夏目漱石 道草





 次の日健三はまた同じ時刻に同じ所を通った。その次の日も通った。けれども帽子を被(かぶ)らない男はもうどこからも出て来なかった。彼は器械のようにまた義務のように何時もの道を往(い)ったり来たりした。



 こうした無事の日が五日続いた後(あと)、六日目の朝になって帽子を被らない男は突然また根津権現の坂の蔭から現われて健三を脅やかした。それがこの前とほぼ同じ場所で、時間も殆(ほとん)どこの前と違わなかった。



 その時健三は相手の自分に近付くのを意識しつつ、何時もの通り器械のようにまた義務のように歩こうとした。けれども先方の態度は正反対であった。何人(なんびと)をも不安にしなければやまないほどな注意を双眼(そうがん)に集めて彼を凝視した。隙(すき)さえあれば彼に近付こうとするその人の心が曇(どん)よりした眸(ひとみ)のうちにありありと読まれた。出来るだけ容赦なくその傍(そば)を通り抜けた健三の胸には変な予覚が起った。



「とてもこれだけでは済むまい」



 しかしその日家(うち)へ帰った時も、彼はついに帽子を被らない男の事を細君に話さずにしまった。



 彼と細君と結婚したのは今から七、八年前で、もうその時分にはこの男との関係がとくの昔に切れていたし、その上結婚地が故郷の東京でなかったので、細君の方ではじかにその人を知るはずがなかった。しかし噂(うわさ)としてだけならあるいは健三自身の口から既に話していたかも知れず、また彼の親類のものから聞いて知っていないとも限らなかった。それはいずれにしても健三にとって問題にはならなかった。



 ただこの事件に関して今でも時々彼の胸に浮んでくる結婚後の事実が一つあった。五、六年前彼がまだ地方にいる頃、ある日女文字で書いた厚い封書が突然彼の勤め先の机の上へ置かれた。その時彼は変な顔をしてその手紙を読んだ。しかしいくら読んでも読んでも読み切れなかった。半紙廿枚ばかりへ隙間なく細字(さいじ)で書いたものの、五分の一ほど眼を通した後(あと)、彼はついにそれを細君の手に渡してしまった。



 その時の彼には自分宛(あて)でこんな長い手紙をかいた女の素性を細君に説明する必要があった。それからその女に関聯(かんれん)して、是非ともこの帽子を被らない男を引合に出す必要もあった。健三はそうした必要にせまられた過去の自分を記憶している。しかし機嫌買(きげんかい)な彼がどの位綿密な程度で細君に説明してやったか、その点になると彼はもう忘れていた。細君は女の事だからまだ判然(はっきり)覚えているだろうが、今の彼にはそんな事を改めて彼女に問い訊(ただ)して見る気も起らなかった。彼はこの長い手紙を書いた女と、この帽子を被らない男とを一所に並べて考えるのが大嫌(だいきらい)だった。それは彼の不幸な過去を遠くから呼び起す媒介(なかだち)となるからであった。



 幸い彼の目下の状態はそんな事に屈托(くったく)している余裕を彼に与えなかった。彼は家(うち)へ帰って衣服を着換えると、すぐ自分の書斎へ這入(はい)った。彼は始終その六畳敷の狭い畳の上に自分のする事が山のように積んであるような気持でいるのである。けれども実際からいうと、仕事をするよりも、しなければならないという刺戟(しげき)の方が、遥かに強く彼を支配していた。自然彼はいらいらしなければならなかった。



 彼が遠い所から持って来た書物の箱をこの六畳の中で開けた時、彼は山のような洋書の裡(うち)に胡坐(あぐら)をかいて、一週間も二週間も暮らしていた。そうして何でも手に触れるものを片端(かたはし)から取り上げては二、三頁(ページ)ずつ読んだ。それがため肝心の書斎の整理は何時まで経っても片付かなかった。しまいにこの体(てい)たらくを見るに見かねた或(ある)友人が来て、順序にも冊数にも頓着(とんじゃく)なく、あるだけの書物をさっさと書棚の上に並べてしまった。彼を知っている多数の人は彼を神経衰弱だと評した。彼自身はそれを自分の性質だと信じていた。



     



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