せ、我が斯(か)かる気儘(きまゝ)を。







晩秋の草





野の秋更けて、露霜(つゆしも)に

打たるものの哀れさよ。

いよいよ赤む蓼(たで)の茎、

黒き実まじるコスモスの花、

さてはまた雑草のうら枯(か)れて

斑(まだら)を作る黄と緑。







書斎





唯(た)だ一事(ひとこと)の知りたさに

彼(か)れを読み、其(そ)れを読み、

われ知らず夜(よ)を更かし、

取り散らす数数(かずかず)の書の

座を繞(めぐ)る古き巻巻(まきまき)。

客人(まらうど)[#ルビの「まらうど」は底本では「まろうど」]よ、これを見たまへ、

秋の野の臥(ふ)す猪(ゐ)の床(とこ)の

萩(はぎ)の花とも。







我友





ともに歌へば、歌へば、

よろこび身にぞ余る。

賢きも智を忘れ、

富みたるも財を忘れ、

貧しき我等も労を忘れて、

愛と美と涙の中に

和楽(わらく)する一味(いちみ)の人。



歌は長きも好(よ)し、

悠揚(いうやう)として朗(ほがら)かなるは

天に似よ、海に似よ。

短きは更に好し、

ちらとの微笑(びせう)、端的の叫び。

とにかくに楽し、

ともに歌へば、歌へば。













わが恋を人問ひ給(たま)ふ。

わが恋を如何(いか)に答へん、

譬(たと)ふれば小(ちさ)き塔なり、

礎(いしずゑ)に二人(ふたり)の命、

真柱(まばしら)に愛を立てつつ、

層(そう)ごとに学と芸術、

汗と血を塗りて固めぬ。

塔は是(こ)れ無極(むきよく)の塔、

更に積み、更に重ねて、

世の風と雨に当らん。

猶(なほ)卑(ひく)し、今立つ所、

猶(なほ)狭し、今見る所、

天(あま)つ日も多くは射(さ)さず、

寒きこと二月の如(ごと)し。

頼めるは、微(かすか)なれども

唯(た)だ一つ内(うち)なる光。







己(おの)が路(みち)





わが行(ゆ)く路(みち)は常日頃(つねひごろ)

三人(みたり)四人(よたり)とつれだちぬ、

また時として唯(た)だ一人(ひとり)。



一人(ひとり)行(ゆ)く日も華やかに、

三人(みたり)四人(よたり)と行(ゆ)くときは

更にこころの楽(たのし)めり。



我等は選(え)りぬ、己(おの)が路(みち)、

一(ひと)すぢなれど己(おの)が路(みち)、

けはしけれども己(おの)が路(みち)。







また人に





病みぬる人は思ふこと

身の病(やまひ)をば先(さ)きとして

すべてを思ふ習ひなり。

我は年頃(としごろ)恋をして

世の大方(おほかた)を後(のち)にしぬ。

かかる立場の止(や)み難(がた)し、

人に似ざれと、偏(かたよ)れど。







車の跡





ここで誰(たれ)の車が困つたか、

泥が二尺の口を開(あ)いて

鉄の輪にひたと吸ひ付き、

三度(みたび)四度(よたび)、人の滑(すべ)つた跡も見える。

其時(そのとき)、両脚(りやうあし)を槓杆(こうかん)とし、

全身の力を集めて

一気に引上げた心は

鉄ならば火を噴いたであらう。

ああ、自(みづか)ら励(はげ)む者は

折折(をりをり)、これだけの事にも

その二つと無い命を賭(か)ける。







繋縛





木は皆その自(みづか)らの根で

地に縛られてゐる。

鳥は朝飛んでも

日暮には巣に返される。

人の身も同じこと、

自由な魂(たましひ)を持ちながら

同じ区、同じ町、同じ番地、

同じ寝台(ねだい)に起き臥(ふ)しする。







帰途





わたしは先生のお宅を出る。

先生の視線が私の背中にある、

わたしは其(そ)れを感じる、

葉巻の香りが私を追つて来る、

わたしは其(そ)れを感じる。

玄関から御門(ごもん)までの

赤土の坂、並木道、

太陽と松の幹が太い縞(しま)を作つてゐる。

わたしはぱつと日傘を拡げて、

左の手に持ち直す、

頂いた紫陽花(あぢさゐ)の重たい花束。

どこかで蝉(せみ)が一つ鳴く。







拍子木





風ふく夜(よ)なかに

夜(よ)まはりの拍子木(ひやうしぎ)の音、

唯(た)だ二片(ふたひら)の木なれど、

樫(かし)の木の堅くして、

年(とし)経(へ)つつ、

手ずれ、膏(あぶら)じみ、

心(しん)から重たく、

二つ触れては澄み入(い)り、

嚠喨(りうりやう)たる拍子木(ひやうしぎ)の音、

如何(いか)に夜(よ)まはりの心も

みづから打ち

みづから聴きて楽しからん。







或夜(あるよ)





部屋ごとに点(つ)けよ、

百燭(しよく)の光。

瓶(かめ)ごとに生(い)けよ、

ひなげしと薔薇(ばら)と。

慰むるためならず、

懲(こ)らしむるためなり。

ここに一人(ひとり)の女、

讃(ほ)むるを忘れ、

感謝を忘れ、

小(ちさ)き事一つに

つと泣かまほしくなりぬ。







堀口大學さんの詩





三十を越えて未(いま)だ娶(めと)らぬ

詩人大學(だいがく)先生の前に

実在の恋人現れよ、

その詩を読む女は多けれど、

詩人の手より

誰(た)が家(いへ)の女(むすめ)か放たしめん、

マリイ・ロオランサンの扇。













城(じやう)が島(しま)の

岬のはて、

笹(さゝ)しげり、

黄ばみて濡(ぬ)れ、

その下に赤き切(きりぎし)、

近き汀(みぎは)は瑠璃(るり)、

沖はコバルト、

ここに来て暫(しば)し坐(すわ)れば

春のかぜ我にあつまる。







静浦





トンネルを又一つ出(い)でて

海の景色かはる、

心かはる。

静浦(しづうら)の口の津。

わが敬(けい)する龍三郎(りゆうざぶらう)[#ルビの「りゆうざぶらう」は底本では「りうざぶらう」]の君、

幾度(いくたび)か此(この)水を描(か)き給(たま)へり。

切りたる石は白く、

船に当る日は桃色、

磯(いそ)の路(みち)は観(み)つつ曲る、

猶(なほ)しばし歩(あゆ)まん。







牡丹





ルサイユ宮(きゆう)[#ルビの「きゆう」は底本では「きう」]を過ぎしかど、

われは是(こ)れに勝(まさ)る花を見ざりき。

牡丹(ぼたん)よ、

葉は地中海の桔梗色(ききやういろ)と群青(ぐんじやう)とを盛り重ね、

花は印度(いんど)の太陽の赤光(しやくくわう)を懸けたり。

たとひ色相(しきさう)はすべて空(むな)しとも、

何(なに)か傷(いた)まん、

牡丹(ぼたん)を見つつある間(あひだ)は

豊麗炎※(えんねつ)[#「執/れんが」、U+24360、11-上-10]の夢に我の浸(ひた)れば。













佳(よ)きかな、美(うつ)くしきかな、

矢を番(つが)へて、臂(ひぢ)張り、

引き絞りたる弓の形(かたち)。

射よ、射よ、子等(こら)よ、

鳥ならずして、射よ、

唯(た)だ彼(か)の空を。



的(まと)を思ふことなかれ、

子等(こら)と弓との共に作る

その形(かたち)こそいみじけれ、

唯(た)だ射よ、彼(か)の空を。







秋思





わが思ひ、この朝ぞ

秋に澄み、一つに集まる。

愛と、死と、芸術と、

玲瓏(れいろう)として涼し。

目を上げて見れば

かの青空(あをそら)も我(わ)れなり、

その木立(こだち)も我(わ)れなり、

前なる狗子草(ゑのころぐさ)も

涙しとどに溜(た)めて

やがて泣ける我(わ)れなり。







園中





蓼(たで)枯れて茎猶(なほ)紅(あか)し、

竹さへも秋に黄ばみぬ。

園(その)の路(みち)草に隠れて、

草の露昼も乾かず。

咲き残るダリアの花の

泣く如(ごと)く花粉をこぼす。

童部(わらはべ)よ、追ふことなかれ、

向日葵(ひまはり)の実を食(は)む小鳥。







人知らず





翅(つばさ)無き身の悲しきかな、

常にありぬ、猶(なほ)ありぬ、

大空高く飛ぶ心。

我(わ)れは痩馬(やせうま)、黙黙(もくもく)と

重き荷を負ふ。人知らず、

人知らず、人知らず。







飛行船





外(よそ)の国より胆太(きもぶと)に

そつと降りたる飛行船、

夜(よ)の間(ま)に去れば跡も無し。

我はおろかな飛行船、

君が心を覗(のぞ)くとて、

見あらはされた飛行船。













六(む)もと七(なゝ)もと立つ柳、

冬は見えしか、一列の

廃墟(はいきよ)に遺(のこ)る柱廊(ちゆうらう)[#ルビの「ちゆうらう」は底本では「ちうらう」]と。

春の光に立つ柳、

今日(けふ)こそ見ゆれ、美(うつ)くしく、

これは翡翠(ひすゐ)の殿(との)づくり。







易者に





ものを知らざる易者かな、

我手(わがて)を見んと求むるは。

そなたに告げん、我がために

占ふことは遅れたり。

かの世のことは知らねども、

わがこの諸手(もろで)、この世にて、

上なき幸(さち)も、わざはひも、

取るべき限り満たされぬ。













甥(をひ)なる者の歎くやう、

「二十(はたち)越ゆれど、詩を書かず、

踊(をどり)を知らず、琴弾かず、

これ若き日と云(い)ふべきや、

富む家(いへ)の子と云(い)ふべきや。」

これを聞きたる若き叔母、

目の盲(し)ひたれば、手探りに、

甥(をひ)の手を執(と)り云(い)ひにけり、

「いと好(よ)し、今は家(いへ)を出よ、

寂(さび)しき我に似るなかれ。」









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