與謝野晶子 晶子詩篇全集









別離





退船(たいせん)の銅鑼(どら)いま鳴り渡り、

見送(みおくり)の人人(ひとびと)君を囲めり。

君は忙(せは)しげに人人(ひとびと)と手を握る。

われは泣かんとはづむ心の毬(まり)を辛(から)くも抑(おさ)へ、

人人(ひとびと)の中を脱(ぬ)けて小走(こばし)りに、

うしろの甲板(でつき)に隠(かく)るれば、

波より射返(いかへ)す白きひかり墓の如(ごと)し。



この二三分………四五分の寂(さび)しさ、

われ一人(ひとり)のけ者の如(ごと)し、

君と人人(ひとびと)とのみ笑ひさざめく。

恐らく遠く行(ゆ)く旅の身は君ならで、

この寂(さび)しき、寂(さび)しき我ならん。



退船(たいせん)の銅鑼(どら)又ひびく。

残刻(ざんこく)に、されどまた痛快に、

わが一人(ひとり)とり残されし冷たき心を苛(さいな)むその銅鑼(どら)……



込み合へる人人(ひとびと)に促され、押され、慰められ、

我は力なき毬(まり)の如(ごと)く、ふらふらと船を下(くだ)る。

乗り移りし小蒸汽(こじようき)より見上ぐれば、

今更に※田丸(あつたまる)[#「執/れんが」、U+24360、231-下-7]の船梯子(ふなばしご)の高さよ。

ああ君と我とは早くも千里万(ばん)里の差………



わが小蒸汽(こじようき)は堪(た)へかねし如(ごと)く終(つひ)に啜(すゝ)り泣くに………

一声(いつせい)、二声(にせい)………

千百(せんびやく)の悲鳴をほつと吐息に換へ、

「ああなつかしや」と心細きわが魂(たましひ)の、

臨終(いまは)の念の如(ごと)くに打洩(うちもら)す※(あつ)[#「執/れんが」、U+24360、232-上-1]き涙の白金(はくきん)の幾滴(いくてき)………



君が船は無言のままに港を出(い)づ。

船と船、人人(ひとびと)は叫びかはせど、

かなたに立てる君と此処(ここ)に坐(すわ)れる我とは、

静かに、静かに、二つの石像の如(ごと)く別れゆく……



(一九一一年十一月十一日神戸にて)









別後(べつご)





わが夫(せ)の君海に浮(うか)びて去りしより、

わが見る夜毎(よごと)の夢、また、すべて海に浮(うか)ぶ。

或夜(あるよ)は黒きわたつみの上、

片手に乱るる裾(すそ)をおさへて、素足のまま、

君が大船(おほふね)の舳先(へさき)に立ち、

白き蝋燭(らふそく)の銀の光を高くさしかざせば、

滴(したゝ)る蝋(らふ)のしづく涙と共に散りて、

黄なる睡蓮(すいれん)の花となり、又しろき鱗(うろこ)の魚(うを)となりぬ。

かかる夢見しは覚めたる後(のち)も清清(すがすが)し。



[#1行アキは底本ではなし]されど、又、かなしきは或夜(あるよ)の夢なりき。

君が大船(おほふね)の窓の火ややに消えゆき、

唯(た)だ一つ残れる最後の薄き光に、

われ外(そと)より硝子(がらす)ごしにさし覗(のぞ)けば、

われならぬ面(おも)やつれせしわが影既に内(うち)にありて、

あはれ君が棺(ひつぎ)の前にさめざめと泣き伏すなり。

「われをも内(うち)に入(い)れ給(たま)へ」と叫べど、

外(そと)は波風の音おどろしく、

内(うち)はうらうへに鉛の如(ごと)く静かに重く冷たし。

泣けるわが影は

氷の如(ごと)く、霞(かすみ)の如(ごと)く、透(す)きとほる影の身なれば、

わが声を聴かぬにやあらん。



われは胸も裂くるばかり苛立(いらだ)ち、

扉の方(かた)より馳(は)せ入(い)らんと、

三(み)たび五(いつ)たび甲板(でつき)の上を繞(めぐ)れど、

皆堅く鎖(とざ)して入(い)るべき口も無し。

もとの硝子(がらす)窓に寄りて足ずりする時、

第三のわが影、艫(とも)の方(かた)の渦巻く浪(なみ)にまじり、

青白く長き手に抜手(ぬきで)きつて泳ぎつつ、

「は、は、は、は、そは皆物好きなるわが夫(せ)の君のわれを試(た)めす戯れぞ」と笑ひき。

覚めて後(のち)、我はその第三の我を憎みて、

日(ひ)ひと日(ひ)腹だちぬ。







ひとり寝





良人(をつと)の留守の一人(ひとり)寝に、

わたしは何(なに)を著(き)て寝よう。

日本の女のすべて著(き)る

じみな寝間著(ねまき)はみすぼらし、

非人(ひにん)の姿「死」の下絵、

わが子の前もけすさまじ。



わたしは矢張(やはり)ちりめんの

夜明(よあけ)の色の茜染(あかねぞめ)、

長襦袢(ながじゆばん)をば選びましよ。

重い狭霧(さぎり)がしつとりと

花に降るよな肌ざはり、

女に生れたしあはせも

これを著(き)るたび思はれる。



斜(はす)に裾(すそ)曳(ひ)く長襦袢(ながじゆばん)、

つい解けかかる襟もとを

軽く合せるその時は、

何(なん)のあてなくあこがれて

若さに逸(はや)るたましひを

じつと抑(おさ)へる心もち。



それに、わたしの好きなのは、

白蝋(はくらふ)の灯(ひ)にてらされた

夢見ごころの長襦袢(ながじゆばん)、

この匂(にほ)はしい明りゆゑ、

君なき閨(ねや)もみじろげば

息づむまでに艶(なまめ)かし。



児等(こら)が寝すがた、今一度、

見まはしながら灯(ひ)をば消し、

寒い二月の床(とこ)のうへ、

こぼれる脛(はぎ)を裾(すそ)に巻き、

つつましやかに足曲げて、

夜著(よぎ)を被(かづ)けば、可笑(をか)しくも

君を見初(みそ)めたその頃(ころ)の

娘ごころに帰りゆく。



旅の良人(をつと)も、今ごろは

巴里(パリイ)の宿のまどろみに、

極楽鳥の姿する

わたしを夢に見てゐるか。







東京にて





わたしはあまりに気が滅入(めい)る。

なんの自分を案じましよ、

君を恋しと思ひ過ぎ、

引き立ち過ぎて気が滅入(めい)る。



「初恋の日は帰らず」と、

わたしの恋の琴の緒(を)に

その弾き歌は用が無い。

昔にまさる燃える気息(いき)。



昔にまさるため涙。

人目をつつむ苦しさに、

鳴りを沈めた琴の絃(いと)、

じつと哀(かな)しく張り詰める。



巴里(パリイ)の大路(おほぢ)を行(ゆ)く君は

わたしの外(ほか)に在るとても、

わたしは君の外(ほか)に無い、

君の外(ほか)には世さへ無い。



君よ、わたしの遣瀬(やるせ)なさ、

三月(みつき)待つ間(ま)に身が細り、

四月(よつき)の今日(けふ)は狂ひ死(じ)に

するかとばかり気が滅入(めい)る。



人並ならぬ恋すれば、

人並ならぬ物おもひ。

其(そ)れもわたしの幸福(しあはせ)と

思ひ返せど気が滅入(めい)る。



昨日(きのふ)の恋は朝の恋、

またのどかなる昼の恋。

今日(けふ)する恋は狂ほしい

真赤(まつか)な入日(いりひ)の一(ひと)さかり。



とは思へども気が滅入(めい)る。

若(も)しもそのまま旅に居て

君帰らずばなんとせう。

わたしは矢張(やはり)気が滅入(めい)る。







図案





久しき留守に倚(よ)りかかる

君が手なれの竹の椅子(いす)。

とる針よりも、糸よりも、

女ごころのかぼそさよ。



膝(ひざ)になびいた一(ひと)ひらの

江戸紫に置く繍(ぬひ)は、

ひまなく恋に燃える血の

真赤な胸の罌粟(けし)の花。



花に添ひたる海の色、

ふかみどりなる罌粟(けし)の葉は、

君が越えたる浪形(なみがた)に

流れて落ちるわが涙。



さは云(い)へ、女のたのしみは、

わが繍(ぬ)ふ罌粟(けし)の「夢」にさへ

花をば揺する風に似て、

君が気息(いき)こそ通(かよ)ふなれ。







旅に立つ





いざ、天(てん)の日は我がために

金(きん)の車をきしらせよ。

颶風(あらし)の羽(はね)は東より

いざ、こころよく我を追へ。



黄泉(よみ)の底まで、泣きながら、

頼む男を尋ねたる

その昔にもえや劣る。

女の恋のせつなさよ。



晶子や物に狂ふらん、

燃ゆる我が火を抱きながら、

天(あま)がけりゆく、西へ行(ゆ)く、

巴里(パリイ)の君へ逢(あ)ひに行(ゆ)く。



(一九一二年五月作)









子等に





あはれならずや、その雛(ひな)を

荒巌(あらいは)の上の巣に遺(のこ)し、

恋しき兄鷹(せう)を尋ねんと、

颶風(あらし)の空に下(お)りながら、

雛(ひな)の啼(な)く音(ね)にためらへる

若き女鷹(めだか)の若(も)しあらば。――

それは窶(やつ)れて遠く行(ゆ)く

今日(けふ)の門出の我が心。

いとしき児(こ)らよ、ゆるせかし、

しばし待てかし、若き日を

猶(なほ)夢を見るこの母は

汝(な)が父をこそ頼むなれ。







巴里より葉書の上に





巴里(パリイ)に著(つ)いた三日目に

大きい真赤(まつか)な芍薬(しやくやく)を

帽の飾りに附(つ)けました。

こんな事して身の末(すゑ)が

どうなるやらと言ひながら。







エトワアルの広場





土から俄(には)かに

孵化(ふくわ)して出た蛾(が)のやうに、

わたしは突然、

地下電車(メトロ)から地上へ匐(は)ひ上がる。

大きな凱旋門(がいせんもん)がまんなかに立つてゐる。

それを繞(めぐ)つて

マロニエの並木が明るい緑を盛上げ、

そして人間と、自動車と、乗合馬車と、

乗合自動車との点と塊(マツス)が

命ある物の

整然とした混乱と

自主独立の進行とを、

断間(たえま)無しに

八方(はつぱう)の街から繰出し、

此処(ここ)を縦横(じゆうわう)[#ルビの「じゆうわう」は底本では「じうわう」]に縫つて、

断間(たえま)無しに

八方(はつぱう)の街へ繰込んでゐる。



おお、此処(ここ)は偉大なエトワアルの広場……

わたしは思はずじつと立ち竦(すく)む。



わたしは思つた、――

これで自分は此処(ここ)へ二度来る。

この前来た時は

いろんな車に轢(ひ)き殺され相(さう)で、

怖(こは)くて、

広場を横断する勇気が無かつた。

そして輻(ふく)になつた路(みち)を一つ一つ越えて、

モンソオ公園へ行(ゆ)く路(みち)の

アヴニウ・ウツスの入口(いりくち)を見附(みつ)ける為(た)めに、

広場の円の端を

長い間ぐるぐると歩(あ)るいてゐた。

どうした気持のせいでか、

アヴニウ・ウツスの入口(いりくち)を見附(みつ)け損(そこな)つたので、

凱旋門(がいせんもん)を中心に

二度も三度も広場の円の端を

馬鹿(ばか)らしく歩(あ)るき廻つてゐるのであつた。



けれど今日(けふ)は用意がある。

わたしは地図を研究して来てゐる。

今日(けふ)わたしの行(ゆ)くのは

バルザツク街(まち)の裁縫師(タイユウル)の家(いへ)だ。

バルザツク街(まち)へ出るには、

この広場を前へ

真直(まつすぐ)に横断すればいいのである。



わたしは斯(か)う思つたが、併(しか)し、

真直(まつすぐ)に広場を横断するには

縦横(じゆうわう)に絶間(たえま)無く馳(は)せちがふ

速度の速い、いろんな車が怖(こは)くてならぬ。

広場へ出るが最期

二三歩で

轢(ひ)き倒されて傷をするか、

轢(ひ)き殺されてしまふかするであらう……



この時、わたしに、突然、

何(なん)とも言ひやうのない

叡智と威力とが内(うち)から湧(わ)いて、

わたしの全身を生きた鋼鉄の人にした。

そして日傘(パラソル)と嚢(サツク)とを提(さ)げたわたしは

決然として、馬車、自動車、

乗合馬車、乗合自動車の渦の中を真直(まつすぐ)に横ぎり、

あわてず、走らず、

逡巡(しゆんじゆん)せずに進んだ。

それは仏蘭西(フランス)の男女の歩(あ)るくが如(ごと)くに歩(あ)るいたのであつた。

そして、わたしは、

わたしが斯(か)うして悠悠(いういう)と歩(あ)るけば、

速度の疾(はや)いいろんな怖(おそ)ろしい車が

却(かへ)つて、わたしの左右に

わたしを愛して停(とゞ)まるものであることを知つた。



わたしは新しい喜悦に胸を跳(をど)らせながら、

斜めにバルザツク街(まち)へ入(はひ)つて行つた。

そして裁縫師(タイユウル)の家(いへ)では

午後二時の約束通り、

わたしの繻子(しゆす)のロオヴの仮縫(かりぬひ)を終つて

若い主人夫婦がわたしを待つてゐた。







薄暮(はくぼ)





ルウヴル宮(きゆう)[#ルビの「きゆう」は底本では「きう」]の正面も、

中庭にある桃色の

凱旋門(がいせんもん)もやはらかに

紫がかつて暮れてゆく。

花壇の花もほのぼのと

赤と白とが薄くなり、

並んで通る恋人も

ひと組ひと組暮れてゆく。

君とわたしも石段に

腰掛けながら暮れてゆく。







ルサイユの逍遥





ルサイユの宮(みや)の

大理石の階(かい)を降(くだ)り、

後庭(こうてい)の六月の

花と、香(か)と、光の間(あひだ)を過ぎて

われ等(ら)三人(みたり)の日本人は

広大なる森の中に入(い)りぬ。



二百(にびやく)年を経たる(ぶな)の大樹(だいじゆ)は

明るき緑の天幕(てんと)を空に張り、

その下(もと)に紫の苔(こけ)生(お)ひて、

物古(ものふ)りし石の卓一つ

匐(は)ふ蔦(つた)の黄緑(わうりよく)の若葉と

薄赤き蔓(つる)とに埋(うづ)まれり。



二人(ふたり)の男は石の卓に肘(ひぢ)つきて

苔(こけ)の上に横たはり、

われは上衣(うはぎ)を脱ぎて

(ぶな)の根がたに蹲踞(うづくま)りぬ。

快き静けさよ、かなたの梢(こずゑ)に小鳥の高音(たかね)……

近き涼風(すゞかぜ)の中に立麝香草(たちじやかうさう)の香り……



わが心は宮(みや)の中(うち)に見たる

ルイ王とナポレオン皇帝との

華麗と豪奢(がうしや)とに酔(ゑ)ひつつあり。

后(きさき)達の寝室の清清(すがすが)しき白と金色(こんじき)……

モリエエルの演じたる

宮廷劇場の静かな猩猩緋(しやう/″\ひ)……



されど、楽しきわが夢は覚めぬ。

目まぐるしき過去の世紀は

かの王后(わうこう)の栄華と共に亡びぬ。

わが目に映るは今

脆(もろ)き人間の外(ほか)に立てる

(ぶな)の大樹と石の卓とばかり。



ああ、われは寂(さび)し、

わが追ひつつありしは

人間の短命の生(せい)なりき。

いでや、森よ、

われは千年の森の心を得て、

悠悠(いう/\)と人間の街に帰るよしもがな。







仏蘭西の海岸にて





さあ、あなた、磯(いそ)へ出ませう、

夜通(やどほ)[#ルビの「やどほ」はママ]し涙に濡(ぬ)れた

気高(けだか)い、清い目を

世界が今開(あ)けました。

おお、夏の暁(あかつき)、

この暁(あかつき)の大地の美しいこと、

天使の見る夢よりも、

聖母の肌よりも。



海峡には、ほのぼのと

白い透綾(すきや)の霧が降つて居ます。

そして其処(そこ)の、近い、

黒い暗礁の

疎(まば)らに出た岩の上に

鷺(さぎ)が五六羽(は)、

首を羽(はね)の下に入(い)れて、

脚(あし)を浅い水に浸(つ)けて、

じつとまだ眠つてゐます。

彼等を驚かさないやうに、

水際(みづぎは)の砂の上を、そつと、

素足で歩(あ)るいて行(ゆ)きませう。



まあ、神神(かう/″\)しいほど、

涼しい風だこと……

世界の初めにエデンの園で

若いイヴの髪を吹いたのも此(この)風でせう。

ここにも常に若い

みづみづしい愛の世界があるのに、

なぜ、わたし達は自由に

裸のままで吹かれて行(ゆ)かないのでせう。

けれど、また、風に吹かれて、

帆のやうに袂(たもと)の揚がる快さには

日本の著物(きもの)の幸福(しあはせ)が思はれます。



御覧(ごらん)なさい、

わたし達の歩みに合せて、

もう海が踊り始めました。

緑玉(エメラルド)の女衣(ロオブ)に

水晶と黄金(きん)の笹縁(さゝべり)……

浮き上がりつつ、沈みつつ、

沈みつつ、浮き上がりつつ……

そして、その拡がつた長い裾(すそ)が

わたし達の素足と縺(もつ)れ合ひ、

そしてまた、ざぶるうん、ざぶるうんと

間(ま)を置いて海の鐃(ねうばち)が鳴らされます。



あら、鷺(さぎ)が皆立つて行(ゆ)きます、

俄(には)かに紅鷺(べにさぎ)のやうに赤く染まつて……

日が昇るのですね、

霧の中から。







フオンテンブロウの森





秋の歌はそよろと響く

白楊(はくやう)と毛欅(ぶな)の森の奥に。

かの歌を聞きつつ、我等は

しづかに語らめ、しづかに。



褪(さ)めたる朱(しゆ)か、

剥(は)がれたる黄金(きん)か、

風無くて木(こ)の葉は散りぬ、

な払ひそ、よしや、衣(きぬ)にとまるとも。



それもまた木(こ)の葉の如(ごと)く、

かろやかに一つ白き蝶(てふ)

舞ひて降(くだ)れば、尖(とが)りたる

赤むらさきの草ぞゆするる。



眠れ、眠れ、疲れたる

春夏(はるなつ)の踊子(をどりこ)よ、蝶(てふ)よ。

かぼそき路(みち)を行(ゆ)きつつ、猶(なほ)我等は

しづかに語らめ、しづかに。



おお、此処(ここ)に、岩に隠れて

ころころと鳴る泉あり、

水の歌ふは我等が為(た)めならん、

君よ、今は語りたまふな。







巴里郊外





たそがれの路(みち)、

森の中に一(ひと)すぢ、

呪(のろ)はれた路(みち)、薄白(うすじろ)き路(みち)、

靄(もや)の奥へ影となり遠ざかる、

あはれ死にゆく路(みち)。



うち沈みて静かな路(みち)。

ひともと[#「ひともと」は底本では「もともと」]何(な)んの木であらう、

その枯れた裸の腕(かひな)を挙げ、

小暗(をぐら)きかなしみの中に、

心疲れた路(みち)を見送る。



たそがれの路(みち)の別れに、樺(かば)の木と

榛(はん)の森は気が狂(ふ)れたらし、

あれ、谺響(こだま)が返す幽(かす)かな吐息……

幽(かす)かな冷たい、調子はづれの高笑ひ……

また幽(かす)かな啜(すゝ)り泣き……



蛋白石色(オパアルいろ)の珠数珠(じゆずだま)の実の

頸飾(くびかざり)を草の上に留(とゞ)め、

薄墨色の音せぬ古池を繞(めぐ)りて、

靄(もや)の奥へ影となりて遠ざかる、

あはれ、たそがれの森の路(みち)……



(一九一二年巴里にて)









ツウル市にて





水に渇(かつ)えた白緑(はくろく)の

ひろい麦生(むぎふ)を、すと斜(はす)に

翔(かけ)る燕(つばめ)のあわてもの、

何(なに)の使(つかひ)に急ぐのか、

よろこびあまる身のこなし。



続いて、さつと、またさつと、

生(なま)あたたかい南風(みなみかぜ)

ロアルを越して吹く度(たび)に、

白楊(はくやう)の樹(き)がさわさわと

待つてゐたよに身を揺(ゆす)る。



河底(かはぞこ)にゐた家鴨(あひる)らは

岸へ上(のぼ)つて、アカシヤの

蔭(かげ)にがやがや啼(な)きわめき、

燕(つばめ)は遠く去つたのか、

もう麦畑(むぎばた)に影も無い。



それは皆皆よい知らせ、

暫(しばら)くの間(ま)に風は止(や)み、

雨が降る、降る、ほそぼそと

金(きん)の糸やら絹の糸[#「絹の糸」は底本では「絹糸の」]、

真珠の糸の雨が降る。



嬉(うれ)しや、これが仏蘭西(フランス)の

雨にわたしの濡(ぬ)れ初(はじ)め。

軽い婦人服(ロオブ)に、きやしやな靴、

ツウルの野辺(のべ)の雛罌粟(コクリコ)の

赤い小路(こみち)を君と行(ゆ)き。



濡(ぬ)れよとままよ、濡(ぬ)れたらば、

わたしの帽のチウリツプ

いつそ色をば増しませう、

増さずば捨てて、代りには

野にある花を摘んで挿そ。



そして昔のカテドラル

あの下蔭(したかげ)で休みましよ。

雨が降る、降る、ほそぼそと

金(きん)の糸やら、絹の糸、

真珠の糸の雨が降る。



(ロアルは仏蘭西南部の[#「南部の」は底本では「南都の」]河なり)









セエヌ川





ほんにセエヌ川よ、いつ見ても

灰がかりたる浅みどり……

陰影(かげ)に隠れたうすものか、

泣いた夜明(よあけ)の黒髪か。



いいえ、セエヌ川は泣きませぬ。

橋から覗(のぞ)くわたしこそ

旅にやつれたわたしこそ……



あれ、じつと、紅玉(リユビイ)の涙のにじむこと……

船にも岸にも灯(ひ)がともる。

セエヌ川よ、

やつばりそなたも泣いてゐる、

女ごころのセエヌ川……







芍薬





大輪(たいりん)に咲く仏蘭西(フランス)の

芍薬(しやくやく)こそは真赤(まつか)なれ。

枕(まくら)にひと夜(よ)置きたれば

わが乱れ髪夢にして

みづからを焼く火となりぬ。







ロダンの家の路





真赤(まつか)な土が照り返す

だらだら坂(ざか)の二側(ふたかは)に、

アカシヤの樹(き)のつづく路(みち)。



あれ、あの森の右の方(かた)、

飴色(あめいろ)をした屋根と屋根、

あの間(あひだ)から群青(ぐんじやう)を

ちらと抹(なす)つたセエヌ川……



[#1行アキは底本ではなし]涼しい風が吹いて来る、

マロニエの香(か)と水の香(か)と。



これが日本の畑(はたけ)なら

青い「ぎいす」が鳴くであろ。

黄ばんだ麦と雛罌粟(ひなげし)と、

黄金(きん)に交ぜたる朱(しゆ)の赤さ。



誰(た)が挽(ひ)き捨てた荷車か、

眠い目をして、路(みち)ばたに

じつと立ちたる馬の影。



「 MAITRE(メエトル) RODIN(ロダン) の別荘は。」

問ふ二人(ふたり)より、側(そば)に立つ

KIMONO(キモノ) 姿のわたしをば

不思議と見入る田舎人(ゐなかびと)。



「メエトル・ロダンの別荘は

ただ真直(まつすぐ)に行(ゆ)きなさい、

木の間(あひだ)から、その庭の

風見車(かざみぐるま)が見えませう。」



巴里(パリイ)から来た三人(さんにん)の

胸は俄(には)かにときめいた。

アカシヤの樹(き)のつづく路(みち)。







飛行機





空をかき裂(さ)く羽(はね)の音……

今日(けふ)も飛行機が漕(こ)いで来る。

巴里(パリイ)の上を一(ひと)すぢに、

モンマルトルへ漕(こ)いで来る。



ちよいと望遠鏡をわたしにも……

一人(ひとり)は女です……笑つてる……

アカシアの枝が邪魔になる……



[#1行アキは底本ではなし]何処(どこ)へ行(ゆ)くのか知らねども、

毎日飛べば大空の

青い眺めも寂(さび)しかろ。



かき消えて行(ゆ)く飛行機の

夏の日中(ひなか)の羽(はね)の音……







モンマルトルの宿にて





あれ、あれ、通る、飛行機が、

今日(けふ)も巴里(パリイ)をすぢかひに、

風切る音をふるはせて、

身軽なこなし、高高(たかだか)と

羽(はね)をひろげたよい形(かたち)。



オペラ眼鏡(グラス)を目にあてて、

空を踏まへた胆太(きもぶと)の

若い乗手(のりて)を見上ぐれば、

少し捻(ひね)つた機体から

きらと反射の金(きん)が散る。



若い乗手(のりて)のいさましさ、

後ろを見捨て、死を忘れ。

片時(かたどき)やまぬ新らしい

力となつて飛んで行(ゆ)く、

前へ、未来へ、ましぐらに。









暗殺酒鋪(キヤバレエ・ダツサツサン)

   (巴里モンマルトルにて)









閾(しきゐ)を内へ跨(また)ぐとき、

墓窟(カバウ)の口を踏むやうな

暗い怖(おび)えが身に迫る。



煙草(たばこ)のけぶり、人いきれ、

酒類(しゆるゐ)の匂(にほ)ひ、灯(ひ)の明(あか)り、

黒と桃色、黄と青と……



あれ、はたはたと手の音が

きもの姿に帽を著(き)た

わたしを迎へて爆(は)ぜ裂ける。



鬼のむれかと想(おも)はれる

人の塊(かたまり)、そこ、かしこ。

もやもや曇る狭い室(しつ)。

    ×

淡い眩暈(めまひ)のするままに

君が腕(かひな)を軽く取り、

物珍(めづ)らしくさし覗(のぞ)く

知らぬ人等(ひとら)に会釈して、

扇で半(なか)ば頬(ほ)を隠し、

わたしは其処(そこ)に掛けてゐた。



ボウドレエルに似た像が

荒い苦悶(くもん)を食ひしばり、

手を後ろ手(で)に縛られて

煤(すゝ)びた壁に吊(つる)された、

その足もとの横長い

粗木(あらき)づくりの腰掛に。



「この酒鋪(キヤバレエ)の名物は、

四百(しひやく)年へた古家(ふるいへ)の

きたないことと、剽軽(へうきん)な[#「剽軽な」は底本では「飄軽な」]

また正直なあの老爺(おやぢ)、

それにお客は漫画家と

若い詩人に限ること。」

こんな話を友はする。

    ×

濶(ひろ)い股衣(ヅボン)の大股(おほまた)に

老爺(おやぢ)は寄つて、三人(さんにん)の

日本の客の手を取つた。

伸びるがままに乱れたる

髪も頬髭(ほひげ)も灰白(はひじろ)み、

赤い上被(タブリエ)、青い服、

それも汚(よご)れて裂けたまま。

太い目元に皺(しわ)の寄る

屈托(くつたく)のない笑顔して、

盛高(もりだか)の頬(ほ)と鼻先の

林檎色(りんごいろ)した美(うつ)くしさ。



老爺(おやぢ)の手から、前の卓、

わたしの小(ち)さい杯(さかづき)に

注(つ)がれた酒はムウドンの

丘の上から初秋(はつあき)の

セエヌの水を見るやうな

濃い紫を湛(たた)へてる。

    ×

「聴け、我が子等(こら)」と客達を

叱(しか)るやうなる叫びごゑ。



老爺(おやぢ)はやをら中央(まんなか)の

麦稈(むぎわら)椅子(いす)に掛けながら、

マンドリンをば膝(ひざ)にして、



「皆さん、今夜は珍しい

日本の詩人をもてなして、

ルレエヌをば歌ひましよ。」



老爺(おやぢ)の声の止(や)まぬ間(ま)に

拍手の音が降りかかる[#「かかる」は底本では「かがる」]。



赤い毛をした、痩形(やせがた)の、

モデル女も泳ぐよに

一人(ひとり)の画家の膝(ひざ)を下(を)り、

口笛を吹く、手を挙げる。







驟雨





驟雨(オラアジユ)は過ぎ行(ゆ)く、

巴里(パリイ)を越えて、

ブロオニユの森のあたりへ。



今、かなたに、

樺色(かばいろ)と灰色の空の

板硝子(いたがらす)を裂く雷(らい)の音、

青玉(せいぎよく)の電(いなづま)の瀑(たき)。



猶(なほ)見ゆ、遠山(とほやま)の尖(さき)の如(ごと)く聳(そば)だつ

薄墨(うすすみ)のオペラの屋根の上、

霧の奥に、

猩猩緋(しやう/″\ひ)と黄金(きん)の

光の女服(ロオブ)を脱ぎ放ち、

裸となりて雨を浴ぶる

夏の女皇(ぢよくわう)の

仄白(ほのじろ)き八月の太陽。



猶(なほ)、濡(ぬ)れわたる街の並木の

アカシヤとブラタアヌは

汗と塵埃(ほこり)と※(ねつ)[#「執/れんが」、U+24360、254-下-7]を洗はれて、

その喜びに手を振り、

頭(かしら)を返し踊るもあり。



カツフエのテラスに花咲く

万寿菊(まんじゆぎく)と薔薇(ばら)は

斜(はす)に吹く涼風(すゞかぜ)の拍子に乗りて

そぞろがはしく

ワルツを舞はんとするもあり。



猶(なほ)、そのいみじき

灌奠(ラバシヨン)の余沫(よまつ)は

枝より、屋根より、

はらはらと降らせぬ、

水晶の粒を、

銀の粒を、真珠の粒を。



驟雨(オラアジユ)は過ぎ行(ゆ)く、

爽(さわ)やかに、こころよく。

それを見送るは

祭の列の如(ごと)く楽し。



わがある七(しち)階の家(いへ)も、

わが住む三階の窓より見ゆる

近き四方(しはう)の家家(いへいへ)も、

窓毎(まどごと)に光を受けし人の顔、

顔毎(かほごと)に朱(しゆ)の笑(ゑ)まひ……







巴里の一夜





テアトル・フランセエズ[#「フランセエズ」は底本では「フランセエエ」]の二階目の、

紅(あか)い天鵞絨(びろうど)を張りつめた

看棚(ロオジユ)の中に唯(た)だ二人(ふたり)

君と並べば、いそいそと

跳(をど)る心のおもしろや。

もう幕開(まくあき)の鈴が鳴る。



第一列のバルコンに、

肌の透(す)き照る薄ごろも、

白い孔雀(くじやく)を見るやうに

銀を散らした裳(も)を曳(ひ)いて、

駝鳥(だてう)の羽(はね)のしろ扇、

胸に一(いち)りん白い薔薇(ばら)、

しろいづくめの三人(さんにん)は

マネが描(か)くよな美人づれ、

望遠鏡(めがね)の銃(つゝ)が四方(しはう)から

みな其処(そこ)へ向くめでたさよ。



また三階の右側に、

うす桃色のコルサアジユ、

金(きん)の繍(ぬひ)ある裳(も)を著(つ)けた

華美(はで)な姿の小女(こをんな)が

ほそい首筋、きやしやな腕、

指環(ゆびわ)の星の光る手で

少し伏目に物を読み、

折折(をりをり)あとを振返る

人待顔(ひとまちがほ)の美(うつ)くしさ。



あら厭(いや)、前のバルコンへ、

厚いくちびる、白い目の

アラビヤらしい黒奴(くろんぼ)が

襟も腕(かひな)も指さきも

きらきら光る、おなじよな

黒い女を伴(つ)れて来た。



どしん、どしんと三度程

舞台を叩(たゝ)く音がして、

しづかに揚(あが)る黄金(きん)の幕。

よごれた上衣(うはぎ)、古づぼん、

血に染(そ)むやうな赤ちよつき、

コツペが書いた詩の中の

人を殺した老鍛冶(らうかぢ)が

法官達の居ならんだ

前に引かれる痛ましさ、

足の運びもよろよろと……



おお、ムネ・シユリイ、見るからに

老優の芸の偉大さよ。







ミユンヘンの宿





九月の初め、ミユンヘンは

早くも秋の更けゆくか、

モツアルト街(まち)、日は射(さ)せど

ホテルの朝のつめたさよ。



青き出窓の欄干(らんかん)に

匍(は)ひかぶされる蔦(つた)の葉は

朱(しゆ)と紅(くれなゐ)と黄金(きん)を染め

照れども朝のつめたさよ。



鏡の前に立ちながら

諸手(もろで)に締むるコルセツト、

ちひさき銀のボタンにも

しみじみ朝のつめたさよ。







伯林停車場





ああ重苦しく、赤黒(ぐろ)く、

高く、濶(ひろ)く、奥深い穹窿(きゆうりゆう)[#ルビの「きゆうりゆう」は底本では「きうりゆう」]の、

神秘な人工の威圧と、

沸沸(ふつふつ)と迸(ほとばし)る銀白(ぎんぱく)の蒸気と、

爆(は)ぜる火と、哮(ほ)える鉄と[#「鉄と」は底本では「鉄ど」]、

人間の動悸(どうき)、汗の香(か)、

および靴音とに、

絶えず窒息(いきづま)り、

絶えず戦慄(せんりつ)する

伯林(ベルリン)の厳(おごそ)かなる大停車場(ぢやう)。

ああ此処(ここ)なんだ、世界の人類が

静止の代りに活動を、

善の代りに力を、

弛緩(ちくわん)の代りに緊張を、

平和の代りに苦闘を、

涙の代りに生血(いきち)を、

信仰の代りに実行を、

自(みづか)ら探し求めて出入(でい)りする、

現代の偉大な、新しい

生命を主とする本寺(カテドラル)は。

此処(ここ)に大きなプラツトフオオムが

地中海の沿岸のやうに横たはり、

その下に波打つ幾線の鉄の縄が

世界の隅隅(すみずみ)までを繋(つな)ぎ合せ、

それに断(た)えず手繰(たぐ)り寄せられて、

汽車は此処(ここ)へ三分間毎(ごと)に東西南北より著(ちやく)し、

また三分間毎(ごと)に東西南北へ此処(ここ)を出て行(ゆ)く。

此処(ここ)に世界のあらゆる目覚(めざ)めた人人(ひとびと)は、

髪の黒いのも、赤いのも、

目の碧(あお)いのも、黄いろいのも。

みんな乗りはづすまい、

降りはぐれまいと気を配り、

固(もと)より発車を報(しら)せる鈴(べる)も無ければ、

みんな自分で検(しら)べて大切な自分の「時(とき)」を知つてゐる。

どんな危険も、どんな冒険も此処(ここ)にある。

どんな鋭音(ソプラノ)も、どんな騒音も此処(ここ)にある、

どんな期待も、どんな昂奮(かうふん)も、どんな痙攣(けいれん)も、

どんな接吻(せつぷん)も、どんな告別(アデイユ)も此処(ここ)にある。

どんな異国の珍しい酒、果物、煙草(たばこ)、香料、

麻、絹布(けんふ)、毛織物、

また書物、新聞、美術品、郵便物も此処(ここ)にある。

此処(ここ)では何(なに)もかも全身の気息(いき)のつまるやうな、

全身の筋(すぢ)のはちきれるやうな、

全身の血の蒸発するやうな、

鋭い、忙(せは)しい、白※(はくねつ)[#「執/れんが」、U+24360、259-下-1]の肉感の歓びに満ちてゐる。

どうして少しの隙(すき)や猶予があらう、

あつけらかんと眺めてゐる休息があらう、

乗り遅れたからと云(い)つて誰(だれ)が気の毒がらう。

此処(ここ)では皆の人が唯(た)だ自分の行先(ゆくさき)ばかりを考へる。

此処(ここ)へ出入(でい)りする人人(ひとびと)は

男も女も皆選ばれて来た優者(いうしや)の風(ふう)があり、

額(ひたひ)がしつとりと汗ばんで、

光を睨(にら)み返すやうな目附(めつき)をして、

口は歌ふ前のやうにきゆつと緊(しま)り、

肩と胸が張つて、

腰から足の先までは

きやしやな、しかも堅固な植物の幹が歩(あ)るいてゐるやうである。

みんなの神経は苛苛(いらいら)としてゐるけれど、

みんなの意志は悠揚(いうやう)として、

鉄の軸のやうに正しく動いてゐる。

みんながどの刹那(せつな)をも空(むな)しくせずに

ほんとうに生きてる人達だ、ほんとうに動いてゐる人達だ。

あれ、巨象(マンモス)[#ルビの「マンモス」は底本では「モンマス」]のやうな大機関車を先(さ)きにして、

どの汽車よりも大きな地響(ぢひゞき)を立てて、

ウラジホストツクからブリユツセルまでを、

十二日間で突破する、

ノオル・デキスプレスの最大急行列車が入(はひ)つて来た。

怖(おそ)ろしい威厳を持つた機関車は

今、世界の凡(すべ)ての機関車を圧倒するやうにして駐(とま)つた。

ああ、わたしも是(こ)れに乗つて来たんだ、

ああ、またわたしも是(こ)れに乗つて行(ゆ)くんだ。







和蘭陀の秋





秋の日が――

旅人の身につまされやすい

秋の日が夕(ゆふべ)となり、

薄むらさきに煙(けぶ)つた街の

高い家(いへ)と家(いへ)との間(あひだ)に、

今、太陽が

万年青(おもと)の果(み)のやうに真紅(しんく)に

しつとりと濡(ぬ)れて落ちて行(ゆ)く。



反対な側(がは)の屋根の上には、

港の船の帆ばしらが

どれも色硝子(いろがらす)の棒を立て並べ、

そのなかに港の波が

幻惑の彩色(さいしき)を打混(うちま)ぜて

ぎらぎらとモネの絵のやうに光る。

よく見ると、その波の半(なかば)は

無数の帆ばしらの尖(さき)から翻(ひるが)へる[#「翻へる」は底本では「翻へる。」]

細長い藍色(あゐいろ)の旗である。



あなた、窓へ来て御覧なさい、

手紙を書くのは後(あと)にしませう、

まあ、この和蘭陀(おらんだ)の海の

美(うつ)くしい入日(いりび)。

わたし達は、まだ幸ひに若くて、

かうして、アムステルダムのホテルの

五階の窓に顔を並べて、

この佳(よ)い入日(いりび)を眺めてゐるのですね。

と云(い)つて、

明日(あす)わたし達が此処(ここ)を立つてしまつたら、

復(また)と此(こ)の港が見られませうか。



あれ、直(す)ぐ窓の下の通りに、

猩猩緋(しやう/″\ひ)の上衣(うはぎ)を黒の上に著(き)た

一隊の男の児(こ)の行列、

何(なん)と云(い)ふ可愛(かは)いい

小学の制服なんでせう。



ああ、東京の子供達は

どうしてゐるでせう。







同じ時





黒く大いなる起重機

我が五階の前に立ち塞(ふさ)がり、

その下に数町(すうちやう)離れて

沖に掛かれる汽船の灯(ひ)

黄菊(きぎく)の花を並ぶ。

税関の彼方(かなた)、

桟橋に寄る浪(なみ)のたぶたぶと

折折(をりをり)に鳴りて白し。

いづこの酒場の窓よりぞ、

ギタルに合はする船人(ふなびと)の唄(うた)

秋の夜風(よかぜ)に混(まじ)り、

波止場に沿ふ散歩道は

落葉(おちば)したる木立(こだち)の幹に

海の反射淡く残りぬ。

うら寒し、はるばる来(き)つる

アムステルダムの一夜(いちや)。







愁(きしう)





知らざりしかな、昨日(きのふ)まで、

わが悲(かなし)みをわが物と。

あまりに君にかかはりて。



君の笑(ゑ)む日をまのあたり

巴里(パリイ)の街に見る我(わ)れの

あはれ何(なに)とて寂(さび)しきか。



君が心は躍(をど)れども、

わが※(あつ)[#「執/れんが」、U+24360、262-下-10]かりし火は濡(ぬ)れて、

自(みづか)らを泣く時のきぬ。



わが聞く楽(がく)はしほたれぬ、

わが見る薔薇(ばら)はうす白(じろ)し、

わが執(と)る酒は酢に似たり。



ああ、わが心已(や)む間(ま)なく、

東の空にとどめこし

我子(わがこ)の上に帰りゆく。







モンソオ公園の雀





君は何(なに)かを読みながら、

マロニエの樹(き)の染(そ)み出した

斜(はす)な径(こみち)を、花の香(か)の

濡(ぬ)れて呼吸(いき)つく方(かた)へ去り、

わたしは毛欅(ぶな)の大木の

しだれた枝に日を避けて、

五色(ごしき)の糸を巻いたよな

円(まる)い花壇を左にし、

少しはなれた紫の

木立(こだち)と、青い水のよに

ひろがる芝を前にして、

絵具の箱を開(あ)けた時、



おお、雀(すゞめ)、雀(すゞめ)、

一つ寄り、

二つ寄り、

はら、はら、はらと、

十(とを)、二十(にじふ)、数知れず、

きやしやな黄色(きいろ)の椅子(いす)の前、

わたしへ向いて寄る雀(すゞめ)。



それ、お食べ、

それ、お食べ、

今日(けふ)もわたしは用意して、

麺麭(パン)とお米を持つて来た。



それ、お食べ、

雀(すゞめ)、雀(すゞめ)、雀(すゞめ)たち、

聖母の前の鳩(はと)のよに、

素直なかはいい雀(すゞめ)たち。

わたしは国に居た時に、

朝起きても筆、

夜(よ)が更けても筆、

祭も、日曜も、春秋(はるあき)も、

休む間(ま)無しに筆とつて、

小鳥に餌(ゑ)をば遣(や)るやうな

気安い時を持たなんだ。



おお、美(うつ)くしく円(まる)い背と

小(ちさ)い頭とくちばしが

わたしへ向いて並ぶこと。

見れば何(いづ)れも子のやうな、

わたしの忘れぬ子のやうな……

わたしは小声(こごゑ)で呼びませう、

それ光(ひかる)さん、

かはいい七(なな)ちやん、

秀(しげる)さん、麟坊(りんばう)さん、八峰(やつを)[#ルビの「やつを」は底本では「やつ」]さん……

あれ、まあ挙げた手に怖(おそ)れ、

逃げる一つのあの雀(すゞめ)、

お前は里に居た為(た)めに

親になじまぬ佐保(さほ)ちやんか。



わたしは何(なに)か云(い)つてゐた、

気が狂(ちが)ふので無いか知ら……

どうして気安いことがあろ、

ああ、気に掛る、気に掛る、

子供の事が又しても……



せはしい日本の日送りも

心ならずに執(と)る筆も、

身の衰へも、わが髪の

早く落ちるも皆子ゆゑ。



子供を忘れ、身を忘れ、

こんな旅寝(たびね)を、はるばると

思ひ立つたは何(なに)ゆゑか。

子をば育(はぐく)む大切な

母のわたしの時間から、

雀(すゞめ)に餌(ゑ)をばやる暇を

偸(ぬす)みに来たは何(なに)ゆゑか。



うつかりと君が言葉に絆(ほだ)されて………



いいえ、いいえ、

みんなわたしの心から………



あれ、雀(すゞめ)が飛んでしまつた。



それはあなたのせゐでした[#「せゐでした」は底本では「せいでした」]。

みんな、みんな、雀(すゞめ)が飛んでしまひました。



あなた、わたしは何(ど)うしても

先に日本へ帰ります。

もう、もう絵なんか描(か)きません。

雀(すゞめ)、雀(すゞめ)、

モンソオ公園の雀(すゞめ)、

そなたに餌(ゑ)をも遣(や)りません。

[#ここで段組み終わり]





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