夏目漱石 道草

七十二



「今日(きょう)父が来ました時、外套(がいとう)がなくって寒そうでしたから、貴方(あなた)の古いのを出して遣(や)りました」



 田舎(いなか)の洋服屋で拵(こしら)えたその二重廻(にじゅうまわ)しは、殆(ほと)んど健三の記憶から消えかかっている位古かった。細君がどうしてまたそれを彼女の父に与えたものか、健三には理解出来なかった。



「あんな汚ならしいもの」



 彼は不思議というよりもむしろ恥かしい気がした。



「いいえ。喜こんで着て行きました」



「御父(おとっ)さんは外套を有(も)っていないのかい」



「外套どころじゃない、もう何にも有っちゃいないんです」



 健三は驚ろいた。細い灯(ひ)に照らされた細君の顔が急に憐(あわ)れに見えた。



「そんなに窮(こま)っているのかなあ」



「ええ。もうどうする事も出来ないんですって」



 口数の寡(すく)ない細君は、自分の生家に関する詳しい話を今まで夫の耳に入れずに通して来たのである。職に離れて以来の不如意を薄々(うすうす)知っていながら、まさかこれほどとも思わずにいた健三は、急に眼を転じてその人の昔を見なければならなかった。



 彼は絹帽(シルクハット)にフロックコートで勇ましく官邸の石門(せきもん)を出て行く細君の父の姿を鮮やかに思い浮べた。堅木(かたぎ)を久(きゅう)の字形(じがた)に切り組んで作ったその玄関の床(ゆか)は、つるつる光って、時によると馴(な)れない健三の足を滑らせた。前に広い芝生(しばふ)を控えた応接間を左へ折れ曲ると、それと接続(つづ)いて長方形の食堂があった。結婚する前健三は其所(そこ)で細君の家族のものと一緒に晩餐(ばんさん)の卓に着いた事をいまだに覚えていた。二階には畳が敷いてあった。正月の寒い晩、歌留多(カルタ)に招かれた彼は、そのうちの一間で暖たかい宵を笑い声の裡(うち)に更(ふか)した記憶もあった。



 西洋館に続いて日本建(にほんだて)も一棟(ひとむね)付いていたこの屋敷には、家族の外に五人の下女(げじょ)と二人の書生が住んでいた。職務柄客の出入(でいり)の多いこの家の用事には、それだけの召仕(めしつかい)が必要かも知れなかったが、もし経済が許さないとすれば、その必要も充(み)たされるはずはなかった。



 健三が外国から帰って来た時ですら、細君の父はさほど困っているようには見えなかった。彼が駒込(こまごめ)の奥に住居(すまい)を構えた当座、彼の新宅を訪ねた父は、彼に向ってこういった。――



「まあ自分の宅(うち)を有(も)つという事が人間にはどうしても必要ですね。しかしそう急にも行くまいから、それは後廻しにして、精々(せいぜい)貯蓄を心掛けたら好(い)いでしょう。二、三千円の金を有っていないと、いざという場合に、大変困るもんだから。なに千円位出来ればそれで結構です。それを私(わたし)に預けて御置きなさると、一年位経つうちには、じき倍にして上げますから」



 貨殖の道に心得の足りない健三はその時不思議の感に打たれた。



「どうして一年のうちに千円が二千円になり得るだろう」



 彼の頭ではこの疑問の解決がとても付かなかった。利慾を離れる事の出来ない彼は、驚愕(きょうがく)の念を以て、細君の父にのみあって、自分には全く欠乏している、一種の怪力(かいりょく)を眺めた。しかし千円拵(こしら)えて預ける見込の到底付かない彼は、細君の父に向ってその方法を訊(き)く気にもならずについ今日(こんにち)まで過ぎたのである。



「そんなに貧乏するはずがないだろうじゃないか。何ぼ何だって」



「でも仕方がありませんわ、廻(まわ)り合(あわ)せだから」



 産という肉体の苦痛を眼前に控えている細君の気息遣(いきづかい)はただでさえ重々(おもおも)しかった。健三は黙って気の毒そうなその腹と光沢(つや)の悪いその頬(ほお)とを眺めた。



 昔し田舎で結婚した時、彼女の父がどこからか浮世絵風の美人を描(か)いた下等な団扇(うちわ)を四、五本買って持って来たので、健三はその一本をぐるぐる廻しながら、随分俗なものだと評したら、父はすぐ「所相応だろう」と答えた事があったが、健三は今自分がその地方で作った外套を細君の父に遣って、「阿爺(おやじ)相応だろう」という気にはとてもなれなかった。いくら困ったってあんなものをと思うとむしろ情(なさけ)なくなった。



「でもよく着られるね」



「見っともなくっても寒いよりは好いでしょう」



 細君は淋(さび)しそうに笑った。



     



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