夏目漱石 道草

二十二



 彼が火鉢(ひばち)の傍(そば)に坐(すわ)って、烟草(タバコ)を一本吹かしていると、間もなく夕飯(ゆうめし)の膳(ぜん)が彼の前に運ばれた。彼はすぐ細君に質問を掛けた。



「上(あが)ったのかい」



 細君には何が上ったのか解らない位この質問は突然であった。ちょっと驚ろいて健三の顔を見た彼女は、返事を待ち受けている夫の様子から始めてその意味を悟(さと)った。



「あの人ですか。――でも御留守でしたから」



 細君は座敷へ島田を上げなかったのが、あたかも夫の気に障(さわ)る事でもしたような調子で、言訳がましい答をした。



「上げなかったのかい」



「ええ。ただ玄関でちょっと」



「何とかいっていたかい」



「とうに伺うはずだったけれども、少し旅行していたものだから御不沙汰(ごぶさた)をして済みませんって」



 済みませんという言葉が一種の嘲弄(ちょうろう)のように健三の耳に響いた。



「旅行なんぞするのかな、田舎(いなか)に用のある身体(からだ)とも思えないが。御前にその行った先を話したかい」



「そりゃ何ともいいませんでした。ただ娘の所で来てくれって頼まれたから行って来たっていいました。大方あの御縫(おぬい)さんて人の宅(うち)なんでしょう」



 御縫さんの嫁(かたづ)いた柴野(しばの)という男には健三もその昔会った覚(おぼえ)があった。柴野の今の任地先もこの間吉田から聞いて知っていた。それは師団か旅団のある中国辺の或(ある)都会であった。



「軍人なんですか、その御縫さんて人の御嫁に行った所は」



 健三が急に話を途切らしたので、細君はしばらく間(ま)を置いたあとでこんな問(とい)を掛けた。



「能(よ)く知ってるね」



「何時(いつ)か御兄(おあにい)さんから伺いましたよ」



 健三は心のうちで昔見た柴野と御縫さんの姿を並べて考えた。柴野は肩の張った色の黒い人であったが、眼鼻立(めはなだち)からいうとむしろ立派な部類に属すべき男に違なかった。御縫さんはまたすらりとした恰好(かっこう)の好(い)い女で、顔は面長(おもなが)の色白という出来であった。ことに美くしいのは睫毛(まつげ)の多い切長(きれなが)のその眼のように思われた。彼らの結婚したのは柴野がまだ少尉か中尉の頃であった。健三は一度その新宅の門を潜(くぐ)った記憶を有(も)っていた。その時柴野は隊から帰って来た身体を大きくして、長火鉢(ながひばち)の猫板(ねこいた)の上にある洋盃(コップ)から冷酒(ひやざけ)をぐいぐい飲んだ。御縫さんは白い肌をあらわに、鏡台の前で鬢(びん)を撫(な)でつけていた。彼はまた自分の分として取り配(わ)けられた握(にぎ)り鮨(すし)をしきりに皿の中から撮(つま)んで食べた。……



「御縫さんて人はよっぽど容色(きりょう)が好いんですか」



「何故(なぜ)」



「だって貴夫(あなた)の御嫁にするって話があったんだそうじゃありませんか」



 なるほどそんな話もない事はなかった。健三がまだ十五、六の時分、ある友達を往来へ待たせて置いて、自分一人ちょっと島田の家(うち)へ寄ろうとした時、偶然門前の泥溝(どぶ)に掛けた小橋の上に立って往来を眺めていた御縫さんは、ちょっと微笑しながら出合頭(であいがしら)の健三に会釈した。それを目撃した彼の友達は独乙(ドイツ)語を習い始めの子供であったので、「フラウ門に倚(よ)って待つ」といって彼をひやかした。しかし御縫さんは年歯(とし)からいうと彼より一つ上であった。その上その頃の健三は、女に対する美醜の鑑別もなければ好悪(こうお)も有(も)たなかった。それから羞恥(はにかみ)に似たような一種妙な情緒があって、女に近寄りたがる彼を、自然の力で、護謨球(ゴムだま)のように、かえって女から弾(はじ)き飛ばした。彼と御縫さんとの結婚は、他(ほか)に面倒のあるなしを差措(さしお)いて、到底物にならないものとして放棄されてしまった。



     



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