夏目漱石 道草

五十八



 健三は外国から帰って来た時、既に金の必要を感じた。久しぶりにわが生れ故郷の東京に新らしい世帯を持つ事になった彼の懐中には一片の銀貨さえなかった。



 彼は日本を立つ時、その妻子を細君の父に託した。父は自分の邸内にある小(ち)さな家を空けて彼らの住居(すrbrb/rubyrtまい)に充てた。細君の祖父母が亡くなるまでいたその家は狭いながらさほど見苦しくもなかった。張交(はりまぜ)の襖(ふすま)には南湖(なんこ)の画(え)だの鵬斎(ぼうさい)の書だの、すべて亡くなった人の趣味を偲(しの)ばせる記念(かたみ)と見るべきものさえ故(もと)の通り貼(は)り付けてあった。



 父は官吏であった。大して派出(はで)な暮しの出来る身分ではなかったけれども、留守中手元に預かった自分の娘や娘の子に、苦しい思いをさせるほど窮してもいなかった。その上健三の細君へは月々いくらかの手当が公けから下りた。健三は安心してわが家族を後に遺した。



 彼が外国にいるうち内閣が変った。その時細君の父は比較的安全な閑職からまた引張出されて劇(はげ)しく活動しなければならない或(ある)位置に就いた。不幸にしてその新らしい内閣はすぐ倒れた。父は崩壊の渦の中(うち)に捲(ま)き込まれなければならなかった。



 遠い所でこの変化を聴いた健三は、同情に充ちた眼を故郷の空に向けた。けれども細君の父の経済状態に関しては別に顧慮する必要のないものとして、殆(ほと)んど心を悩ませなかった。



 迂闊(うかつ)な彼は帰ってからも其所(そこ)に注意を払わなかった。また気も付かなかった。彼は細君が月々貰(もら)う二十円だけでも子供二人に下女(げじょ)を使って充分遣(や)って行ける位に考えていた。



「何しろ家賃が出ないんだから」



 こんな呑気(のんき)な想像が、実際を見た彼の眼を驚愕(おどろき)で丸くさせた。細君は夫の留守中に自分の不断着をことごとく着切ってしまった。仕方がないので、しまいには健三の置いて行った地味(じみ)な男物を縫い直して身に纏(まと)った。同時に蒲団(ふとん)からは綿が出た。夜具は裂けた。それでも傍(そば)に見ている父はどうして遣る訳にも行かなかった。彼は自分の位地を失った後(あと)、相場に手を出して、多くもない貯蓄を悉(ことごと)く亡くしてしまったのである。



 首の回らないほど高い襟(カラ)を掛けて外国から帰って来た健三は、この惨澹(みじめ)な境遇に置かれたわが妻子を黙って眺めなければならなかった。ハイカラな彼はアイロニーのために手非道(てひど)く打ち据えられた。彼の唇は苦笑する勇気さえ有(も)たなかった。



 その内彼の荷物が着いた。細君に指輪一つ買って来なかった彼の荷物は、書籍だけであった。狭苦しい隠居所のなかで、彼はその箱の蓋(ふた)さえ開ける事の出来ないのを馬鹿らしく思った。彼は新らしい家を探し始めた。同時に金の工面もしなければならなかった。



 彼は唯一の手段として、今まで継続して来た自分の職を辞した。彼はその行為に伴なって起る必然な結果として、一時(いちじ)賜金(しきん)を受取る事が出来た。一年勤めれば役をやめた時に月給の半額をくれるという規定に従って彼の手に入ったその金額は、無論大したものではなかった。けれども彼はそれで漸(やっ)と日常生活に必要な家具家財を調(ととの)えた。



 彼は僅(わずか)ばかりの金を懐にして、或る古い友達と一所に方々の道具屋などを見て歩いた。その友達がまた品物の如何(いかん)にかかわらずむやみに価切(ねぎ)り倒す癖を有っているので、彼はただ歩くために少なからぬ時間を費やさされた。茶盆、烟草盆(タバコぼん)、火鉢(ひばち)、丼鉢(どんぶりばち)、眼に入(い)るものはいくらでもあったが、買えるのは滅多に出て来なかった。これだけに負けて置けと命令するようにいって、もし主人がその通りにしないと、友達は健三を店先に残したまま、さっさと先へ歩いて行った。健三も仕方なしに後を追懸(おっかけ)なければならなかった。たまに愚図々々していると、彼は大きな声を出して遠くから健三を呼んだ。彼は親切な男であった。同時に自分の物を買うのか他(ひと)の物を買うのか、その区別を弁(わきま)えていないように猛烈な男であった。



     



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