夏目漱石 道草

六十三



「ああ変った」



 顔を見合せた刹那(せつな)に双方は同じ事を一度に感じ合った。けれどもわざわざ訪ねて来た御常の方には、この変化に対する予期と準備が充分にあった。ところが健三にはそれが殆(ほと)んど欠けていた。従って不意に打たれたものは客よりもむしろ主人であった。それでも健三は大して驚ろいた様子を見せなかった。彼の性質が彼にそうしろと命令する外に、彼は御常の技巧から溢(あふ)れ出る戯曲的動作を恐れた。今更この女の遣(や)る芝居を事新らしく観(み)せられるのは、彼に取って堪えがたい苦痛であった。なるべくなら彼は先方の弱点を未然に防ぎたかった。それは彼女のためでもあり、また自分のためでもあった。



 彼は彼女から今までの経歴をあらまし聞き取った。その間には人世(じんせい)と切り離す事の出来ない多少の不幸が相応に纏綿(てんめん)しているらしく見えた。



 島田と別れてから二度目に嫁(かた)づいた波多野と彼女との間にも子が生れなかったので、二人は或所から養女を貰(もら)って、それを育てる事にした。波多野が死んで何年目にか、あるいはまだ生きている時分にか、それは御常もいわなかったが、その貰い娘に養子が来たのである。



 養子の商売は酒屋であった。店は東京のうちでも随分繁華な所にあった。どの位な程度の活計(くらし)をしていたものか能(よ)く分らないが、困ったとか、窮したとかいう弱い言葉は御常の口を洩(も)れなかった。



 その内養子が戦争に出て死んだので、女だけでは店が持ち切れなくなった。親子はやむをえずそれを畳んで、郊外近くに住んでいる或身縁(みより)を頼りに、ずっと辺鄙(へんぴ)な所へ引越した。其所(そこ)で娘に二度目の夫が出来るまでは、死んだ養子の遺族へ毎年(まいねん)下がる扶助料だけで活計(くらし)を立てて行った。……



 御常の物語りは健三の予期に反してむしろ平静であった。誇張した身ぶりだの、仰山な言葉遣だの、当込(あてこみ)の台詞(せりふ)だのは、それほど多く出て来なかった。それにもかかわらず彼は自分とこの御婆(おばあ)さんの間に、少しの気脈も通じていない事に気が付いた。



「ああそうですか、それはどうも」



 健三の挨拶(あいさつ)は簡単であった。普通の受答えとしても短過ぎるこの一句を彼女に与えたぎりで、彼は別段物足りなさを感じ得なかった。



「昔の因果が今でもやっぱり崇(たた)っているんだ」



 こう思った彼はさすがに好(い)い心持がしなかった。どっちかというと泣きたがらない質(たち)に生れながら、時々は何故(なぜ)本当に泣ける人や、泣ける場合が、自分の前に出て来てくれないのかと考えるのが彼の持前であった。



「己(おれ)の眼は何時でも涙が湧(わ)いて出るように出来ているのに」



 彼は丸まっちくなって座蒲団(ざぶとん)の上に坐(すわ)っている御婆さんの姿を熟視した。そうして自分の眼に涙を宿す事を許さない彼女の性格を悲しく観じた。



 彼は紙入の中にあった五円紙幣を出して彼女の前に置いた。



「失礼ですが、車へでも乗って御帰り下さい」



 彼女はそういう意味で訪問したのではないといって一応辞退した上、健三からの贈りものを受け納めた。気の毒な事に、その贈り物の中には、疎(うと)い同情が入っているだけで、露(あら)わな真心は籠(こも)っていなかった。彼女はそれを能く承知しているように見えた。そうして何時の間にか離れ離れになった人間の心と心は、今更取り返しの付かないものだから、諦(あき)らめるより外に仕方がないという風にふるまった。彼は玄関に立って、御常の帰って行く後姿を見送った。



「もしあの憐(あわれ)な御婆さんが善人であったなら、私(わたし)は泣く事が出来たろう。泣けないまでも、相手の心をもっと満足させる事が出来たろう。零落した昔しの養い親を引き取って死水(しにみず)を取って遣る事も出来たろう」



 黙ってこう考えた健三の腹の中は誰も知る者がなかった。



     



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