夏目漱石 道草





 彼は例刻に宅(うち)へ帰った。洋服を着換える時、細君は何時もの通り、彼の不断着(ふだんぎ)を持ったまま、彼の傍(そば)に立っていた。彼は不快な顔をしてそちらを向いた。



「床を取ってくれ。寐(ね)るんだ」



「はい」



 細君は彼のいうがままに床を延べた。彼はすぐその中に入って寐た。彼は自分の風邪気(かぜけ)の事を一口も細君にいわなかった。細君の方でも一向其所(そこ)に注意していない様子を見せた。それで双方とも腹の中には不平があった。



 健三が眼を塞(ふさ)いでうつらうつらしていると、細君が枕元へ来て彼の名を呼んだ。



「あなた御飯を召上(めしや)がりますか」



「飯(めし)なんか食いたくない」



 細君はしばらく黙っていた。けれどもすぐ立って部屋の外へ出て行こうとはしなかった。



「あなた、どうかなすったんですか」



 健三は何にも答えずに、顔を半分ほど夜具の襟(えり)に埋(うず)めていた。細君は無言のまま、そっとその手を彼の額の上に加えた。



 晩になって医者が来た。ただの風邪だろうという診察を下(くだ)して、水薬(すいやく)と頓服(とんぷく)を呉れた。彼はそれを細君の手から飲ましてもらった。



 翌日(あくるひ)は熱がなお高くなった。医者の注意によって護謨(ゴム)の氷嚢(ひょうのう)を彼の頭の上に載せた細君は、蒲団(ふとん)の下に差し込むニッケル製の器械を下女(げじょ)が買ってくるまで、自分の手で落ちないようにそれを抑えていた。



 魔に襲われたような気分が二、三日つづいた。健三の頭にはその間の記憶というものが殆(ほと)んどない位であった。正気に帰った時、彼は平気な顔をして天井を見た。それから枕元に坐っている細君を見た。そうして急にその細君の世話になったのだという事を思い出した。しかし彼は何にもいわずにまた顔を背けてしまった。それで細君の胸には夫の心持が少しも映らなかった。



「あなたどうなすったんです」



「風邪を引いたんだって、医者がいうじゃないか」



「そりゃ解ってます」



 会話はそれで途切れてしまった。細君は厭(いや)な顔をしてそれぎり部屋を出て行った。健三は手を鳴らしてまた細君を呼び戻した。



「己(おれ)がどうしたというんだい」



「どうしたって、――あなたが御病気だから、私(わたくし)だってこうして氷嚢を更(か)えたり、薬を注(つ)いだりして上げるんじゃありませんか。それをあっちへ行けの、邪魔だのって、あんまり……」



 細君は後をいわずに下を向いた。



「そんな事をいった覚はない」



「そりゃ熱の高い時仰(おっ)しゃった事ですから、多分覚えちゃいらっしゃらないでしょう。けれども平生(へいぜい)からそう考えてさえいらっしゃらなければ、いくら病気だって、そんな事を仰しゃる訳がないと思いますわ」



 こんな場合に健三は細君の言葉の奥に果してどの位な真実が潜んでいるだろうかと反省して見るよりも、すぐ頭の力で彼女を抑えつけたがる男であった。事実の問題を離れて、単に論理の上から行くと、細君の方がこの場合も負けであった。熱に浮かされた時、魔睡薬に酔った時、もしくは夢を見る時、人間は必ずしも自分の思っている事ばかり物語るとは限らないのだから。しかしそうした論理は決して細君の心を服するに足りなかった。



「よござんす。どうせあなたは私を下女同様に取り扱うつもりでいらっしゃるんだから。自分一人さえ好ければ構わないと思って、……」



 健三は座を立った細君の後姿を腹立たしそうに見送った。彼は論理の権威で自己を佯(いつわ)っている事にはまるで気が付かなかった。学問の力で鍛え上げた彼の頭から見ると、この明白な論理に心底(しんそこ)から大人しく従い得ない細君は、全くの解らずやに違なかった。



     



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