夏目漱石 道草

三十四



 健三の兄は小役人であった。彼は東京の真中にある或(ある)大きな局へ勤めていた。その宏壮(こうそう)な建物のなかに永い間憐(あわ)れな自分の姿を見出す事が、彼には一種の不調和に見えた。



「僕なんぞはもう老朽なんだからね。何しろ若くって役に立つ人が後から後からと出て来るんだから」



 その建物のなかには何百という人間が日となく夜(よ)となく烈(はげ)しく働らいていた。気力の尽きかけた彼の存在はまるで形のない影のようなものに違なかった。



「ああ厭(いや)だ」



 活動を好まない彼の頭には常にこんな観念が潜んでいた。彼は病身であった。年歯(とし)より早く老けた。年歯より早く干乾(ひから)びた。そうして色沢(いろつや)の悪い顔をしながら、死ににでも行く人のように働いた。



「何しろ夜寐(ね)ないんだから、身体(からだ)に障ってね」



 彼はよく風邪(かぜ)を引いて咳嗽(せき)をした。ある時は熱も出た。するとその熱が必ず肺病の前兆でなければならないように彼を脅かした。



 実際彼の職業は強壮な青年にとっても苦しい性質のものに違なかった。彼は隔晩に局へ泊らせられた。そうして夜通し起きて働らかなければならなかった。翌日(あくるひ)の朝彼はぼんやりして自分の宅(うち)へ帰って来た。その日一日は何をする勇気もなく、ただぐたりと寐て暮らす事さえあった。



 それでも彼は自分のためまた家族のために働らくべく余儀なくされた。



「今度(こんだ)は少し危険(あぶな)いようだから、誰かに頼んでくれないか」



 改革とか整理とかいう噂(うわさ)のあるたびに、健三はよくこんな言葉を彼の口から聞かされた。東京を離れている時などは、わざわざ手紙で依頼して来た事も一返や二返ではなかった。彼はその都度(つど)誰それにといって、わざわざ要路の人を指名した。しかし健三にはただ名前が知れているだけで、自分の兄の位置を保証してもらうほどの親しみのあるものは一人もなかった。健三は頬杖(ほおづえ)を突いて考えさせられるばかりであった。



 彼はこうした不安を何度となく繰り返しながら、昔しから今日(こんにち)まで同じ職務に従事して、動きもしなければ発展もしなかった。健三よりも七つばかり年上な彼の半生は、あたかも変化を許さない器械のようなもので、次第に消耗(しょうこう)して行くより外には何の事実も認められなかった。



「二十四、五年もあんな事をしている間には何か出来そうなものだがね」



 健三は時々自分の兄をこんな言葉で評したくなった。その兄の派出好(はでずき)で勉強嫌(ぎらい)であった昔も眼の前に見えるようであった。三味線(しゃみせん)を弾(ひ)いたり、一絃琴(いちげんきん)を習ったり、白玉(しらたま)を丸めて鍋(なべ)の中へ放り込んだり、寒天を煮て切溜(きりだめ)で冷したり、凡(すべ)ての時間はその頃の彼に取って食う事と遊ぶ事ばかりに費やされていた。



「みんな自業自得だといえば、まあそんなものさね」



 これが今の彼の折々他(ひと)に洩(もら)す述懐になる位彼は怠け者であった。



 兄弟が死に絶えた後(あと)、自然健三の生家の跡を襲(つ)ぐようになった彼は、父が亡くなるのを待って、家屋敷をすぐ売り払ってしまった。それで元からある借金を済(な)して、自分は小さな宅(うち)へ這入(はい)った。それから其所(そこ)に納まり切らない道具類を売払った。



 間もなく彼は三人の子の父になった。そのうちで彼の最も可愛(かあい)がっていた惣領(そうりょう)の娘が、年頃になる少し前から悪性の肺結核に罹(かか)ったので、彼はその娘を救うために、あらゆる手段を講じた。しかし彼のなし得(う)る凡ては残酷な運命に対して全くの徒労に帰した。二年越煩(わずら)った後で彼女が遂に斃(たお)れた時、彼の家の箪笥(たんす)はまるで空になっていた。儀式に要(い)る袴(はかま)は無論、ちょっとした紋付の羽織(はおり)さえなかった。彼は健三の外国で着古した洋服を貰(もら)って、それを大事に着て毎日局へ出勤した。



     



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