夏目漱石 道草

四十八



 電気燈のまだ戸(こ)ごとに点(とも)されない頃だったので、客間には例(いつ)もの通り暗い洋燈(ランプ)が点(つ)いていた。



 その洋燈は細長い竹の台の上に油壺(あぶらつぼ)を篏(は)め込むように拵(こしら)えたもので、鼓(つづみ)の胴の恰形(かっこう)に似た平たい底が畳へ据わるように出来ていた。



 健三が客間へ出た時、島田はそれを自分の手元に引き寄せて心(しん)を出したり引っ込ましたりしながら灯火(あかり)の具合を眺めていた。彼は改まった挨拶(あいさつ)もせずに、「少し油煙がたまるようですね」といった。



 なるほど火屋(ほや)が薄黒く燻(くす)ぶっていた。丸心(まるじん)の切方(きりかた)が平(たいら)に行かないところを、むやみに灯(ひ)を高くすると、こんな変調を来すのがこの洋燈の特徴であった。



「換えさせましょう」



 家には同じ型のものが三つばかりあった。健三は下女(げじょ)を呼んで茶の間にあるのと取り換えさせようとした。しかし島田は生返事をするぎりで、容易に煤(すす)で曇った火屋から眼を離さなかった。



「どういう加減だろう」



 彼は独り言をいって、草花の模様だけを不透明に擦(す)った丸い蓋(かさ)の隙間を覗(のぞ)き込んだ。



 健三の記憶にある彼は、こんな事を能(よ)く気にするという点において、頗(すこぶ)る几帳面(きちょうめん)な男に相違なかった。彼はむしろ潔癖であった。持って生れた倫理上の不潔癖と金銭上の不潔癖の償いにでもなるように、座敷や縁側の塵(ちり)を気にした。彼は尻(しり)をからげて、拭(ふき)掃除をした。跣足(はだし)で庭へ出て要(い)らざる所まで掃いたり水を打ったりした。



 物が壊れると彼はきっと自分で修復(なお)した。あるいは修復そうとした。それがためにどの位な時間が要っても、またどんな労力が必要になって来ても、彼は決して厭(いと)わなかった。そういう事が彼の性(しょう)にあるばかりでなく、彼には手に握った一銭銅貨の方が、時間や労力よりも遥かに大切に見えたのである。



「なにそんなものは宅(うち)で出来る。金を出して頼むがものはない。損だ」



 損をするという事が彼には何よりも恐ろしかった。そうして目に見えない損はいくらしても解らなかった。



「宅(うち)の人はあんまり正直過ぎるんで」



 御藤(おふじ)さんは昔健三に向って、自分の夫を評するときに、こんな言葉を使った。世の中をまだ知らない健三にもその真実でない事はよく解っていた。ただ自分の手前、嘘(うそ)と承知しながら、夫の品性を取り繕うのだろうと善意に解釈した彼は、その時御藤さんに向って何にもいわなかった。しかし今考えて見ると、彼女の批評にはもう少し慥(たしか)な根底があるらしく思えた。



「必竟(ひっきょう)大きな損に気のつかない所が正直なんだろう」



 健三はただ金銭上の慾(よく)を満たそうとして、その慾に伴なわない程度の幼稚な頭脳を精一杯に働らかせている老人をむしろ憐れに思った。そうして凹(くぼ)んだ眼を今擦(す)り硝子(ガラス)の蓋の傍(そば)へ寄せて、研究でもする時のように、暗い灯を見詰めている彼を気の毒な人として眺めた。



「彼はこうして老いた」



 島田の一生を煎(せん)じ詰めたような一句を眼の前に味わった健三は、自分は果してどうして老ゆるのだろうかと考えた。彼は神という言葉が嫌(きらい)であった。しかしその時の彼の心にはたしかに神という言葉が出た。そうして、もしその神が神の眼で自分の一生を通して見たならば、この強慾(ごうよく)な老人の一生と大した変りはないかも知れないという気が強くした。



 その時島田は洋燈の螺旋(ねじ)を急に廻したと見えて、細長い火屋の中が、赤い火で一杯になった。それに驚ろいた彼は、また螺旋を逆に廻し過ぎたらしく、今度はただでさえ暗い灯火(あかり)をなおの事暗くした。



「どうもどこか調子が狂ってますね」



 健三は手を敲(たた)いて下女に新しい洋燈を持って来さした。



     



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