夏目漱石 道草





 健三は実際その日その日の仕事に追われていた。家(うち)へ帰ってからも気楽に使える時間は少しもなかった。その上彼は自分の読みたいものを読んだり、書きたい事を書いたり、考えたい問題を考えたりしたかった。それで彼の心は殆(ほと)んど余裕というものを知らなかった。彼は始終机の前にこびり着いていた。



 娯楽の場所へも滅多に足を踏み込めない位忙がしがっている彼が、ある時友達から謡(うたい)の稽古(けいこ)を勧められて、体(てい)よくそれを断わったが、彼は心のうちで、他人(ひと)にはどうしてそんな暇があるのだろうと驚ろいた。そうして自分の時間に対する態度が、あたかも守銭奴のそれに似通っている事には、まるで気がつかなかった。



 自然の勢い彼は社交を避けなければならなかった。人間をも避けなければならなかった。彼の頭と活字との交渉が複雑になればなるほど、人としての彼は孤独に陥らなければならなかった。彼は朧気(おぼろげ)にその淋(さび)しさを感ずる場合さえあった。けれども一方ではまた心の底に異様の熱塊があるという自信を持っていた。だから索寞(さくばく)たる曠野(あらの)の方角へ向けて生活の路(みち)を歩いて行きながら、それがかえって本来だとばかり心得ていた。温かい人間の血を枯らしに行くのだとは決して思わなかった。



 彼は親類から変人扱いにされていた。しかしそれは彼に取って大した苦痛にもならなかった。



「教育が違うんだから仕方がない」



 彼の腹の中には常にこういう答弁があった。



「やっぱり手前味噌(てまえみそ)よ」



 これは何時でも細君の解釈であった。



 気の毒な事に健三はこうした細君の批評を超越する事が出来なかった。そういわれる度(たび)に気不味(きまず)い顔をした。ある時は自分を理解しない細君を心(しん)から忌々(いまいま)しく思った。ある時は叱(しか)り付けた。またある時は頭ごなしに遣(や)り込めた。すると彼の癇癪(かんしゃく)が細君の耳に空威張(からいばり)をする人の言葉のように響いた。細君は「手前味噌」の四字を「大風呂敷(おおぶろしき)」の四字に訂正するに過ぎなかった。



 彼には一人の腹違(はらちがい)の姉と一人の兄があるぎりであった。親類といったところでこの二軒より外に持たない彼は、不幸にしてその二軒ともとあまり親しく往来(ゆきき)をしていなかった。自分の姉や兄と疎遠になるという変な事実は、彼に取っても余り気持の好(い)いものではなかった。しかし親類づきあいよりも自分の仕事の方が彼には大事に見えた。それから東京へ帰って以後既に三、四回彼らと顔を合せたという記憶も、彼には多少の言訳になった。もし帽子を被(かぶ)らない男が突然彼の行手を遮らなかったなら、彼は何時もの通り千駄木(せんだぎ)の町を毎日二返(へん)規則正しく往来するだけで、当分外の方角へは足を向けずにしまったろう。もしその間(あいだ)に身体(からだ)の楽に出来る日曜が来たなら、ぐたりと疲れ切った四肢(しし)を畳の上に横たえて半日の安息を貪(むさぼ)るに過ぎなかったろう。



 しかし次の日曜が来たとき、彼はふと途中で二度会った男の事を思い出した。そうして急に思い立ったように姉の宅(うち)へ出掛けた。姉の宅は四(よ)ッ谷(や)の津(つ)の守坂(かみざか)の横で、大通りから一町ばかり奥へ引込んだ所にあった。彼女の夫というのは健三の従兄(いとこ)にあたる男だから、つまり姉にも従兄であった。しかし年齢(とし)は同年(おないどし)か一つ違で、健三から見ると双方とも、一廻りも上であった。この夫がもと四ッ谷の区役所へ勤めた縁故で、彼が其所(そこ)をやめた今日(こんにち)でも、まだ馴染(なじみ)の多い土地を離れるのが厭(いや)だといって、姉は今の勤先に不便なのも構わず、やっぱり元の古ぼけた家に住んでいるのである。



     



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