夏目漱石 道草

五十五



 こういう不愉快な場面の後(あと)には大抵仲裁者としての自然が二人の間に這入(はい)って来た。二人は何時となく普通夫婦の利くような口を利き出した。



 けれども或時の自然は全くの傍観者に過ぎなかった。夫婦はどこまで行っても背中合せのままで暮した。二人の関係が極端な緊張の度合に達すると、健三はいつも細君に向って生家へ帰れといった。細君の方ではまた帰ろうが帰るまいがこっちの勝手だという顔をした。その態度が憎らしいので、健三は同じ言葉を何遍でも繰り返して憚(はばか)らなかった。



「じゃ当分子供を伴(つ)れて宅(うち)へ行っていましょう」



 細君はこういって一旦里へ帰った事もあった。健三は彼らの食料を毎月(まいげつ)送って遣(や)るという条件の下(もと)に、また昔のような書生生活に立ち帰れた自分を喜んだ。彼は比較的広い屋敷に下女(げじょ)とたった二人ぎりになったこの突然の変化を見て、少しも淋(さび)しいとは思わなかった。



「ああ晴々(せいせい)して好(い)い心持だ」



 彼は八畳の座敷の真中に小さな餉台(ちゃぶだい)を据えてその上で朝から夕方までノートを書いた。丁度極暑の頃だったので、身体(からだ)の強くない彼は、よく仰向(あおむけ)になってばたりと畳の上に倒れた。何時替えたとも知れない時代の着いたその畳には、彼の脊中(せなか)を蒸すような黄色い古びが心(しん)まで透っていた。



 彼のノートもまた暑苦しいほど細かな字で書き下(くだ)された。蠅(はえ)の頭というより外に形容のしようのないその草稿を、なるべくだけ余計拵(こしら)えるのが、その時の彼に取っては、何よりの愉快であった。そして苦痛であった。また義務であった。



 巣鴨(すがも)の植木屋の娘とかいう下女は、彼のために二、三の盆栽を宅から持って来てくれた。それを茶の間の縁(えん)に置いて、彼が飯を食う時給仕をしながら色々な話をした。彼は彼女の親切を喜こんだ。けれども彼女の盆栽を軽蔑(けいべつ)した。それはどこの縁日へ行っても、二、三十銭出せば、鉢ごと買える安価な代物(しろもの)だったのである。



 彼は細君の事をかつて考えずにノートばかり作っていた。彼女の里へ顔を出そうなどという気はまるで起らなかった。彼女の病気に対する懸念も悉(ことごと)く消えてしまった。



「病気になっても父母が付いているじゃないか。もし悪ければ何とかいって来るだろう」



 彼の心は二人一所にいる時よりも遥(はるか)に平静であった。



 細君の関係者に会わないのみならず、彼はまた自分の兄や姉にも会いに行かなかった。その代り向うでも来なかった。彼はたった一人で、日中の勉強につづく涼しい夜を散歩に費やした。そうして継布(つぎ)のあたった青い蚊帳(かや)の中に入って寐(ね)た。



 一カ月あまりすると細君が突然遣って来た。その時健三は日のかぎった夕暮の空の下に、広くもない庭先を逍遥(あちこち)していた。彼の歩みが書斎の縁側の前へ来た時、細君は半分朽ち懸けた枝折戸(しおりど)の影から急に姿を現わした。



「貴夫(あなた)故(もと)のようになって下さらなくって」



 健三は細君の穿(は)いている下駄(げた)の表が変にささくれて、その後(うしろ)の方が如何(いか)にも見苦しく擦(す)り減らされているのに気が付いた。彼は憐(あわ)れになった。紙入の中から三枚の一円紙幣を出して細君の手に握らせた。



「見っともないからこれで下駄でも買ったら好いだろう」



 細君が帰ってから幾日(いくか)目か経った後(のち)、彼女の母は始めて健三を訪ずれた。用事は細君が健三に頼んだのと大同小異で、もう一遍彼らを引取ってくれという主意を畳の上で布衍(ふえん)したに過ぎなかった。既に本人に帰りたい意志があるのを拒絶するのは、健三から見ると無情な挙動(ふるまい)であった。彼は一も二もなく承知した。細君はまた子供を連れて駒込(こまごめ)へ帰って来た。しかし彼女の態度は里へ行く前と毫(ごう)も違っていなかった。健三は心のうちで彼女の母に騙(だま)されたような気がした。



 こうした夏中の出来事を自分だけで繰り返して見るたびに、彼は不愉快になった。これが何時まで続くのだろうかと考えたりした。



     



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