夏目漱石 道草

五十二



 二人は自分たちのこの態度に対して何の注意も省察(せいさつ)も払わなかった。二人は二人に特有な因果関係を有(も)っている事を冥々(めいめい)の裡(うち)に自覚していた。そうしてその因果関係が一切の他人には全く通じないのだという事も能(よ)く呑(の)み込んでいた。だから事状を知らない第三者の眼に、自分たちがあるいは変に映りはしまいかという疑念さえ起さなかった。



 健三は黙って外へ出て、例の通り仕事をした。しかしその仕事の真際中に彼は突然細君の病気を想像する事があった。彼の眼の前に夢を見ているような細君の黒い眼が不意に浮んだ。すると彼はすぐ自分の立っている高い壇から降りて宅(うち)へ帰らなければならないような気がした。あるいは今にも宅から迎(むかい)が来るような心持になった。彼は広い室(へや)の片隅にいて真ん向うの突当(つきあた)りにある遠い戸口を眺めた。彼は仰向いて兜(かぶと)の鉢金(はちがね)を伏せたような高い丸天井を眺めた。仮漆(ヴァーニッシ)で塗り上げた角材を幾段にも組み上げて、高いものを一層高く見えるように工夫したその天井は、小さい彼の心を包むに足りなかった。最後に彼の眼は自分の下に黒い頭を並べて、神妙に彼のいう事を聴いている多くの青年の上に落ちた。そうしてまた卒然として現実に帰るべく彼らから余儀なくされた。



 これほど細君の病気に悩まされていた健三は、比較的島田のために崇(たた)られる恐れを抱(いだ)かなかった。彼はこの老人を因業(いんごう)で強慾(ごうよく)な男と思っていた。しかし一方ではまたそれらの性癖を充分発揮する能力がないものとしてむしろ見縊(みくび)ってもいた。ただ要(い)らぬ会談に惜い時間を潰(つぶ)されるのが、健三には或種類の人の受ける程度より以上の煩いになった。



「何をいって来る気かしら、この次は」



 襲われる事を予期して、暗(あん)にそれを苦にするような健三の口振(くちぶり)が、細君の言葉を促がした。



「どうせ分っているじゃありませんか。そんな事を気になさるより早く絶交した方がよっぽど得ですわ」



 健三は心の裡で細君のいう事を肯(うけ)がった。しかし口ではかえって反対な返事をした。



「それほど気にしちゃいないさ、あんな者。もともと恐ろしい事なんかないんだから」



「恐ろしいって誰もいやしませんわ。けれども面倒臭(めんどくさ)いにゃ違いないでしょう、いくら貴夫(あなた)だって」



「世の中にはただ面倒臭い位な単純な理由でやめる事の出来ないものがいくらでもあるさ」



 多少片意地の分子を含んでいるこんな会話を細君と取り換わせた健三は、その次島田の来た時、例(いつも)よりは忙がしい頭を抱えているにもかかわらず、ついに面会を拒絶する訳に行かなかった。



 島田のちと話したい事があるといったのは、細君の推察通りやっぱり金の問題であった。隙(すき)があったら飛び込もうとして、この間から覘(ねらい)を付けていた彼は、何時まで待っても際限がないとでも思ったものか、機会のあるなしに頓着(とんじゃく)なく、ついに健三に肉薄(にくはく)し始めた。



「どうも少し困るので。外にどこといって頼みに行く所もない私(わたし)なんだから、是非一つ」



 老人の言葉のどこかには、義務として承知してもらわなくっちゃ困るといった風の横着さが潜んでいた。しかしそれは健三の神経を自尊心の一角において傷(いた)め付けるほど強くも現われていなかった。



 健三は立って書斎の机の上から自分の紙入を持って来た。一家の会計を司(つかさ)どっていない彼の財嚢(ざいのう)は無論軽かった。空のまま硯箱(すずりばこ)の傍(そば)に幾日(いくか)も横たわっている事さえ珍らしくはなかった。彼はその中から手に触れるだけの紙幣を攫(つか)み出して島田の前に置いた。島田は変な顔をした。



「どうせ貴方(あなた)の請求通り上げる訳には行かないんです。それでもありったけ悉皆(みんな)上げたんですよ」



 健三は紙入の中を開けて島田に見せた。そうして彼の帰ったあとで、空の財布を客間へ放り出したまままた書斎へ入った。細君には金を遣(や)った事を一口もいわなかった。



     



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