九十二
細君は健三に向っていった。――
「貴夫(あなた)に気に入る人はどうせどこにもいないでしょうよ。世の中はみんな馬鹿ばかりですから」
健三の心はこうした諷刺(ふうし)を笑って受けるほど落付(おちつ)いていなかった。周囲の事情は雅量に乏しい彼を益(ますます)窮屈にした。
「御前は役に立ちさえすれば、人間はそれで好(い)いと思っているんだろう」
「だって役に立たなくっちゃ何にもならないじゃありませんか」
生憎(あいにく)細君の父は役に立つ男であった。彼女の弟もそういう方面にだけ発達する性質(たち)であった。これに反して健三は甚だ実用に遠い生れ付であった。
彼には転宅の手伝いすら出来なかった。大掃除の時にも彼は懐手(ふところで)をしたなり澄ましていた。行李(こうり)一つ絡(から)げるにさえ、彼は細紐(ほそびき)をどう渡すべきものやら分らなかった。
「男のくせに」
動かない彼は、傍(はた)のものの眼に、如何(いか)にも気の利かない鈍物のように映った。彼はなおさら動かなかった。そうして自分の本領を益(ますます)反対の方面に移して行った。
彼はこの見地から、昔し細君の弟を、自分の住んでいる遠い田舎(いなか)へ伴(つ)れて行って教育しようとした。その弟は健三から見ると如何にも生意気であった。家庭のうちを横行して誰にも遠慮会釈がなかった。ある理学士に毎日自宅で課業の復習をしてもらう時、彼はその人の前で構わず胡坐(あぐら)をかいた。またその人の名を何君何君と君づけに呼んだ。
「あれじゃ仕方がない。私(わたくし)に御預けなさい。私が田舎へ連れて行って育てるから」
健三の申出(もうしで)は細君の父によって黙って受け取られた。そうして黙って捨てられた。彼は眼前に横暴を恣(ほしいま)まにする我子を見て、何という未来の心配も抱(いだ)いていないように見えた。彼ばかりか、細君の母も平気であった。細君も一向気に掛ける様子がなかった。
「もし田舎へ遣(や)って貴夫と衝突したり何(なん)かすると、折合が悪くなって、後が困るから、それでやめたんだそうです」
細君の弁解を聞いた時、健三は満更(まんざら)の嘘(うそ)とも思わなかった。けれどもその他(ほか)にまだ意味が残っているようにも考えた。
「馬鹿じゃありません。そんな御世話にならなくっても大丈夫です」
周囲の様子から健三は謝絶の本意がかえって此所(ここ)にあるのではなかろうかと推察した。
なるほど細君の弟は馬鹿ではなかった。むしろ怜悧(りこう)過ぎた。健三にもその点はよく解っていた。彼が自分と細君の未来のために、彼女の弟を教育しようとしたのは、全く見当の違った方面にあった。そうして遺憾ながらその方面は、今日(こんにち)に至るまでいまだに細君の父母にも細君にも了解されていなかった。
「役に立つばかりが能じゃない。その位の事が解らなくってどうするんだ」
健三の言葉は勢い権柄(けんぺい)ずくであった。傷(きずつ)けられた細君の顔には不満の色がありありと見えた。
機嫌の直った時細君はまた健三に向った。――
「そう頭からがみがみいわないで、もっと解るようにいって聞かして下すったら好(い)いでしょう」
「解るようにいおうとすれば、理窟ばかり捏(こ)ね返すっていうじゃないか」
「だからもっと解りやすいように。私に解らないような小六(こむ)ずかしい理窟はやめにして」
「それじゃどうしたって説明しようがない。数字を使わずに算術を遣れと注文するのと同じ事だ」
「だって貴夫の理窟は、他(ひと)を捻(ね)じ伏せるために用いられるとより外に考えようのない事があるんですもの」
「御前の頭が悪いからそう思うんだ」
「私の頭も悪いかも知れませんけれども、中味のない空っぽの理窟で捻じ伏せられるのは嫌(きらい)ですよ」
二人はまた同じ輪の上をぐるぐる廻り始めた。
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夏目漱石 道草
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