與謝野晶子 晶子詩篇全集









我手の花





我手(わがて)の花は人染(そ)めず、

みづからの香(か)と、おのが色。

さはれ、盛りの短(みじ)かさよ、

夕(ゆふべ)を待たで萎(しを)れゆく。



我手(わがて)の花は誰(た)れ知らん、

入日(いりひ)の後(のち)に見る如(ごと)き

うすくれなゐを頬(ほ)に残し、

淡き香(か)をもて呼吸(いき)[#ルビの「いき」は底本では「い」]すれど。



我手(わがて)の花は萎(しを)れゆく……

いと小(ささ)やかにつつましき

わが魂(たましひ)の花なれば

萎(しを)れゆくまますべなきか。







一すぢ残る赤い路





藤(ふぢ)とつつじの咲きつづく

四月五月に知り初(そ)めて、

わたしは絶えず此処(ここ)へ来る。

森の木蔭(こかげ)を細(こま)やかに

曲つて昇る赤い路(みち)。



わたしは此処(ここ)で花の香(か)に

恋の吐息の噴(ふ)くを聞き、

広い青葉の翻(かへ)るのに

若い男のさし伸べる

優しい腕の線を見た。



わたしは此処(ここ)で鳥の音(ね)が

胸の拍子に合ふを知り、

花のしづくを美しい

蝶(てふ)と一所(いつしよ)に浴びながら、

甘い木(こ)の実を口にした。



今はあらはな冬である。

霜と、落葉(おちば)と、木枯(こがらし)と、

爛(たゞ)れた傷を見るやうに

一(ひと)すぢ残る赤い路(みち)……

わたしは此処(ここ)へ泣きに来る。







砂の塔





「砂を掴(つか)んで、日もすがら

砂の塔をば建てる人

惜しくはないか[#「ないか」は底本では「ないが」]、其時(そのとき)が、

さては無益(むやく)な其(その)労が。



しかも両手で掴(つか)めども、

指のひまから砂が洩(も)る、

する、する、すると砂が洩(も)る、

軽(かろ)く、悲しく、砂が洩(も)る。



寄せて、抑(おさ)へて、積み上げて、

抱(かゝ)へた手をば放す時、

砂から出来た砂の塔

直(す)ぐに崩れて砂になる。」



砂の塔をば建てる人

これに答へて呟(つぶや)くは、

「時が惜しくて砂を積む、

命が惜しくて砂を積む。」







古巣より





空の嵐(あらし)よ、呼ぶ勿(なか)れ、

山を傾け、野を砕き、

所(ところ)定めず行(ゆ)くことは

地に住むわれに堪(た)へ難(がた)し。



野の花の香(か)よ、呼ぶ勿(なか)れ、

若(も)し花の香(か)となるならば

われは刹那(せつな)を香らせて

やがて跡なく消えはてん。



木(こ)の間(ま)の鳥よ、呼ぶ勿(なか)れ、

汝(な)れは固(もと)より羽(はね)ありて

枝より枝に遊びつつ、

花より花に歌ふなり。



すべての物よ、呼ぶ勿(なか)れ、

われは変らぬ囁(さゝや)きを

乏しき声にくり返し

初恋の巣にとどまりぬ。







人の言葉





善(よ)しや、悪(あ)しやを言ふ人の

稀(まれ)にあるこそ嬉(うれ)しけれ、

ものかずならで隅にある

わが歌のため、我(わ)れのため。



いざ知りたまへ、わが歌は

泣くに代へたるうす笑ひ、

灰に著(き)せたる色硝子(いろがらす)、

死に隣りたる踊(をどり)なり。



また知りたまへ、この我(わ)れは

春と夏とに行(ゆ)き逢(あ)はで、

秋の光を早く吸ひ、

月のごとくに青ざめぬ。









闇に釣る船

   (安成二郎氏の歌集「貧乏と恋と」の序詩)









真黒(まつくろ)な夜(よる)の海で

わたしは一人(ひとり)釣つてゐる。

空には嵐(あらし)が吼(ほ)え、

四方(しはう)には渦が鳴る。



細い竿(さを)の割に

可(か)なり沢山(たくさん)に釣れた。

小さな船の中(なか)七分(しちぶ)通り

光る、光る、銀白(ぎんぱく)の魚(さかな)が。



けれど、鉤(はり)を離すと、直(す)ぐ、

どの魚(うを)もみんな死(あが)つてしまふ。

わたしの釣らうとするのは

こんなんぢやない、決して。



わたしは知つてゐる、わたしの船が

だんだんと沖へ流れてゆくことを、

そして海がだんだんと

深く険(けは)しくなつてゆくことを。



そして、わたしの欲(ほ)しいと思ふ

不思議な命の魚(うを)は

どうやら、わたしの糸のとどかない

底の底を泳いでゐる。



わたしは夜明(よあけ)までに

是非とも其魚(そのうを)が釣りたい。

もう糸では間(ま)に合はぬ、

わたしは身を跳(をど)らして掴(つか)まう。



あれ、見知らぬ船が通る……

わたしは慄(おのゝ)く……

もしや、あの船が先(さ)きに

底の人魚を釣つたのぢやないか。







灰色の一路





ああ我等は貧し。

貧しきは

身に病(やまひ)ある人の如(ごと)く、

隠れし罪ある人の如(ごと)く、

また遠く流浪(るろう)する人の如(ごと)く、

常に怖(おび)え、

常に安(やす)からず、

常に心寒(こゝろさむ)し。



また、貧しきは

常に身を卑(ひく)くし、

常に力を売り、

常に他人と物の

駄獣(だじう)および器械となり、

常に僻(ひが)み、

常に呟(つぶや)く。



常に苦(くるし)み、

常に疲れ、

常に死に隣りし、

常に耻(はぢ)と、恨みと、

常に不眠と飢(うゑ)と、

常にさもしき欲と、

常に劇(はげ)しき労働と、

常に涙とを繰返す。



ああ我等、

是(こ)れを突破する日は何時(いつ)ぞ、

恐らくは生(せい)のあなた、

死の時ならでは……

されど我等は唯(た)だ行(ゆ)く、

この灰色の一路(いちろ)を。







厭な日





こんな日がある。厭(いや)な日だ。

わたしは唯(た)だ一つの物として

地上に置かれてあるばかり、

何(な)んの力もない、

何(な)んの自由もない、

何(な)んの思想もない。



なんだか云(い)つてみたく、

なんだか動いてみたいと感じながら、

鳥の居ない籠(かご)のやうに

わたしは全(まつた)く空虚(から)である。

あの希望はどうした、

あの思出(おもひで)はどうした。



手持不沙汰(ぶさた)でゐるわたしを

人は呑気(のんき)らしくも見て取らう、

また好(い)いやうに解釈して

浮世ばなれがしたとも云(い)ふであろ、

口の悪(わ)るい、噂(うはさ)の好きな人達は

衰へたとも伝へよう。



何(な)んとでも言へ……とは思つてみるが、

それではわたしの気が済まぬ。







風の夜





をりをりに気が附(つ)くと、

屋外(そと)には嵐(あらし)……

戸が寒相(さむさう)にわななき、

垣と軒(のき)がきしめく……

どこかで幽(かす)かに鳴る二点警鐘(ふたつばん)……



子供等を寝かせたのは

もう昨日(きのふ)のことのやうである。

狭い書斎の灯(ひ)の下(もと)で

良人(をつと)は黙つて物を読み、

わたしも黙つて筆を執(と)る。



きり……きり……きり……きり……

何(なに)かしら、冴(さ)えた低い音が、

ふと聞(きこ)えて途切(とぎ)れた……

きり……きり……きり……きり……

あら、また途切(とぎ)れた……



嵐(あらし)の音にも紛れず、

直(す)ぐ私の後ろでするやうに、

今したあの音は、

臆病(おくびやう)な、低い、そして真剣な音だ……

命のある者の立てる快い音だ……



或(あ)る直覚が私に閃(ひらめ)く……鋼鉄質の其(その)音……

私は小さな声で云(い)つた、

「あなた、何(なに)か音がしますのね」

良人(をつと)は黙つてうなづいた。

其時(そのとき)また、きり……きり……きり……きり……



「追つて遣(や)らう、

今夜なんか這入(はひ)[#ルビの「はひ」は底本では「はい」]られては、

こちらから謝らなければならない」

と云(い)つて、良人(をつと)は、

笑ひながら立ち上がつた。



私は筆を止(や)めずにゐる。

私には今の、嵐(あらし)の中で戸を切る、

臆病(おくびやう)な、低い、そして真剣な音が

自分の仕事の伴奏のやうに、[#「やうに、」は底本では「やうに。」]

ぴつたりと合つて快い。



もう女中も寝たらしく、

良人(をつと)は次の間(ま)で、

みづから燐寸(まつち)を擦つて、

そして手燭(てしよく)と木太刀(きだち)とを提(さ)げて、

廊下へ出て行つた。



間(ま)も無く、ちり、りんと鈴が鳴つて、

門の潜(くゞ)り戸が幽(かす)かに開(あ)いた。

「逃げたのだ、泥坊が」と、

私は初めてはつきり

嵐(あらし)の中の泥坊に気が附(つ)いた。



私達の財嚢(ぜにいれ)には、今夜、

小さな銀貨一枚しか無い。

私は私達の貧乏の惨めさよりも、

一人(ひとり)の知らぬ男の無駄骨を気の毒に思ふ。

きり……きり……きり……きり……と云(い)ふ音がまだ耳にある。







小猫





小猫、小猫、かはいい小猫、

坐(すわ)れば小(ちさ)く、まんまろく、

歩けばほつそりと、

美(うつ)くしい、真(ま)つ白な小猫、

生れて二月(ふたつき)たたぬ間(ま)に

孤蝶(こてふ)様のお宅から

わたしのうちへ来た小猫。



子供達が皆寝て、夜(よ)が更けた。

一人(ひとり)わたしが蚊に食はれ

書斎で黙つて物を書けば、

小猫よ、おまへは寂(さび)しいか、

わたしの後ろに身を擦り寄せて

小娘のやうな声で啼(な)く。



こんな時、

先(さき)の主人(あるじ)はお優しく

そつとおまへを膝(ひざ)に載せ

どんなにお撫(な)でになつたことであろ。

けれど、小猫よ、

わたしはおまへを抱く間(ま)がない、

わたしは今夜

もうあと十枚書かねばならんのよ。



夜(よ)がますます更けて、

午前二時の上野の鐘が幽(かす)かに鳴る。

そして、何(なに)にじやれるのか、

小猫の首の鈴が

次の間(ま)で鳴つてゐる。







記事一章





今は

(私は正しく書いて置く、)

一千九百十六年一月十日の

午前二時四十(しじふ)二分。

そして此時(このとき)から十七(じふしち)分前に、

一つの不意な事件が

私を前後不覚に

くつくつと笑はせた。



宵の八時に

子供達を皆寝かせてから、

良人(をつと)と私はいつもの通り、

全(まつた)く黙つて書斎に居た。

一人(ひとり)は書物に見入つて

折折(をりをり)そつと辞書を引き、

一人(ひとり)は締切(しめきり)に遅れた

雑誌の原稿を書いて居た。

毎夜(まいよ)の習はし……

飯田町(いひだまち)を発した大貨物列車が

崖上(がけうへ)の中古(ちゆうぶる)な借家(しやくや)を

船のやうに揺盪(ゆす)つて通つた。

この器械的地震に対して

私達の反応は鈍い、

唯(た)だぼんやり

もう午前二時になつたと感じた外(ほか)は。



それから間(ま)も無くである。

庭に向いて机を据ゑた私と

雨戸を中に一尺の距離もない

直(す)ぐ鼻の先の外(そと)で、

突然、一つの嚔(くしやみ)が破裂した、

「泥坊の嚔(くしやみ)だ、」

刹那(せつな)にかう直感した私は

思はずくつくつと笑つた。



「何(な)んだね」と良人(をつと)が振(ふり)向いた時、

其(その)不可抗力の声に気まり悪く、

あわてて口を抑(おさ)へて、

そつと垣の向うへ逃げた者がある。

「泥坊が嚔(くしやみ)をしたんですわ、」

大洋の底のやうな六時間の沈黙が破れて、

二人(ふたり)の緊張が笑ひに融(と)けた。

こんなに滑稽(こつけい)な偶然と見える必然が世界にある。













川原(かはら)[#ルビの「かはら」は底本では「かははら」]の底の底の価(あたひ)なき

砂の身なれば人採(と)らず、

風の吹く日は塵(ちり)となり

雨の降る日は泥となり、

人、牛、馬の踏むままに

圧(お)しひしがれて世にありぬ。

稀(まれ)に川原(かはら)のそこ、かしこ、

れんげ、たんぽぽ、月見草(つきみさう)、

ひるがほ、野菊、白百合(しろゆり)の

むらむらと咲く日もあれど、

流れて寄れる種なれば

やがて流れて跡も無し。







怖ろしい兄弟





ここの家(いへ)の名前人(なまへにん)は

総領の甚六がなつてゐる。

欲ばかり勝(か)つて

思ひやりの欠けてゐる兄だ。

不意に、隣の家(うち)へ押しかけて、

庇(かば)ひ手のない老人(としより)の

半身不随の亭主に、

「きさまの持つてゐる

目ぼしい地所や家蔵(いへくら)を寄越(よこ)せ。

おらは不断おめえに恩を掛けてゐる。

おらが居ねえもんなら、

おめえの財産なんか

遠(とほ)の昔に

近所から分(わ)け取(ど)りにされて居たんだ。

その恩返(おんかへ)しをしろ」と云(い)つた。

なんぼよいよいでも、

隣の爺(おやぢ)には、性根(しやうね)がある。

あるだけの智慧をしぼつて

甚六の言ひ掛(がか)りを拒(こば)んだ。

押問答が長引いて、

二人(ふたり)の声が段段と荒くなつた。

文句に詰つた甚六が

得意な最後の手を出して、

拳(こぶし)を振上げ相(さう)になつた時、

大勢の甚六の兄弟が

がやがやと寄つて来た。

「腰が弱(よ)ゑいなあ、兄貴、」

「脅(おど)しが足りねえなあ、兄貴、」

「もつと相手をいぢめねえ、」

「なぜ、いきなり刄物(はもの)を突き附(つ)けねえんだ、」

「文句なんか要(い)らねえ、腕づくだ、腕づくだ、」

こんなことを口口(くちぐち)に云(い)つて、

兄を罵(のゝし)る兄弟ばかりである、

兄を励ます兄弟ばかりである。

ほんとに兄を思ふ心から、

なぜ無法な言ひ掛(がか)りなんかしたんだと

兄の最初の発言を

咎(とが)める兄弟とては一人(ひとり)も居なかつた。

おお、怖(おそ)ろしい此処(ここ)の家(いへ)の

名前人(なまへにん)と家族。







駄獣(だじう)の群(むれ)





ああ、此(この)国の

怖(おそ)るべく且(か)つ醜き

議会の心理を知らずして

衆議院の建物を見上ぐる勿(なか)れ。

禍(わざはひ)なるかな、

此処(ここ)に入(はひ)る者は悉(ことごと)く変性(へんせい)す。

たとへば悪貨の多き国に入(い)れば

大英国の金貨も

七日(なぬか)にて鑢(やすり)に削り取られ

其(その)正しき目方を減ずる如(ごと)く、

一たび此(この)門を跨(また)げば

良心と、徳と、

理性との平衝を失はずして

人は此処(ここ)に在り難(がた)し。

見よ、此処(ここ)は最も無智なる、

最も敗徳(はいとく)[#「敗徳」はママ]なる、

はた最も卑劣無作法なる

野人(やじん)本位を以(もつ)て

人の価値を

最も粗悪に平均する処(ところ)なり。

此処(ここ)に在る者は

民衆を代表せずして

私党を樹(た)て、

人類の愛を思はずして

動物的利己を計り、

公論の代りに

私語と怒号と罵声(ばせい)とを交換す。

此処(ここ)にして彼等の勝つは

固(もと)より正義にも、聡明(そうめい)にも、

大胆にも、雄弁にもあらず、

唯(た)だ彼等互(たがひ)に

阿附(あふ)し、模倣し、

妥協し、屈従して、

政権と黄金(わうごん)とを荷(にな)ふ

多数の駄獣(だじう)と

みづから変性(へんせい)するにあり。

彼等を選挙したるは誰(たれ)か、

彼等を寛容しつつあるは誰(たれ)か。

此(この)国の憲法は

彼等を逐(お)ふ力無し、

まして選挙権なき

われわれ大多数の

貧しき平民の力にては……

かくしつつ、年毎(としごと)に、

われわれの正義と愛、

われわれの血と汗、

われわれの自由と幸福は

最も臭(くさ)く醜き

彼等駄獣(だじう)の群(むれ)に

寝藁(ねわら)の如(ごと)く踏みにじらる……







或年の夏





米の値(ね)の例(れい)なくも昂(あが)りければ、

わが貧しき十人(じふにん)の家族は麦を食らふ。

わが子らは麦を嫌ひて

「お米の御飯を」と叫べり。

麦を粟(あは)に、また小豆(あづき)に改むれど、

猶(なほ)わが子らは「お米の御飯を」と叫べり。

わが子らを何(なん)と叱(しか)らん、

わかき母も心には米を好めば。



「部下の遺族をして

窮する者無からしめ給(たま)はんことを。

わが念頭に掛かるもの是(こ)れのみ」と、

佐久間大尉の遺書を思ひて、

今更にこころ咽(むせ)ばるる。







三等局集配人(押韻)





わたしは貧しき生れ、

小学を出て、今年十八。

田舎の局に雇はれ、

一日に五(ご)ヶ村(そん)を受持ち、

集配をして身は疲れ、



暮れて帰れば、母と子と

さびしい膳(ぜん)のさし向ひ、

蜆(しゞみ)の汁で、そそくさと

済ませば、何(なん)の話も無い。

たのしみは湯へ行(ゆ)くこと。



湯で聞けば、百姓の兄さ、

皆読んで来て善(よ)くする、

大衆文学の噂(うはさ)。

わたしは唯(た)だ知つてゐる、

その円本(ゑんほん)を配る重さ。



湯が両方の足に沁(し)む。

垢(あか)と土とで濁(にご)された

底でしばらく其(そ)れを揉(も)む。

ああ此(この)足が明日(あす)もまた

桑の間(あひだ)の路(みち)を踏む。



この月も二十日(はつか)になる。

すこしの楽(らく)も無い、

もう大きな雑誌が来る。

やりきれない、やりきれない、

休めば日給が引かれる。



小説家がうらやましい、

菊池寛(くわん)も人なれ、

こんな稼業は知るまい。

わたしは人の端くれ、

一日八十銭の集配。













バビロン人の築きたる

雲間(くもま)の塔は笑ふべし、

それにまさりて呪(のろ)はしき

巨大の塔は此処(ここ)にあり。



千億の石を積み上げて、

横は世界を巻きて展(の)び、

劔(つるぎ)を植ゑし頂(いたゞき)は

空わたる日を遮(さへぎ)りぬ。



何(なに)する壁ぞ、その内に

今日(けふ)を劃(しき)りて、人のため、

ひろびろしたる明日(あす)の日の

目路(めぢ)に入(い)るをば防ぎたり。



壁の下(もと)には万年の

小暗(をぐら)き蔭(かげ)の重(かさ)なれば、

病むが如(ごと)くに青ざめて

人は力を失ひぬ。



曇りたる目の見難(みがた)さに

行(ゆ)く方(かた)知らず泣くもあり、

羊の如(ごと)く押し合ひて

血を流しつつ死ぬもあり。



ああ人皆よ、何(なに)ゆゑに

古代の壁を出(い)でざるや、

永久(とは)の苦痛に泣きながら

猶(なほ)その壁を頼めるや。



をりをり強き人ありて

怒(いか)りて鉄の槌(つち)を振り、

つれなき壁の一隅(ひとすみ)を

崩さんとして穿(うが)てども、



衆を協(あは)せし[#「協せし」は底本では「恊せし」]凡夫(ぼんぷ)等は

彼(か)れを捕(とら)へて撲(う)ち殺し、

穿(うが)ちし壁をさかしらに

太き石もて繕(つく)ろひぬ。



さは云(い)へ壁を築きしは

もとより世世(よよ)の凡夫(ぼんぶ)なり、

稀(まれ)に出(い)で来(く)る天才の

至上の智慧に及ばんや。



時なり、今ぞ飛行機と

大重砲(だいぢゆうはう)の世は来(きた)る。

見よ、真先(まつさき)に、日の方(かた)へ、

「生きよ」と叫び飛ぶ群(むれ)を。







不思議の街





遠い遠い処(ところ)へ来て、

わたしは今へんな街を見てゐる。

へんな街だ、兵隊が居ない、

戦争(いくさ)をしようにも隣の国がない。

大学教授が消防夫を兼ねてゐる。

医者が薬価を取らず、

あべこべに、病気に応じて、

保養中の入費(にふひ)にと

国立銀行の小切手を呉(く)れる。

悪事を探訪する新聞記者が居ない、

てんで悪事が無いからなんだ。

大臣は居ても官省(くわんしやう)が無い、

大臣は畑(はたけ)へ出てゐる、

工場(こうぢやう)へ勤めてゐる、

牧場(ぼくぢやう)に働いてゐる、

小説を作つてゐる、絵を描いてゐる。

中には掃除車の御者(ぎよしや)をしてゐる者もある。

女は皆余計なおめかしをしない、

瀟洒(せうしや)とした清い美を保つて、

おしやべりをしない、

愚痴と生意気を云(い)はない、

そして男と同じ職を執(と)つてゐる。

特に裁判官は女の名誉職である。

勿論(もちろん)裁判所は民事も刑事も無い、

専(もつぱ)ら賞勲の公平を司(つかさど)つて、

弁護士には臨時に批評家がなる。

併(しか)し長長(ながなが)と無用な弁を振(ふる)ひはしない、

大抵は黙つてゐる、

稀(まれ)に口を出しても簡潔である。

それは裁決を受ける功労者の自白が率直だからだ、[#「だからだ、」は底本では「だからだ」]

同時に裁決する女が聡明(そうめい)だからだ。

また此(この)街には高利貸がない、

寺がない、教会がない、

探偵がない、

十種以上の雑誌がない、

書生芝居がない、

そのくせ、内閣会議も、

結婚披露も、葬式も、

文学会も、絵の会も、

教育会も、国会も、

音楽会も、踊(をどり)も、

勿論(もちろん)名優の芝居も、

幾つかある大国立劇場で催してゐる。

全(まつた)くへんな街だ、

わたしの自慢の東京と

大(おほ)ちがひの街だ。

遠い遠い処(ところ)へ来て

わたしは今へんな街を見てゐる。







女は掠奪者





大百貨店の売出(うりだ)しは

どの女の心をも誘惑(そそ)る、

祭よりも祝(いはひ)よりも誘惑(そそ)る。

一生涯、異性に心引かれぬ女はある、

子を生まうとしない女はある、

芝居を、音楽を、

茶を、小説を、歌を好まぬ女はある。

凡(おほよ)そ何処(どこ)にあらう、

三越(みつこし)と白木屋(しろきや)の売出(うりだ)しと聞いて、

胸を跳(をど)らさない女が、

俄(には)かに誇大妄想家とならない女が。……

その刹那(せつな)、女は皆、

(たとへ半反(はんたん)のモスリンを買ふため、

躊躇(ちうちよ)して、見切場(みきりば)に

半日(はんにち)を費(つひや)す身分の女とても、)

その気分は貴女(きぢよ)である、

人の中の孔雀(くじやく)である。

わたしは此(こ)の華やかな気分を好く。

早く神を撥無(はつむ)したわたしも、

美の前には、つつましい

永久の信者である。



けれども、近頃(ちかごろ)、

わたしに大きな不安と

深い恐怖とが感ぜられる。

わたしの興奮は直(す)ぐに覚め、

わたしの狂※(きやうねつ)[#「執/れんが」、U+24360、290-上-13]は直(す)ぐに冷えて行(ゆ)く。

一瞬の後(のち)に、わたしは屹度(きつと)、

「馬鹿(ばか)な亜弗利加(アフリカ)の僭王(せんわう)よ」

かう云(い)つて、わたし自身を叱(しか)り、

さうして赤面し、

はげしく良心的に苦(くるし)む。



大百貨店の閾(しきゐ)を跨(また)ぐ女に

掠奪者でない女があらうか。

掠奪者、この名は怖(おそ)ろしい、

しかし、この名に値する生活を

実行して愧(は)ぢぬ者は、

ああ、世界無数の女ではないか。

(その女の一人(ひとり)にわたしがゐる。)

女は父の、兄の、弟の、

良人(をつと)の、あらゆる男子の、

知識と情※(じやうねつ)[#「執/れんが」、U+24360、290-下-14]と血と汗とを集めた

労働の結果である財力を奪つて

我物(わがもの)の如(ごと)くに振舞つてゐる。

一掛(ひとかけ)の廉(やす)半襟を買ふ金(かね)とても

女自身の正当な所有では無い。

女が呉服屋へ、化粧品屋へ、

貴金属商へ支払ふ

あの莫大(ばくだい)な額の金(かね)は

すべて男子から搾取するのである。



女よ、

(その女の一人(ひとり)にわたしがゐる、)

無智、無能、無反省なお前に

男子からそんなに法外な報酬を受ける

立派な理由が何処(どこ)にあるか。

お前は娘として

その華麗な服装に匹敵する

どんなに気高(けだか)い愛を持ち、

どんなに聡明(そうめい)な思想を持つて、

世界の青年男子に尊敬され得(う)るか。

お前は妻として

どれだけ良人(をつと)の職業を理解し、

どれだけ其(そ)れを助成したか。

お前は良人(をつと)の伴侶(はんりよ)として

対等に何(なん)の問題を語り得(う)るか。

お前は一日の糧(かて)を買ふ代(しろ)をさへ

自分の勤労で酬(むく)いられた事があるか。

お前は母として

自分の子供に何(なに)を教へたか。

お前からでなくては与へられない程の

立派な精神的な何物(なにもの)かを

少しでも自分の子供に吹き込んだか。

お前は第一母たる真の責任を知つてゐるか。



ああ、わたしは是(こ)れを考へる、

さうして戦慄(せんりつ)する。

憎むべく、咀(のろ)ふべく、憐(あはれ)むべく、

愧(は)づべき女よ、わたし自身よ、

女は掠奪者、その遊惰性(いうだせい)と

依頼性とのために、

父、兄弟、良人(をつと)の力を盗み、

可愛(かは)いい我子(わがこ)の肉をさへ食(は)むのである。



わたしは三越(みつこし)や白木屋(しろきや)の中の

華やかな光景を好く。

わたしは不安も恐怖も無しに

再び「美」の神を愛したいと願ふ。

しかし、それは勇気を要する。

わたしは男に依(よ)る寄生状態から脱して、

わたしの魂(たましひ)と両手を

わたし自身の血で浄(きよ)めた後(のち)である。

わたしは先(ま)づ働かう、

わたしは一切の女に裏切る、

わたしは掠奪者の名から脱(のが)れよう。



女よ、わたし自身よ、

お前は一村(いつそん)、一市、一国の文化に

直接なにの貢献があるか。

大百貨店の売出(うりだ)しに

お前は特権ある者の如(ごと)く、

その矮(ひく)い、蒼白(そうはく)なからだを、

最上最貴の

有勲者(いうくんしや)として飾らうとする。

ああ、男の法外な寛容、

ああ、女の法外な僭越(せんえつ)。



(一九一八年作)









冷たい夕飯





ああ、ああ、どうなつて行(い)くのでせう、

智慧も工夫も尽きました。

それが僅(わづ)かなおあしでありながら、

融通の附(つ)かないと云(い)ふことが

こんなに大きく私達を苦(くるし)めます。

正(たゞ)しく受取る物が

本屋の不景気から受取れずに、

幾月(いくつき)も苦しい遣繰(やりくり)や

恥を忘れた借りを重ねて、

ああ、たうとう行(ゆ)きづまりました。



人は私達の表面(うはべ)を見て、

くらしむきが下手(へた)だと云(い)ふでせう。

もちろん、下手(へた)に違ひありません、

でも、これ以上に働くことが

私達に出来るでせうか。

また働きに対する報酬の齟齬(そご)を

これ以下に忍ばねばならないと云(い)ふことが

怖(おそ)ろしい禍(わざはひ)でないでせうか。

少なくとも、私達の大勢の家族が

避け得られることでせうか。



今日(けふ)は勿論(もちろん)家賃を払ひませなんだ、

その外(ほか)の払ひには

二月(ふたつき)まへ、三月(みつき)まへからの借りが

義理わるく溜(たま)つてゐるのです。

それを延ばす言葉も

今までは当てがあつて云(い)つたことが

已(や)むを得ず嘘(うそ)になつたのでした。

しかし、今日(けふ)こそは、

嘘(うそ)になると知つて嘘(うそ)を云(い)ひました。

どうして、ほんたうの事が云(い)はれませう。



何(なに)も知らない子供達は

今日(けふ)の天長節を喜んでゐました。

中にも光(ひかる)は

明日(あす)の自分の誕生日を

毎年(まいとし)のやうに、気持よく、

弟や妹達と祝ふ積(つも)りでゐます。

子供達のみづみづしい顔を

二つのちやぶ台の四方(しはう)に見ながら、

ああ、私達ふたおやは

冷たい夕飯(ゆふはん)を頂きました。



もう私達は顛覆(てんぷく)するでせう、

隠して来たぼろを出すでせう、

体裁を云(い)つてゐられないでせう、

ほんたうに親子拾何人が餓(かつ)ゑるでせう。

全(まつた)くです、私達を

再び立て直す日が来ました。

耻と、自殺と、狂気とにすれすれになつて、

私達を試みる

赤裸裸の、極寒(ごくかん)の、

氷のなかの日が来ました。



(一九一七年十二月作)









真珠貝





真珠の貝は常に泣く。

人こそ知らね、大海(おほうみ)は

風吹かぬ日も浪(なみ)立てば、

浪(なみ)に揺られて貝の身の

処(ところ)さだめず伏しまろび、

千尋(ちひろ)の底に常に泣く。



まして、たまたま目に見えぬ

小さき砂の貝に入(い)り

浪(なみ)に揺らるる度(たび)ごとに

敏(さと)く優(やさ)しき身を刺せば、

避くる由(よし)なき苦しさに

貝は悶(もだ)えて常に泣く。



忍びて泣けど、折折(をりをり)に

涙は身よりにじみ出(い)で、

貝に籠(こも)れる一点の

小さき砂をうるほせば、

清く切なきその涙

はかなき砂を掩(おほ)ひつつ、

日ごとに玉(たま)と変れども、

貝は転(まろ)びて常に泣く。



東に昇る「あけぼの」は

その温(あたたか)き薔薇(ばら)色を、

夜(よる)行(ゆ)く月は水色を、

虹(にじ)は不思議の輝きを、

ともに空より投げかけて、

砂は真珠となりゆけど、

それとも知らず、貝の身は

浪(なみ)に揺られて常に泣く。







浪のうねり





島の沖なる群青(ぐんじやう)の

とろりとしたる海の色、

ゆるいうねりが間(ま)を置いて

大きな梭(をさ)を振る度(たび)に

釣船一つ、まろまろと

盥(たらひ)のやうに高くなり、

また傾きて低くなり、

空と水とに浮き遊ぶ。

君と住む身も此(こ)れに似て

ひろびろとした愛なれば、

悲しきことも嬉(うれ)しきも

唯(た)だ永き日の波ぞかし。







夏の歌





あはれ、快きは夏なり。

万年の酒男(さかをとこ)太陽は

一時(ひととき)にその酒倉(さかぐら)を開(あ)けて、

光と、※(ねつ)[#「執/れんが」、U+24360、297-上-1]と、芳香(はうかう)と、

七色(なないろ)との、

巨大なる罎(ブタイユ)の前に

人を引く。



あはれ、快きは夏なり。

人皆ギリシヤの古(いにしへ)の如(ごと)く

うすき衣(きぬ)[#ルビの「きぬ」は底本では「ぎぬ」]を著(つ)け、

はた生れながらの

裸となりて、

飽くまでも、湯の如(ごと)く、

光明(くわうみやう)歓喜(くわんぎ)の酒を浴ぶ。



あはれ、快きは夏なり。

人皆太陽に酔(ゑ)へる時、

忽(たちま)ち前に裂くるは

夕立のシトロン。

さて夜(よる)となれば、

金属質の涼風(すゞかぜ)と

水晶の月、夢を揺(ゆす)る。







五月の歌





ああ五月(ごぐわつ)、我等の世界は

太陽と、花と、麦の穂と、

瑠璃(るり)の空とをもて飾られ、

空気は酒室(さかむろ)の呼吸(いき)の如(ごと)く甘く、

光は孔雀(くじやく)の羽(はね)の如(ごと)く緑金(りよくこん)なり。

ああ五月(ごぐわつ)、万物は一新す、

竹の子も地を破り、

どくだみの花も蝶(てふ)を呼び、

蜂(はち)も卵を産む。

かかる時に、母の胎を出(い)でて

清く勇ましき初声(うぶごゑ)を揚ぐる児(こ)、

抱寝(だきね)して、其児(そのこ)に

初めて人間のマナを飲まする母、

はげしき※愛(ねつあい)[#「執/れんが」、U+24360、298-上-7]の中に手を執(と)る

婚莚(こんえん)の夜(よ)の若き二人(ふたり)、

若葉に露の置く如(ごと)く額(ひたひ)に汗して、

桑を摘み、麻を織る里人(さとびと)、

共に何(なに)たる景福(けいふく)の人人(ひとびと)ぞ。

たとひ此(この)日、欧洲の戦場に立ちて、

鉄と火の前に、

大悪(だいあく)非道の犠牲とならん勇士も、

また無料宿泊所の壁に凭(よ)りて

明日(あす)の朝飯(あさはん)の代(しろ)を持たぬ無職者も、

ああ五月(ごぐわつ)、此(この)月に遇(あ)へることは

如何(いか)に力満ちたる実感の生(せい)ならまし。







ロダン夫人の賜へる花束





とある一つの抽斗(ひきだし)を開きて、

旅の記念の絵葉書をまさぐれば、

その下より巴里(パリイ)の新聞に包みたる

色褪(いろあ)せし花束は現れぬ。

おお、ロダン先生の庭の薔薇(ばら)のいろいろ……

我等二人(ふたり)はその日を如何(いか)で忘れん、

白髪(しらが)まじれる金髪の老貴女(きぢよ)、

濶(ひろ)き梔花色(くちなしいろ)の上衣(うはぎ)を被(はお)りたる、

けだかくも優(やさ)しきロダン夫人は、

みづから庭に下(お)りて、

露おく中に摘みたまひ、

我をかき抱(いだ)きつつ是(こ)れを取らせ給(たま)ひき。



花束よ、尊(たふと)く、なつかしき花束よ、

其(その)日の幸ひは猶(なほ)我等が心に新しきを、

纔(わづか)に三年の時は

無残にも、汝(そなた)を

埃及(エヂプト)のミイラに巻ける

五千年前(ぜん)の朽ちし布の

すさまじき茶褐色に等しからしむ。



われは良人(をつと)を呼びて、

曾(かつ)て其(その)日の帰路(きろ)、

夫人が我等を載せて送らせ給(たま)ひし

ロダン先生の馬車の上にて、

今一人(ひとり)の友と三人(みたり)

感激の中に嗅(か)ぎ合ひし如(ごと)く、

額(ぬか)を寄せて嗅(か)がんとすれば、

花は臨終(いまは)の人の歎く如(ごと)く、

つと仄(ほの)かなる香(にほひ)を立てながら、

二人(ふたり)の手の上に

さながら焦げたる紙の如(ごと)く、

あはれ、悲し、

ほろほろと砕け散りぬ。



おお、われは斯(か)かる時、

必ず冷(ひや)やかにあり難(がた)し、

我等が歓楽も今は

此(この)花と共に空(むな)しくやなるらん。

許したまへ、

涙を拭(ぬぐ)ふを。



良人(をつと)は云(い)ひぬ、

「わが庭の薔薇(ばら)の下(もと)に

この花の灰を撒(ま)けよ、

日本の土が

是(これ)に由(よ)りて浄(きよ)まるは

印度(いんど)の古き仏の牙(きば)を

教徒の齎(もたら)せるに勝(まさ)らん。」







暑き日の午前





暑し、暑し、

曇りたる日の温気(うんき)は

油(あぶら)障子の中にある如(ごと)し。

狭き書斎に陳(の)べたる

十鉢(とはち)の朝顔の花は

早くも我に先立ちて※(ねつ)[#「執/れんが」、U+24360、300-下-4]を感じ、

友禅の小切(こぎれ)の

濡(ぬ)れて撓(たわ)める如(ごと)く、

また、書きさして裂きて丸(まろ)めし

或(ある)時の恋の反古(ほご)の如(ごと)く、

はかなく、いたましく、

みすぼらしく打萎(うちしを)れぬ。

暑し、暑し、

机の蔭(かげ)よりは

小(ちひさ)く憎き吸血魔

藪蚊(やぶか)こそ現れて、

膝(ひざ)を、足を、刺し初む。

されど、アウギユストは元気にて

彼方(かなた)の縁に水鉄砲を弄(いぢ)り、

健(けん)はすやすやと

枕蚊帳(まくらかや)の中に眠れり。

この隙(すき)に、君よ、

筆を擱(お)きて、

浴びたまはずや、水を。

たた、たたと落つる

水道の水は細けれど、

その水音(みづおと)に、昨日(きのふ)、

ふと我は偲(しの)びき、

サン・クルウの森の噴水。







隠れ蓑





わたしの庭の「かくれみの」

常緑樹(ときはぎ)ながらいたましや、

時も時とて、茱萸(ぐみ)[#ルビの「ぐみ」は底本では「ぐ」]にさへ、

枳殻(からたち)にさへ花の咲く

夏の初めにいたましや、

みどりの枝のそこかしこ、

たまたまひと葉(は)二葉(ふたは)づつ

日毎(ひごと)に目立つ濃い鬱金(うこん)、

若い白髪(しらが)を見るやうに

染めて落ちるがいたましや。

わたしの庭の「かくれみの、」

見れば泣かれる「かくれみの。」







夜の机





西洋蝋燭(らふそく)の大理石よりも白きを硝子(がらす)の鉢に燃(もや)し、

夜更(よふ)くるまで黒檀(こくたん)の卓に物書けば幸福(しあはせ)多きかな。

あはれこの梔花色(くちなしいろ)の明りこそ

咲く花の如(ごと)き命を包む想像の狭霧(さぎり)なれ。



これを思へば昼は詩人の領(りやう)ならず、

天(あま)つ日は詩人の光ならず、

蓋(けだ)し阿弗利加(アフリカ)を沙漠(さばく)にしたる悪(あ)しき※(ねつ)[#「執/れんが」、U+24360、302-上-7]の気息(いき)のみ。



うれしきは夢と幻惑と暗示とに富める白蝋(はくらふ)の明り。

この明りの中に五感と頭脳とを越え、

全身をもて嗅(か)ぎ、触れ、知る刹那(せつな)――

一切と個性とのいみじき調和、

理想の実現せらるる刹那(せつな)は来(きた)り、

ニイチエの「夜(よる)の歌」の中なる「総(すべ)ての泉」の如(ごと)く、

わが歌は盛高(もりだか)になみなみと迸(ほとばし)る。







きちがひ茄子





とん、とん、とんと足拍子、

洞(ほら)を踏むよな足拍子、

つい嬉(うれ)しさに、秋の日の

長い廊下を走つたが、

何処(どこ)をどう行(ゆ)き、どう探し、

何(ど)うして採(と)つたか覚えねど、

わたしの袂(たもと)に入(はひ)つてた

きちがひ茄子(なす)と笑ひ茸(たけ)。

わたしは夢を見てゐるか、

もう気ちがひになつたのか、

あれ、あれ、世界が火になつた。

何処(どこ)かで人の笑ふ声。







花子の歌四章(童謡)







九官鳥



九官鳥はいつの間(ま)に

誰(だれ)が教へて覚えたか、

わたしの名をばはつきりと

優しい声で「花子さん。」



「何(なに)か御用」と問うたれば、

九官鳥の憎らしや、

聞かぬ振(ふり)して、間(ま)を置いて、

「ちりん、ちりん」と電鈴(ベル)の真似(まね)。



「もう知らない」と行(ゆ)きかけて

わたしが云(い)へば、後ろから、

九官鳥のおどけ者、

「困る、困る」と高い声。







薔薇と花子



花子の庭の薔薇(ばら)の花、

花子の植ゑた薔薇(ばら)なれば

ほんによう似た花が咲く。

色は花子の頬(ほ)の色に、

花は花子のくちびるに、

ほんによう似た薔薇(ばら)の花。



花子の庭の薔薇(ばら)の花、

花が可愛(かは)いと、太陽も

黄金(きん)の油を振撒(ふりま)けば、

花が可愛(かは)いと、そよ風も

人目に見えぬ波形(なみがた)の

薄い透綾(すきや)を著(き)せに来る。



側(そば)で花子の歌ふ日は

薔薇(ばら)も香りの気息(いき)をして

花子のやうな声を出し、

側(そば)で花子の踊る日は

薔薇(ばら)もそよろと身を揺(ゆす)り

花子のやうな振(ふり)をする。



そして花子の留守の日は

涙をためた目を伏せて、

じつと俯(うつ)向く薔薇(ばら)の花。

花の心のしをらしや、

それも花子に生き写し。

花子の庭の薔薇(ばら)の花。







花子の熊



雪がしとしと降つてきた。

玩具(おもちや)の熊(くま)を抱きながら、

小さい花子は縁に出た。



山に生れた熊(くま)の子は

雪の降るのが好きであろ、

雪を見せよと縁に出た。



熊(くま)は冷たい雪よりも、

抱いた花子の温かい

優しい胸を喜んだ。



そして、花子の手の中で、

玩具(おもちや)の熊(くま)はひと寝入り。

雪はますます降り積(つも)る。







蜻蛉(とんぼ)の歌



汗の流れる七月は

蜻蛉(とんぼ)も夏の休暇(おやすみ)か。

街の子供と同じよに

避暑地の浜の砂に来て

群れつつ薄い袖(そで)を振る。



小(ち)さい花子が昼顔の

花を摘まうと手を出せば、

これをも白い花と見て

蜻蛉(とんぼ)が一つ指先へ

ついと気軽に降りて来た。



思はぬ事の嬉(うれ)しさに

花子の胸は轟(とゞろ)いた。

今美(うつ)くしい羽(はね)のある

小(ち)さい天使がじつとして

花子の指に止まつてる。







手の上の花





鴨頭草(つきくさ)の花、手に載せて

見れば涼しい空色の

花の瞳(ひとみ)がさし覗(のぞ)く、

わたしの胸の寂(さび)しさを。



鴨頭草(つきくさ)の花、空色の

花の瞳(ひとみ)のうるむのは、

暗い心を見透(とほ)して、

わたしのために歎くのか。



鴨頭草(つきくさ)の花、しばらくは

手にした花を捨てかねる。

土となるべき友ながら、

我も惜(をし)めば花も惜し。



鴨頭草(つきくさ)の花、夜(よ)となれば、

ほんにそなたは星の花、

わたしの指を枝として

しづかに銀の火を点(とも)す。







一隅(いちぐう)にて





われは在り、片隅に。

或(ある)時は眠げにて、

或(ある)時は病める如(ごと)く、

或(ある)時は苦笑を忍びながら、

或(ある)時は鉄の枷(かせ)の

わが足にある如(ごと)く、

或(ある)時は飢ゑて

みづからの指を嘗(な)めつつ、

或(ある)時は涙の壺(つぼ)を覗(のぞ)き、

或(ある)時は青玉(せいぎよく)の

古き磬(けい)を打ち、

或(ある)時は臨終の

白鳥(はくてう)を見守り、

或(ある)時は指を挙げて

空に歌を書きつつ………

寂(さび)し、いと寂(さび)し、

われはあり、片隅に。







午前三時の鐘





上野の鐘が鳴る。

午前三時、

しんしんと更けわたる

十一月の初めの或夜(あるよる)に、

東京の街の矮(ひく)い屋根を越えて、

上野の鐘が鳴る。

この声だ、

日本人の心の声は。

この声を聞くと

日本人の心は皆おちつく、

皆静かになる、

皆自力(じりき)を麻痺(まひ)して

他力(たりき)の信徒に変る。

上野の鐘が鳴る。

わたしは今、ちよいと

痙攣(けいれん)的な反抗が込み上げる。

けれど、わたしの内にある

祖先の血の弱さよ、はかなさよ、

明方(あけがた)の霜の置く

木の箱の家(いへ)の中で、

わたしは鐘の声を聞きながら、

じつと滅入(めい)つて

筆の手を休める。

上野の鐘が鳴る。







或日の寂しさ





門(かど)に立つのは

うその苦学生、

うその廃兵、

うその主義者、志士、

馬車、自動車に乗るのは

うその紳士、大臣、

うその貴婦人、レディイ、

それから、新聞を見れば

うその裁判、

うその結婚、

さうして、うその教育。

浮世小路(こうぢ)は繁(しげ)けれど、

ついぞ真(まこと)に行(ゆ)き遇(あ)はぬ。

[#ここで段組み終わり]





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