夏目漱石 道草

七十三



 中一日置いて彼が来た時、健三は久しぶりで細君の父に会った。



 年輩からいっても、経歴から見ても、健三より遥かに世間馴れた父は、何時も自分の娘婿に対して鄭寧(ていねい)であった。或時は不自然に陥る位鄭寧過ぎた。しかしそれが彼を現わす凡(すべ)てではなかった。裏側には反対のものが所々に起伏していた。



 官僚式に出来上った彼の眼には、健三の態度が最初から頗(すこぶ)る横着に見えた。超えてはならない階段を無躾(ぶしつけ)に飛び越すようにも思われた。その上彼はむやみに自(みずか)ら任じているらしい健三の高慢ちきな所を喜こばなかった。頭にある事を何でも口外して憚(はばか)らない健三の無作法も気に入らなかった。乱暴とより外に取りようのない一徹一図な点も非難の標的(まと)になった。



 健三の稚気を軽蔑(けいべつ)した彼は、形式の心得もなく無茶苦茶に近付いて来(き)ようとする健三を表面上鄭寧な態度で遮った。すると二人は其所(そこ)で留まったなり動けなくなった。二人は或る間隔を置いて、相手の短所を眺めなければならなかった。だから相手の長所も判明(はっきり)と理解する事が出来悪(にく)くなった。そうして二人とも自分の有(も)っている欠点の大部分には決して気が付かなかった。



 しかし今の彼は健三に対して疑(うたがい)もなく一時的の弱者であった。他(ひと)に頭を下げる事の嫌(きらい)な健三は窮迫の結果、余儀なく自分の前に出て来た彼を見た時、すぐ同じ眼で同じ境遇に置かれた自分を想像しない訳に行かなかった。



「如何(いか)にも苦しいだろう」



 健三はこの一念に制せられた。そうして彼の持ち来(きた)した金策談に耳を傾むけた。けれども好(い)い顔はし得なかった。心のうちでは好い顔をし得ないその自分を呪(のろ)っていた。



「金の話だから好い顔が出来ないんじゃない。金とは独立した不愉快のために好い顔が出来ないのです。誤解してはいけません。私(わたくし)はこんな場合に敵討(かたきうち)をするような卑怯(ひきょう)な人間とは違ます」



 細君の父の前にこれだけの弁解がしたくって堪らなかった健三は、黙って誤解の危険を冒すより外に仕方がなかった。



 このぶっきら棒な健三に比べると、細君の父はよほど鄭寧であった。また落付(おちつ)いていた。傍(はた)から見れば遥に紳士らしかった。



 彼は或人の名を挙げた。



「向うでは貴方(あなた)を知ってるといいますが、貴方も知ってるんでしょうね」



「知っています」



 健三は昔し学校にいた時分にその男を知っていた。けれども深い交際(つきあい)はなかった。卒業して独乙(ドイツ)へ行って帰って来たら、急に職業がえをして或(ある)大きな銀行へ入ったとか人の噂(うわさ)に聞いた位より外に、彼の消息は健三に伝わっていなかった。



「まだ銀行にいるんですか」



 細君の父は点頭(うなず)いた。しかし二人がどこでどう知り合になったのか、健三には想像さえ付かなかった。またそれを詳しく訊(き)いて見たところが仕方がなかった。要点はただその人が金を貸してくれるか、くれないかの問題にあった。



「で当人のいうには、貸しても好い、好いが慥(たしか)な人を証人に立ててもらいたいとこういうんです」



「なるほど」



「じゃ誰を立てたら好いのかと聞くと、貴方ならば貸しても好いと、向うでわざわざ指名した訳なんです」



 健三は自分自身を慥なものと認めるには躊躇(ちゅうちょ)しなかった。しかし自分自身の財力に乏しい事も職業の性質上他(ひと)に知れていなければならないはずだと考えた。その上細君の父は交際範囲の極めて広い人であった。平生(へいぜい)彼の口にする知合(しりあい)のうちには、健三よりどの位世間から信用されて好いか分らないほど有名な人がいくらでもいた。



「何故(なぜ)私の判が必要なんでしょう」



「貴方なら貸そうというのです」



 健三は考えた。



     



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