夏目漱石 道草

八十八



 好い加減な時分に彼は立って書斎に入った。机の上に載せてある紙入を取って、そっと中を改めると、一枚の五円札があった。彼はそれを手に握ったまま元の座敷へ帰って、御常の前へ置いた。



「失礼ですがこれで俥(くるま)へでも乗って行って下さい」



「そんな御心配を掛けては済みません。そういうつもりで上(あが)ったのでは御座いませんから」



 彼女は辞退の言葉と共に紙幣を受け納めて懐(ふところ)へ入れた。



 小遣を遣(や)る時の健三がこの前と同じ挨拶(あいさつ)を用いたように、それを貰(もら)う御常の辞令も最初と全く違わなかった。その上偶然にも五円という金高(かねだか)さえ一致していた。



「この次来た時に、もし五円札がなかったらどうしよう」



 健三の紙入がそれだけの実質で始終充たされていない事はその所有主の彼に知れているばかりで、御常に分るはずがなかった。三度目に来る御常を予想した彼が、三度目に遣る五円を予想する訳に行かなかった時、彼はふと馬鹿々々しくなった。



「これからあの人が来ると、何時でも五円遣らなければならないような気がする。つまり姉が要(い)らざる義理立(ぎりだて)をするのと同じ事なのかしら」



 自分の関係した事じゃないといった風に熨斗(ひのし)を動かしていた細君は、手を休めずにこういった。――



「ないときは遣らないでも好(い)いじゃありませんか。何もそう見栄(みえ)を張る必要はないんだから」



「ない時に遣ろうったって、遣れないのは分ってるさ」



 二人の問答はすぐ途切れてしまった。消えかかった炭を熨斗(ひのし)から火鉢(ひばち)へ移す音がその間に聞こえた。



「どうしてまた今日は五円入っていたんです。貴夫(あなた)の紙入(かみいれ)に」



 健三は床の間に釣り合わない大きな朱色の花瓶(はないけ)を買うのに四円いくらか払った。懸額(かけがく)を誂(あつ)らえるとき五円なにがしか取られた。指物師(さしものし)が百円に負けて置くから買わないかといった立派な紫檀(したん)の書棚をじろじろ見ながら、彼はその二十分の一にも足らない代価を大事そうに懐中から出して匠人(しょうにん)の手に渡した。彼はまたぴかぴかする一匹の伊勢崎銘仙(いせざきめいせん)を買うのに十円余りを費やした。友達から受取った原稿料がこう形を変えたあとに、手垢(てあか)の付いた五円札がたった一枚残ったのである。



「実はまだ買いたいものがあるんだがな」



「何を御買いになるつもりだったの」



 健三は細君の前に特別な品物の名前を挙げる事が出来なかった。



「沢山あるんだ」



 慾に際限のない彼の言葉は簡単であった。夫と懸け離れた好尚を有(も)っている細君は、それ以上追窮する面倒を省いた代りに、外の質問を彼に掛けた。



「あの御婆(おばあ)さんは御姉(おあねえ)さんなんぞよりよっぽど落ち付いているのね。あれじゃ島田って人と宅(うち)で落ち合っても、そう喧嘩(けんか)もしないでしょう」



「落ち合わないからまだ仕合せなんだ。二人が一所の座敷で顔を見合せでもして見るがいい、それこそ堪(たま)らないや。一人ずつ相手にしているんでさえ沢山な所へ持って来て」



「今でもやっぱり喧嘩が始まるでしょうか」



「喧嘩はとにかく、己(おれ)の方が厭(いや)じゃないか」



「二人ともまだ知らないようね。片っ方が宅(うち)へ来る事を」



「どうだか」



 島田はかつて御常の事を口にしなかった。御常も健三の予期に反して、島田については何にも語らなかった。



「あの御婆さんの方がまだあの人より好(い)いでしょう」



「どうして」



「五円貰うと黙って帰って行くから」



 島田の請求慾の訪問ごとに増長するのに比べると、御常の態度は尋常に違なかった。



     



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