夏目漱石 道草

十二



 健三の病気は日ならず全快した。活字に眼を曝(さら)したり、万年筆を走らせたり、または腕組をしてただ考えたりする時が再び続くようになった頃、一度無駄足を踏ませられた男が突然また彼の玄関先に現われた。



 健三は鳥の子紙に刷った吉田虎吉(よしだとらきち)という見覚(みおぼえ)のある名刺を受取って、しばらくそれを眺めていた。細君は小さな声で「御会いになりますか」と訊(たず)ねた。



「会うから座敷へ通してくれ」



 細君は断りたさそうな顔をして少し躊躇(ちゅうちょ)していた。しかし夫の様子を見てとった彼女は、何もいわずにまた書斎を出て行った。



 吉田というのは、でっぷり肥(ふと)った、かっぷくの好(よ)い、四十恰好(がっこう)の男であった。縞(しま)の羽織(はおり)を着て、その頃まで流行(はや)った白縮緬(しろちりめん)の兵児帯(へこおび)にぴかぴかする時計の鎖を巻き付けていた。言葉使いから見ても、彼は全くの町人であった。そうかといって、決して堅気(かたぎ)の商人(あきんど)とは受取れなかった。「なるほど」というべきところを、わざと「なある」と引張ったり、「御尤(ごもっと)も」の代りに、さも感服したらしい調子で、「いかさま」と答えたりした。



 健三には会見の順序として、まず吉田の身元から訊(き)いてかかる必要があった。しかし彼よりは能弁な吉田は、自分の方で聞かれない先に、素性の概略を説明した。



 彼はもと高崎(たかさき)にいた。そうして其所(そこ)にある兵営に出入(しゅつにゅう)して、糧秣(かいば)を納めるのが彼の商買(しょうばい)であった。



「そんな関係から、段々将校方の御世話になるようになりまして。その内でも柴野(しばの)の旦那には特別御贔負(ごひいき)になったものですから」



 健三は柴野という名を聞いて急に思い出した。それは島田の後妻の娘が嫁に行った先の軍人の姓であった。



「その縁故で島田を御承知なんですね」



 二人はしばらくその柴野という士官について話し合った。彼が今高崎にいない事や、もっと遠くの西の方へ転任してから幾年目になるという事や、相変らずの大酒(たいしゅ)で家計があまり裕(ゆたか)でないという事や、すべてこれらは、健三に取って耳新らしい報知(たより)に違なかったが、同時に大した興味を惹(ひ)く話題にもならなかった。この夫婦に対して何らの悪感(あっかん)も抱(いだ)いていない健三は、ただそうかと思って平気に聞いているだけであった。しかし話が本筋に入って、いよいよ島田の事を持ち出された時彼は、自然厭(いや)な心持がした。



 吉田はしきりにこの老人の窮迫の状を訴え始めた。



「人間があまり好過ぎるもんですから、つい人に騙(だま)されてみんな損(す)っちまうんです。とても取れる見込のないのにむやみに金を出してやったり何(なん)かするもんですからな」



「人間が好過ぎるんでしょうか。あんまり慾張(よくば)るからじゃありませんか」



 たとい吉田のいう通り老人が困窮しているとしたところで、健三にはこうより外に解釈の道はなかった。しかも困窮というからしてが既に怪しかった。肝心の代表者たる吉田も強いてその点は弁護しなかった。「あるいはそうかも知れません」といったなり、後は笑に紛らしてしまった。そのくせ月々若干(なにがし)か貢(みつ)いで遣(や)ってくれる訳には行くまいかという相談をすぐその後から持ち出した。



 正直な健三はつい自分の経済事状を打ち明けて、この一面識しかない男に話さなければならなくなった。彼は自己の手に入る百二、三十円の月収が、どう消費されつつあるかを詳しく説明して、月々あとに残るものは零(ゼロ)だという事を相手に納得させようとした。吉田は例の「なある」と「いかさま」を時々使って、神妙に健三の弁解を聴いた。しかし彼がどこまで彼を信用して、どこから彼を疑い始めているか、その点は健三にも分らなかった。ただ先方はどこまでも下手(したで)に出る手段を主眼としているらしく見えた。不穏の言葉は無論、強請(ゆすり)がましい様子は噫(おくび)にも出さなかった。



     



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