夏目漱石 道草

三十九



 それから舞台が急に変った。淋(さみ)しい田舎(いなか)が突然彼の記憶から消えた。



 すると表に櫺子窓(れんじまど)の付いた小さな宅(うち)が朧気(おぼろげ)に彼の前にあらわれた。門のないその宅は裏通りらしい町の中にあった。町は細長かった。そうして右にも左にも折れ曲っていた。



 彼の記憶がぼんやりしているように、彼の家も始終薄暗かった。彼は日光とその家とを連想する事が出来なかった。



 彼は其所(そこ)で疱瘡(ほうそう)をした。大きくなって聞くと、種痘が元で、本疱瘡(ほんほうそう)を誘い出したのだとかいう話であった。彼は暗い櫺子のうちで転(ころ)げ廻った。惣身(そうしん)の肉を所嫌わず掻(か)き(むし)って泣き叫んだ。



 彼はまた偶然広い建物の中に幼い自分を見出した。区切られているようで続いている仕切のうちには人がちらほらいた。空いた場所の畳だか薄縁(うすべり)だかが、黄色く光って、あたりを伽藍堂(がらんどう)の如く淋(さび)しく見せた。彼は高い所にいた。其所で弁当を食った。そうして油揚(あぶらげ)の胴を干瓢(かんぴょう)で結(いわ)えた稲荷鮨(いなりずし)の恰好(かっこう)に似たものを、上から下へ落した。彼は勾欄(てすり)につらまって何度も下を覗(のぞ)いて見た。しかし誰もそれを取ってくれるものはなかった。伴(つれ)の大人はみんな正面に気を取られていた。正面ではぐらぐらと柱が揺れて大きな宅が潰(つぶ)れた。するとその潰れた屋根の間から、髭(ひげ)を生やした軍人(いくさにん)が威張って出て来た。――その頃の健三はまだ芝居というものの観念を有(も)っていなかったのである。



 彼の頭にはこの芝居と外(そ)れ鷹(たか)とが何の意味なしに結び付けられていた。突然鷹が向うに見える青い竹藪(たけやぶ)の方へ筋違(すじかい)に飛んで行った時、誰だか彼の傍(そば)にいるものが、「外(そ)れた外れた」と叫けんだ。すると誰だかまた手を叩(たた)いてその鷹を呼び返そうとした。――健三の記憶は此所(ここ)でぷつりと切れていた。芝居と鷹とどっちを先に見たのか、それさえ彼には不分明(ふぶんみょう)であった。従って彼が田圃(たんぼ)や藪(やぶ)ばかり見える田舎に住んでいたのと、狭苦しい町内の往来に向いた薄暗い宅に住んでいたのと、どっちが先になるのか、それも彼にはよく判明(わか)らなかった。そうしてその時代の彼の記憶には、殆(ほと)んど人というものの影が働らいていなかった。



 しかし島田夫婦が彼の父母として明瞭(めいりょう)に彼の意識に上(のぼ)ったのは、それから間もない後(あと)の事であった。



 その時夫婦は変な宅にいた。門口(かどぐち)から右へ折れると、他(ひと)の塀際(へいぎわ)伝いに石段を三つほど上(あが)らなければならなかった。そこからは幅三尺ばかりの露地(ろじ)で、抜けると広くて賑(にぎ)やかな通りへ出た。左は廊下を曲って、今度は反対に二、三段下りる順になっていた。すると其所に長方形の広間があった。広間に沿うた土間(どま)も長方形であった。土間から表へ出ると、大きな河が見えた。その上を白帆(しらほ)を懸けた船が何艘(なんぞう)となく往(い)ったり来たりした。河岸(かし)には柵(さく)を結(い)った中へ薪(まき)が一杯積んであった。柵と柵の間にある空地(あきち)は、だらだら下(さが)りに水際まで続いた。石垣の隙間からは弁慶蟹(べんけいがに)がよく鋏(はさみ)を出した。



 島田の家はこの細長い屋敷を三つに区切ったものの真中にあった。もとは大きな町人の所有で、河岸に面した長方形の広間がその店になっていたらしく思われるけれども、その持主の何者であったか、またどうして彼が其所を立ち退(の)いたものか、それらは凡(すべ)て健三の知識の外(ほか)に横(よこた)わる秘密であった。



 一頃その広い部屋をある西洋人が借りて英語を教えた事があった。まだ西洋人を異人という昔の時代だったので、島田の妻(さい)の御常(おつね)は、化物(ばけもの)と同居でもしているように気味を悪がった。尤(もっと)もこの西洋人は上靴(スリッパー)を穿(は)いて、島田の借りている部屋の縁側までのそのそ歩いてくる癖を有(も)っていた。御常が癪(しゃく)の気味だとかいって蒼(あお)い顔をして寐(ね)ていると、其所の縁側へ立って座敷を覗き込みながら、見舞を述べたりした。その見舞の言葉は日本語か、英語か、またはただ手真似だけか、健三にはまるで解っていなかった。



     



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