夏目漱石 道草

八十五



 細君の床が上げられた時、冬はもう荒れ果てた彼らの庭に霜柱の錐(きり)を立てようとしていた。



「大変荒れた事、今年は例(いつも)より寒いようね」



「血が少なくなったせいで、そう思うんだろう」



「そうでしょうかしら」



 細君は始めて気が付いたように、両手を火鉢(ひばち)の上に翳(かざ)して、自分の爪(つめ)の色を見た。



「鏡を見たら顔の色でも分りそうなものだのにね」



「ええ、そりゃ分ってますわ」



 彼女は再び火の上に差し延べた手を返して蒼白(あおしろ)い頬(ほお)を二、三度撫(な)でた。



「しかし寒い事も寒いんでしょう、今年は」



 健三には自分の説明を聴かない細君が可笑(おか)しく見えた。



「そりゃ冬だから寒いに極(きま)まっているさ」



 細君を笑う健三はまた人よりも一倍寒がる男であった。ことに近頃の冬は彼の身体(からだ)に厳しく中(あた)った。彼はやむをえず書斎に炬燵(こたつ)を入れて、両膝(りょうひざ)から腰のあたりに浸(し)み込む冷(ひえ)を防いだ。神経衰弱の結果こう感ずるのかも知れないとさえ思わなかった彼は、自分に対する注意の足りない点において、細君と異(かわ)る所がなかった。



 毎朝夫を送り出してから髪に櫛(くし)を入れる細君の手には、長い髪の毛が何本となく残った。彼女は梳(す)くたびに櫛の歯に絡(から)まるその抜毛を残り惜気(おしげ)に眺めた。それが彼女には失なわれた血潮よりもかえって大切らしく見えた。



「新らしく生きたものを拵(こしら)え上げた自分は、その償いとして衰えて行かなければならない」



 彼女の胸には微(かす)かにこういう感じが湧(わ)いた。しかし彼女はその微かな感じを言葉に纏(まと)めるほどの頭を有(も)っていなかった。同時にその感じには手柄をしたという誇りと、罰を受けたという恨みと、が交(まじ)っていた。いずれにしても、新らしく生れた子が可愛(かあい)くなるばかりであった。



 彼女はぐたぐたして手応(てごた)えのない赤ん坊を手際よく抱き上げて、その丸い頬(ほお)へ自分の唇を持って行った。すると自分から出たものはどうしても自分の物だという気が理窟なしに起った。



 彼女は自分の傍(わき)にその子を置いて、また裁(たち)もの板の前に坐(すわ)った。そうして時々針の手をやめては、暖かそうに寐(ね)ているその顔を、心配そうに上から覗(のぞ)き込んだ。



「そりゃ誰の着物だい」



「やっぱりこの子のです」



「そんなにいくつも要(い)るのかい」



「ええ」



 細君は黙って手を運ばしていた。



 健三は漸(やっ)と気が付いたように、細君の膝(ひざ)の上に置かれた大きな模様のある切地(きれじ)を眺めた。



「それは姉から祝ってくれたんだろう」



「そうです」



「下らない話だな。金もないのに止せば好(い)いのに」



 健三から貰(もら)った小遣の中(うち)を割(さ)いて、こういう贈り物をしなければ気の済まない姉の心持が、彼には理解出来なかった。



「つまり己(おれ)の金で己が買ったと同じ事になるんだからな」



「でも貴夫(あなた)に対する義理だと思っていらっしゃるんだから仕方がありませんわ」



 姉は世間でいう義理を克明に守り過ぎる女であった。他(ひと)から物を貰えばきっとそれ以上のものを贈り返そうとして苦しがった。



「どうも困るね、そう義理々々って、何が義理だかさっぱり解りゃしない。そんな形式的な事をするより、自分の小遣を比田(ひだ)に借りられないような用心でもする方がよっぽど増しだ」



 こんな事に掛けると存外無神経な細君は、強いて姉を弁護しようともしなかった。



「今にまた何か御礼をしますからそれで好いでしょう」



 他(ひと)を訪問する時に殆(ほと)んど土産(みやげ)ものを持参した例(ためし)のない健三は、それでもまだ不審そうに細君の膝の上にあるめりんすを見詰めていた。



     



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