夏目漱石 道草

五十一



 彼の眼が冴(さ)えている割に彼の頭は澄み渡らなかった。彼は思索の綱を中断された人のように、考察の進路を遮ぎる霧の中で苦しんだ。



 彼は明日(あした)の朝多くの人より一段高い所に立たなければならない憐(あわ)れな自分の姿を想い見た。その憐れな自分の顔を熱心に見詰めたり、または不得意な自分のいう事を真面目(まじめ)に筆記したりする青年に対して済まない気がした。自分の虚栄心や自尊心を傷(きずつ)けるのも、それらを超越する事の出来ない彼には大きな苦痛であった。



「明日(あした)の講義もまた纏(まと)まらないのかしら」



 こう思うと彼は自分の努力が急に厭(いや)になった。愉快に考えの筋道が運んだ時、折々何者にか煽動(せんどう)されて起る、「己(おれ)の頭は悪くない」という自信も己惚(うぬぼれ)も忽(たちま)ち消えてしまった。同時にこの頭の働らきを攪(か)き乱す自分の周囲についての不平も常時(ふだん)よりは高まって来た。



 彼はしまいに投げるように洋筆(ペン)を放り出した。



「もうやめだ。どうでも構わない」



 時計はもう一時過ぎていた。洋燈(ランプ)を消して暗闇(くらやみ)を縁側伝いに廊下へ出ると、突当(つきあた)りの奥の間の障子二枚だけが灯(ひ)に映って明るかった。健三はその一枚を開けて内に入った。



 子供は犬ころのように塊(かた)まって寐(ね)ていた。細君も静かに眼を閉じて仰向(あおむけ)に眠っていた。



 音のしないように気を付けてその傍(そば)に坐(すわ)った彼は、心持頸(くび)を延ばして、細君の顔を上から覗(のぞ)き込んだ。それからそっと手を彼女の寐顔(ねがお)の上に翳(かざ)した。彼女は口を閉じていた。彼の掌(てのひら)には細君の鼻の穴から出る生暖かい呼息(いき)が微かに感ぜられた。その呼息は規則正しかった。また穏やかだった。



 彼は漸(ようや)く出した手を引いた。するともう一度細君の名を呼んで見なければまだ安心が出来ないという気が彼の胸を衝(つ)いて起った。けれども彼は直(すぐ)その衝動に打勝った。次に彼はまた細君の肩へ手を懸けて、再び彼女を揺(ゆす)り起そうとしたが、それもやめた。



「大丈夫だろう」



 彼は漸く普通の人の断案に帰着する事が出来た。しかし細君の病気に対して神経の鋭敏になっている彼には、それが何人(なんびと)もこういう場合に取らなければならない尋常の手続きのように思われたのである。



 細君の病気には熟睡が一番の薬であった。長時間彼女の傍に坐って、心配そうにその顔を見詰めている健三に何よりも有難いその眠りが、静かに彼女の瞼(まぶた)の上に落ちた時、彼は天から降る甘露をまのあたり見るような気が常にした。しかしその眠りがまた余り長く続き過ぎると、今度は自分の視線から隠された彼女の眼がかえって不安の種になった。ついに睫毛(まつげ)の鎖(とざ)している奥を見るために、彼は正体(たわい)なく寐入った細君を、わざわざ揺(ゆす)り起して見る事が折々あった。細君がもっと寐かして置いてくれれば好(い)いのにという訴えを疲れた顔色に現わして重い瞼を開くと、彼はその時始めて後悔した。しかし彼の神経はこんな気の毒な真似(まね)をしてまでも、彼女の実在を確かめなければ承知しなかったのである。



 やがて彼は寐衣(ねまき)を着換えて、自分の床に入った。そうして濁りながら動いているような彼の頭を、静かな夜の支配に任せた。夜はその濁りを清めてくれるには余りに暗過ぎた、しかし騒がしいその動きを止めるには充分静かであった。



 翌朝(あくるあさ)彼は自分の名を呼ぶ細君の声で眼を覚ました。



「貴夫(あなた)もう時間ですよ」



 まだ床を離れない細君は、手を延ばして彼の枕元から取った袂時計(たもとどけい)を眺めていた。下女(げじょ)が俎板(まないた)の上で何か刻む音が台所の方で聞こえた。



「婢(おんな)はもう起きてるのか」



「ええ。先刻(さっき)起しに行ったんです」



 細君は下女を起して置いてまた床の中に這入(はい)ったのである。健三はすぐ起き上がった。細君も同時に立った。



 昨夜(ゆうべ)の事は二人ともまるで忘れたように何にもいわなかった。



     



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