與謝野晶子 晶子詩篇全集







新秋





朝露(あさつゆ)のおくままに、天地(あめつち)は

サフイイルと、青玉(せいぎよく)と

真珠を盛つたギヤマンの室(しつ)。

朝の日の昇るまま、天地(あめつち)は

黄金(わうごん)と、しろがねと

珊瑚(さんご)をまぜたモザイクの壁。

その中に歌ふトレモロ――秋の初風(はつかぜ)。







初秋(はつあき)の歌





初秋(はつあき)は来(き)ぬ、白麻(しらあさ)の

明るき蚊帳(かや)に臥(ふ)しながら、

夜(よ)の更けゆけば水色の

麻の軽(かろ)きを襟近く

打被(うちかづ)くまで涼しかり。



上の我子(わがこ)は二人(ふたり)づれ

大人(おとな)の如(ごと)く遠く行(ゆ)き、

夏の休みを陸奥(みちのく)の

山辺(やまべ)の友の家(いへ)に居て

今朝(けさ)うれしくも帰りきぬ。



休みのはてに己(おの)が子と

別るる鄙(ひな)の親達は

夏の尽くるや惜しからん、

都に住めるしあはせは

秋の立つにも身に知らる。



貧しけれども、わが家(いへ)の

今日(けふ)の夕食(ゆふげ)の楽しさよ、

黒川郡(くろがはぐん)の山辺(やまべ)にて

我子(わがこ)の採(と)れる百合(ゆり)の根を

我子(わがこ)と共にあぢはへば。







初秋の月





世界はいと静かに

涼しき夜(よる)の帳(とばり)に睡(ねむ)り、

黄金(こがね)の魚(うを)一つ

その差延べし手に光りぬ、

初秋(はつあき)の月。



紫水晶(むらさきずゐしやう)の海は

黒き大地(だいぢ)に並び夢みて、

一つの波は彼方(かなた)より

柔かき節奏(ふしどり)に

その上を馳(は)せ来(きた)る。



波は次第に高まる、

麦の畝(うね)の風に逆(さか)ふ如(ごと)く。

さて長き磯(いそ)の上に

拡がり、拡がる、

しろがねの網(あみ)として。



波は幾度(いくたび)もくり返し

奇(く)しき光の魚(うを)を抱かんとす。

されど網(あみ)を知らで、

常に高く彼処(かしこ)に光りぬ、

初秋(はつあき)の月。







優しい秋





誇りかな春に比べて、

優しい、優しい秋。

目に見えない刷毛(はけ)を

秋は手にして、

日蔭(ひかげ)の土、

風に吹かれる雲、

街の並木、

茅(かや)の葉、

葛(かづら)の蔓(つる)、

雑草の花にも、

一つ一つ似合はしい

好(よ)い色を択(えら)んで、

まんべんなく、細細(こまごま)と、

みんなを彩(ゑど)つて行(ゆ)く。

御覧(ごらん)よ、

その畑(はたけ)に並んだ、

小鳥の脚(あし)よりも繊弱(きやしや)な

蕎麦(そば)の茎にも、

夕焼の空のやうな

美(うつ)くしい臙脂紫(ゑんじむらさき)……

これが秋です。

優しい、優しい秋。







コスモスの花





少し冷たく、匂(にほ)はしく、

清く、はかなく、たよたよと、

コスモスの花、高く咲く。

秋の心を知る花か、

うすももいろに高く咲く。







秋声





初秋(はつあき)の日の砂の上に

ひろき葉一つ、はかなくも

薄黄(うすき)を帯びし灰色の

影をば曳(ひ)きて落ち来(きた)る。

あはれ傷つく鳥ならば

血に染(そ)みつつも叫ばまし、

秋に堪(た)へざる落葉(おちば)こそ

反古(ほご)にひとしき音(おと)すなれ。













秋は薄手(うすで)の杯(さかづき)か、

ちんからりんと杯洗(はいせん)に触れて沈むよな虫が啼(な)く。

秋は妹の日傘(パラソル)か、

きやしやな翡翠(ひすゐ)の柄(え)の把手(とつて)、

明るい黄色(きいろ)の日があたる。



さて、また、秋は廿二三(にじふにさん)の今様(いまやう)づくり、

青みを帯びたお納戸(なんど)の著丈(きだけ)すらりと、

白茶地(しらちやぢ)に金糸(きんし)の多い色紙形(しきしがた)、唐織(からおり)の帯も眩(まばゆ)く、

園遊会の片隅のいたや楓(もみぢ)の蔭(かげ)を行(ゆ)き、

少し伏目に、まつ白な菊の花壇をじつと見る。



それから後ろのわたしと顔を見合せて、

「まあ、いい所で」と走り寄り、

「どうしてそんなにお痩(や)せだ」と、

十歳(とを)の時、別れた姉のやうな口振(くちぶり)は、

優しい、優しい秋だこと。







街に住みて





葡萄(ぶだう)いろの秋の空を仰(あふ)[#ルビの「あふ」は底本では「おほ」]げば、

初めて斯(か)かるみづみづしき空を見たる心地す。

われ今日(けふ)まで何(なに)をしてありけん、

厨(くりや)と書斎に在(あ)りしことの寂(さび)しきを知らざりしかな。

わが心今更(いまさら)の如(ごと)く解かれたるを感ず。



葡萄色(ぶだういろ)の秋の空は露にうるほふ、

斯(か)かる日にあはれ田舎へ行(ゆ)かまし。

そこにて掘りたての里芋を煮る吊鍋(つりなべ)の湯気を嗅(か)ぎ、

そこにて尻尾(しりを)ふる百舌(もず)の甲高(かんだか)なる叫びを聞き、

そこにて刈稲(かりいね)を積みて帰る牛と馬とを眺め、

そこにて鳥兜(とりかぶと)と野菊(のきく)と赤き蓼(たで)とを摘まばや。



葡萄(ぶだう)いろの秋の空はまた田舎の朝によろし。

砂川(すなかは)の板橋の上に片われ月(づき)しろく残り、

「川魚御料理(かはうをおんれうり)」の家(いへ)は未(いま)だ寝たれど、

百姓屋の軒毎(のきごと)に立つる朝食(あさげ)の煙は

街道(がいだう)の丈(たけ)高き欅(けやき)の並木に迷ひ、

籾(もみ)する石臼(いしうす)の音、近所隣(となり)にごろごろとゆるぎ初(そ)むれば、

「とつちやん[#「とつちやん」は底本では「とつちんや」]」と小(ちさ)き末(すゑ)娘に呼ばれて、門先(かどさき)の井戸の許(もと)に鎌磨(かまと)ぐ老爺(おやぢ)もあり。

かかる時、たとへば渋谷の道玄坂の如(ごと)く、

突きあたりて曲る、行手(ゆくて)の見えざる広き坂を、

今結びし藁鞋(わらぢ)の紐(ひも)の切目(きりめ)すがすがしく、

男も女も脚絆(きやはん)して足早(あしばや)に上(のぼ)りゆく旅姿こそをかしからめ。



葡萄(ぶだう)いろの秋の空の、されど又さびしきよ。

われを父母(ちゝはゝ)ありし故郷(ふるさと)の幼心(をさなごゝろ)に返し、

恋知らぬ素直なる処女(をとめ)の如(ごと)くにし、

中(なか)六番町の庭の無花果(いちじく)の[#「無花果の」は底本では「無果花の」]木の下(もと)、

手を組みて云(い)ひ知らぬ淡(あは)き愁(うれひ)に立たしめぬ、

おそらくは此朝(このあさ)の無花果(いちじく)のしづくよ、すべて涙ならん。







郊外





けたたましく

私を喚(よ)んだ百舌(もず)は何処(どこ)か。

私は筆を擱(お)いて門(もん)を出た。

思はず五六町(ちやう)を歩いて、

今丘の上に来た。



見渡す野のはてに

青く晴れた山、

日を薄桃色(うすもゝいろ)に受けた山、

白い雲から抜け出して

更に天を望む山。



今朝(けさ)の空はコバルトに

少し白を交ぜて濡(ぬ)れ、

その下の稲田(いなだ)は

黄金(きん)の総(ふさ)で埋(うづ)まり、

何処(どこ)にも広がる太陽の笑顔。



そよ風も悦(よろこ)びを堪(こら)へかね、

その静かな足取(あしどり)を

急に踊りの振(ふり)に換へて、

またしても円(まろ)く大きく

芒(すゝき)の原を滑(す)べる。



縦横(たてよこ)の路(みち)は

幾すぢの銀を野に引き、

或(ある)ものは森の彼方(かなた)に隠れ、

或(ある)ものは近き村の口から

荷馬車と共に出て来る。



ああ野は秋の最中(もなか)、

胸一(いつ)ぱいに空気を吸へば、

人を清く健(すこ)[#ルビの「すこ」は底本では「すこや」]やかにする

黒土(くろつち)の香(か)、草の香(か)、

穀物の香(か)、水の香(か)。



私はじつと

其等(それら)の香(か)の中に浸(ひた)る。

またやがて浸(ひた)ると云(い)はう、

爽(さは)やかに美しい大自然の

悠久(いうきう)の中に。



此(こ)の小(ち)さい私の感激を

人の言葉に代へて云(い)ふ者は、

私の側(そば)に立つて

紅(あか)い涙を著(つ)けたやうな

ひとむらの犬蓼(いぬたで)の花。







海峡の朝





十一月の海の上を通る

快い朝方(あさがた)の風がある。

それに乗つて海峡を越える

無数の桃色の帆、金色(こんじき)の帆、

皆、朝日を一(いつ)ぱいに受けてゐる。



わたしはたつた一人(ひとり)

浜の草原(くさはら)に蹲踞(しやが)んで、

翡翠色(ひすゐいろ)の海峡に

あとから、あとからと浮(うき)出して来る

船の帆の花片(はなびら)に眺め入(い)る。



わたしの周囲には、

草が狐色(きつねいろ)の毛氈(まうせん)を拡げ、

中には、灌木(かんぼく)の

銀の綿帽子を著(つ)けた杪(こずゑ)や

牡丹色(ぼたんいろ)の茎が光る。



後ろの方では、

何処(どこ)の街の工場(こうば)か、

遠い所で一(ひと)しきり、

甘えるやうな汽笛の音(おと)が

長い金属の線を空に引く。







秋の盛り





秋の盛りの美(うつ)くしや、

(はこべ)の葉さへ小さなる

黄金(こがね)の印(いん)をあまた佩(お)び、

野葡萄(のぶだう)さへも瑠璃(るり)を掛く。[#「掛く。」は底本では「掛く」]



百舌(もず)も鶸(ひは)[#ルビの「ひは」は底本では「ひよ」]も肥えまさり、

里の雀(すゞめ)も鳥らしく

晴れたる空に群れて飛び、

蜂(はち)も巣毎(すごと)に子の歌ふ。



小豆色(あづきいろ)する房垂れて

鶏頭(けいとう)高く咲く庭に、

一(ひと)しきり射(さ)す日の入りも

涙ぐむまで身に沁(し)みぬ。







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