夏目漱石 道草

二十三



「貴夫(あなた)どうしてその御縫さんて人を御貰(おもら)いにならなかったの」



 健三は膳(ぜん)の上から急に眼を上げた。追憶の夢を愕(おど)ろかされた人のように。



「まるで問題にゃならない。そんな料簡は島田にあっただけなんだから。それに己(おれ)はまだ子供だったしね」



「あの人の本当の子じゃないんでしょう」



「無論さ。御縫さんは御藤(おふじ)さんの連れっ子だもの」



 御藤さんというのは島田の後妻の名であった。



「だけど、もしその御縫さんて人と一所になっていらしったら、どうでしょう。今頃は」



「どうなってるか判(わか)らないじゃないか、なって見なければ」



「でも殊(こと)によると、幸福かも知れませんわね。その方が」



「そうかも知れない」



 健三は少し忌々(いまいま)しくなった。細君はそれぎり口を噤(つぐ)んだ。



「何故(なぜ)そんな事を訊(き)くのだい。詰らない」



 細君は窘(たし)なめられるような気がした。彼女にはそれを乗り越すだけの勇気がなかった。



「どうせ私(わたくし)は始めっから御気に入らないんだから……」



 健三は箸(はし)を放り出して、手を頭の中に突込んだ。そうして其所(そこ)に溜(たま)っている雲脂(ふけ)をごしごし落し始めた。



 二人はそれなり別々の室(へや)で別々の仕事をした。健三は御機嫌ようと挨拶(あいさつ)に来た子供の去った後で、例の如く書物を読んだ。細君はその子供を寐(ね)かした後で、昼の残りの縫物を始めた。



 御縫さんの話がまた二人の間の問題になったのは、中一日置いた後(あと)の事で、それも偶然の切ッ懸けからであった。



 その時細君は一枚の端書を持って、健三の部屋へ這入(はい)って来た。それを夫の手に渡した彼女は、何時ものようにそのまま立ち去ろうともせずに、彼の傍(そば)に腰を卸した。健三が受取った端書を手に持ったなり何時までも読みそうにしないので、我慢しきれなくなった細君はついに夫を促した。



「あなたその端書は比田(ひだ)さんから来たんですよ」



 健三は漸(よう)やく書物から眼を放した。



「あの人の事で何か用事が出来たんですって」



 なるほど端書には島田の事で会いたいからちょっと来てくれと書いた上に、日と時刻が明記してあった。わざわざ彼を呼び寄せる失礼も鄭寧(ていねい)に詫(わ)びてあった。



「どうしたんでしょう」



「まるで判明(わか)らないね。相談でもなかろうし。こっちから相談を持ち懸けた事なんかまるでないんだから」



「みんなで交際(つきあ)っちゃいけないって忠告でもなさるんじゃなくって。御兄(おあにい)さんもいらっしゃると書いてあるでしょう、其所(そこ)に」



 端書には細君のいった通りの事がちゃんと書いてあった。



 兄の名前を見た時、健三の頭にふとまた御縫さんの影が差した。島田が彼とこの女を一所にして、後まで両家の関係をつなごうとした如く、この女の生母はまた彼の兄と自分の娘とを夫婦にしたいような希望を有(も)っていたらしかったのである。



「健ちゃんの宅(うち)とこんな間柄にならないとね。あたしも始終健ちゃんの家(うち)へ行かれるんだけれども」



 御藤さんが健三にこんな事をいったのも、顧りみれば古い昔であった。



「だって御縫さんが今嫁(かたづ)いてる先は元からの許嫁(いいなずけ)なんでしょう」



「許嫁でも場合によったら断る気だったんだろうよ」



「一体御縫さんはどっちへ行きたかったんでしょう」



「そんな事が判明(わか)るもんか」



「じゃ御兄(おあにい)さんの方はどうなの」



「それも判明らんさ」



 健三の子供の時分の記憶の中には、細君の問に応ぜられるような人情がかった材料が一つもなかった。



     



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