與謝野晶子 晶子詩篇全集





地震後一年





九月一日(いちじつ)、地震の記念日、

ああ東京、横浜、

相模、伊豆、安房の

各地に生き残つた者の心に、

どうして、のんきらしく、

あの日を振返る余裕があらう。

私達は誰(たれ)も、誰(たれ)も、

あの日のつづきにゐる。

まだまだ致命的な、

大きな恐怖のなかに、

刻一刻ふるへてゐる。

激震の急襲、

それは決して過ぎ去りはしない、

次の刹那(せつな)に来る、

明日(あす)に、明後日(あさつて)に来る。

私達は油断なく其(そ)れに身構へる。

喪(も)から喪(も)へ、

地獄から地獄へ、

心の上のおごそかな事実、

ああこの不安をどうしよう、

笑ふことも出来ない、

紛らすことも出来ない、

理詰で無くすることも出来ない。

若(も)しも誰(たれ)かが

大平楽(たいへいらく)な[#「大平楽(たいへいらく)な」はママ]気分になつて、

もう一年(いちねん)たつた今日(こんにち)、

あのやうなカタストロフは無いと云(い)ふなら、

それこそ迷信家を以(もつ)て呼ばう。

さう云(い)ふ迷信家のためにだけ、

有ることの許される

九月一日(いちじつ)、地震の記念日。







古簾





今年も取出(とりだ)して掛ける、

地震の夏の古い簾(すだれ)。

あの時、皆が逃げ出したあとに

この簾(すだれ)は掛かつてゐた。

誰(た)れがおまへを気にしよう[#「気にしよう」は底本では「気にしやう」]、

置き去(ざ)りにされ、

家(いへ)と一所(いつしよ)に揺れ、

風下(かざしも)の火事の煙(けぶり)を浴びながら。



もし私の家(うち)も焼けてゐたら、

簾(すだれ)よ、おまへが

第一の犠牲となつたであらう。

三日目に家(うち)に入(はひ)つた私が

蘇生(そせい)の喜びに胸を躍らせ、

さらさらと簾(すだれ)を巻いて、

二階から見上げた空の

大きさ、青さ、みづみづしさ。



簾(すだれ)は古く汚(よご)れてゐる、

その糸は切れかけてゐる。

でも、なつかしい簾(すだれ)よ、

共に災厄(さいやく)をのがれた簾(すだれ)よ、

おまへを手づから巻くたびに、

新しい感謝が

四年前の九月のやうに沸(わ)く。

おまへも私も生きてゐる。







虫干の日に





虫干(むしぼし)の日に現れたる

女の帽のかずかず、

欧羅巴(ヨオロツパ)の旅にて

わが被(き)たりしもの。

おお、一千九百十二年の

巴里(パリイ)の流行(モオド)。

リボンと、花と、

羽(はね)飾りとは褪(あ)せたれど、

思出(おもひで)は古酒(こしゆ)の如(ごと)く甘し。

埃(ほこり)と黴(かび)を透(とほ)して

是等(これら)の帽の上に

セエヌの水の匂(にほ)ひ、

サン・クルウの森の雫(しづく)、

ハイド・パアクの霧、

ミユンヘンの霜、維納(ウイン)の雨、

アムステルダムの入日(いりひ)の色、

さては、また、

バガテルの薔薇(ばら)の香(か)、

仏蘭西座(フランスざ)の人いきれ、

猶(なほ)残れるや、残らぬや、

思出(おもひで)は古酒(こしゆ)の如(ごと)く甘し。

アウギユスト・ロダンは

この帽の下(もと)にて

我手(わがて)に口づけ、

ラパン・アジルに集(あつま)る

新しき詩人と画家の群(むれ)は

この帽を被(き)たる我を

中央に据ゑて歌ひき。

別れの握手の後(のち)、

猶(なほ)一たびこの帽を擡(もた)げて、

優雅なる詩人レニエの姿を

我こそ振返りしか。

ああ、すべて十(と)とせの前(まへ)、

思出(おもひで)は古酒(こしゆ)の如(ごと)く甘し。







机に凭(よ)りて





今夜、わたしの心に詩がある。

簗(やな)の上で跳(は)ねる

銀の魚(うを)のやうに。

桃色の薄雲の中を奔(はし)る

まん円(まる)い月のやうに。

風と露とに揺(ゆす)れる

細い緑の若竹(わかたけ)のやうに。



今夜、私の心に詩がある。

私はじつと其(その)詩を抑(おさ)へる。

魚(さかな)はいよいよ跳(は)ねる。

月はいよいよ奔(はし)る。

竹はいよいよ揺(ゆす)れる。

苦しい此時(このとき)、

楽しい此時(このとき)。













夕立の風

軒(のき)の簾(すだれ)を動かし、

部屋の内(うち)暗くなりて

片時(かたとき)涼しければ、

我は物を書きさし、

空を見上げて、雨を聴きぬ。



書きさせる紙の上に

何時(いつ)しか来(きた)りし蜂(はち)一つ。

よき姿の蜂(はち)よ、

腰の細さ糸に似て、

身に塗れる金(きん)は

何(なに)の花粉よりか成れる。



好(よ)し、我が文字の上を

蜂(はち)の匍(は)ふに任せん。

わが匂(にほ)ひなき歌は

素枯(すが)れし花に等し、

せめて弥生(やよひ)の名残(なごり)を求めて

蜂(はち)の匍(は)ふに任せん。







わが庭





おお咲いた、ダリヤの花が咲いた、

明るい朱(しゆ)に、紫に、冴(さ)えた黄金(きん)に。

破れた障子をすつかりお開(あ)け、

思ひがけない幸福(しあはせ)が来たやうに。



黒ずんだ緑に、灰がかつた青、

陰気な常盤木(ときはぎ)ばかりが立て込んで

春と云(い)ふ日を知らなんだ庭へ、

永い冬から一足(いつそく)飛びに夏が来た。

それも遅れて七月に。



まあ、うれしい、

ダリヤよ、

わたしは思はず両手をおまへに差延べる。

この開(ひら)いて尖(とが)つた白い指を

何(なん)と見る、ダリヤよ。



しかし、もう、わたしの目には

ダリヤもない、指もない、

唯(た)だ光と、※(ねつ)[#「執/れんが」、U+24360、205-上-3]と、匂(にほ)ひと、楽欲(げうよく)とに

眩暈(めまひ)して慄(ふる)へた

わたしの心の花の象(ざう)があるばかり。







夏の朝





どこかの屋根へ早くから

群れて集(あつま)り、かあ、かあと

啼(な)いた鴉(からす)に目が覚めて、

透(すか)して見れば蚊帳(かや)ごしに

もう戸の外(そと)は白(しら)んでる。



細い雨戸を開(あ)けたれば、

脹(は)れぼつたいやうな目遣(めづか)ひの

鴨頭草(つきくさ)の花咲きみだれ、

荒れた庭とも云(い)ふばかり

しつとり青い露がおく。



日本の夏の朝らしい

このひと時の涼しさは、

人まで、身まで、骨までも

水晶質となるやうに、

しみじみ清く濡(ぬ)れとほる。



[#1行アキは底本ではなし]厨(くりや)へ行つて水道の

栓をねぢれば、たた、たたと

思ひ余つた胸のよに、

バケツへ落ちて盛り上がる

心(こゝろ)丈夫な水音も、



わたしの立つた板敷へ

裏口の戸の間(あひだ)から

新聞くばりがばつさりと

投げこんで行(ゆ)く物音も、

薄暗がりにここちよや。













蝉(せみ)が啼(な)く。

燻(いぶ)るよに、じじと一つ、

わたしの家(いへ)の桐(きり)の木に。



その音(ね)につれて、そこ、かしこ、

蝉(せみ)、蝉(せみ)、蝉(せみ)、蝉(せみ)、

いろんな蝉(せみ)が啼(な)き出した。



わたしの家(いへ)の蝉(せみ)の音(ね)が

最初の口火、

いま山の手の番町(ばんちやう)の

どの庭、どの木、どの屋根も

七月の真赤(まつか)な吐息の火に焦(こ)げる。



枝にも、葉にも、瓦(かはら)にも、

軒(のき)にも、戸にも、簾(すだれ)にも、

流れるやうな朱(しゆ)を注(さ)した

光のなかで蝉(せみ)が啼(な)く。



無駄と知らずに、根気よく、

砂を握(つか)んでずらす蝉(せみ)。



鍋(なべ)の油を煮たぎらし、

呪(のろ)ひごとする悪の蝉(せみ)。



重い苦患(くげん)に身悶(みもだ)えて、

鉄の鎖をゆする蝉(せみ)。



悟りめかして、しゆ、しゆ、しゆ、しゆと

水晶の珠数(じゆず)を鳴らす蝉(せみ)。



思ひ出しては一(ひと)しきり

泣きじやくりする恋の蝉(せみ)。



蝉(せみ)、蝉(せみ)、蝉(せみ)、蝉(せみ)、

※(あつ)[#「執/れんが」、U+24360、207-下-1]い真夏の日もすがら、

蝉(せみ)の音(ね)は

啼(な)き止(や)んで、また啼(な)き次ぐ。



さて誰(だれ)が知ろ、

啼(な)かず、叫ばず、ただひとり

蔭(かげ)にかくれて、微(かす)かにも

羽ばたきをする雌(めす)の蝉(せみ)。





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