夏目漱石 道草

八十一



 その内待(まち)に待った産婆が来たので、健三は漸(ようや)く安心して自分の室(へや)へ引き取った。



 夜(よ)は間もなく明けた。赤子(あかご)の泣く声が家の中の寒い空気を顫(ふる)わせた。



「御安産で御目出とう御座います」



「男かね女かね」



「女の御子さんで」



 産婆は少し気の毒そうに中途で句を切った。



「また女か」



 健三にも多少失望の色が見えた。一番目が女、二番目が女、今度生れたのもまた女、都合三人の娘の父になった彼は、そう同じものばかり生んでどうする気だろうと、心の中(うち)で暗(あん)に細君を非難した。しかしそれを生ませた自分の責任には思い到(いた)らなかった。



 田舎(いなか)で生まれた長女は肌理(きめ)の濃(こま)やかな美くしい子であった。健三はよくその子を乳母車(うばぐるま)に乗せて町の中を後(うしろ)から押して歩いた。時によると、天使のように安らかな眠に落ちた顔を眺めながら宅(うち)へ帰って来た。しかし当(あて)にならないのは想像の未来であった。健三が外国から帰った時、人に伴(つ)れられて彼を新橋(しんばし)に迎えたこの娘は、久しぶりに父の顔を見て、もっと好(い)い御父(おとう)さまかと思ったと傍(はた)のものに語った如く、彼女自身の容貌もしばらく見ないうちに悪い方に変化していた。彼女の顔は段々丈(たけ)が詰って来た。輪廓に角(かど)が立った。健三はこの娘の容貌の中(うち)にいつか成長しつつある自分の相好(そうごう)の悪い所を明らかに認めなければならなかった。



 次女は年が年中腫物(できもの)だらけの頭をしていた。風通しが悪いからだろうというのが本(もと)で、とうとう髪の毛をじょぎじょぎに剪(き)ってしまった。顋の短かい眼の大きなその子は、海坊主(うみぼうず)の化物(ばけもの)のような風をして、其所(そこ)いらをうろうろしていた。



 三番目の子だけが器量好く育とうとは親の慾目にも思えなかった。



「ああいうものが続々生れて来て、必竟(ひっきょう)どうするんだろう」



 彼は親らしくもない感想を起した。その中には、子供ばかりではない、こういう自分や自分の細君なども、必竟どうするんだろうという意味も朧気(おぼろげ)に交(まじ)っていた。



 彼は外へ出る前にちょっと寝室へ顔を出した。細君は洗い立てのシーツの上に穏かに寐(ね)ていた。子供も小さい附属物のように、厚い綿の入った新調の夜具蒲団(ふとん)に包(くる)まれたまま、傍に置いてあった。その子供は赤い顔をしていた。昨夜(ゆうべ)暗闇(くらやみ)で彼の手に触れた寒天のような肉塊とは全く感じの違うものであった。



 一切も綺麗(きれい)に始末されていた。其所(そこ)いらには汚(よご)れ物(もの)の影さえ見えなかった。夜来(やらい)の記憶は跡方もない夢らしく見えた。彼は産婆の方を向いた。



「蒲団は換えて遣(や)ったのかい」



「ええ、蒲団も敷布も換えて上げました」



「よくこう早く片付けられるもんだね」



 産婆は笑うだけであった。若い時から独身で通して来たこの女の声や態度はどことなく男らしかった。



「貴夫(あなた)がむやみに脱脂綿を使って御しまいになったものだから、足りなくって大変困りましたよ」



「そうだろう。随分驚ろいたからね」



 こう答えながら健三は大して気の毒な思いもしなかった。それよりも多量に血を失なって蒼(あお)い顔をしている細君の方が懸念の種になった。



「どうだ」



 細君は微(かす)かに眼を開けて、枕の上で軽く肯(うな)ずいた。健三はそのまま外へ出た。



 例刻に帰った時、彼は洋服のままでまた細君の枕元に坐(すわ)った。



「どうだ」



 しかし細君はもう肯ずかなかった。



「何だか変なようです」



 彼女の顔は今朝見た折と違って熱で火照(ほrtて)っていた。



「心持が悪いのかい」



「ええ」



「産婆を呼びに遣ろうか」



「もう来るでしょう」



 産婆は来るはずになっていた。



     



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