夏目漱石 道草

九十三



 面と向って夫としっくり融け合う事の出来ない時、細君はやむをえず彼に背中を向けた。そうして其所(そこ)に寐(ね)ている子供を見た。彼女は思い出したように、すぐその子供を抱き上げた。



 章魚(たこ)のようにぐにゃぐにゃしている肉の塊りと彼女との間には、理窟の壁も分別の牆(かき)もなかった。自分の触れるものが取も直さず自分のような気がした。彼女は温かい心を赤ん坊の上に吐き掛けるために、唇を着けて所嫌わず接吻(せっぷん)した。



「貴夫(あなた)が私(わたくし)のものでなくっても、この子は私の物よ」



 彼女の態度からこうした精神が明らかに読まれた。



 その赤ん坊はまだ眼鼻立(めはなだち)さえ判明(はっきり)していなかった。頭には何時まで待っても殆(ほと)んど毛らしい毛が生えて来なかった。公平な眼から見ると、どうしても一個の怪物であった。



「変な子が出来たものだなあ」



 健三は正直な所をいった。



「どこの子だって生れたては皆なこの通りです」



「まさかそうでもなかろう。もう少しは整ったのも生れるはずだ」



「今に御覧なさい」



 細君はさも自信のあるような事をいった。健三には何という見当も付かなかった。けれども彼は細君がこの赤ん坊のために夜中(やちゅう)何度となく眼を覚ますのを知っていた。大事な睡眠を犠牲にして、少しも不愉快な顔を見せないのも承知していた。彼は子供に対する母親の愛情が父親のそれに比べてどの位強いかの疑問にさえ逢着(ほうちゃく)した。



 四、五日前少し強い地震のあった時、臆病(おくびょう)な彼はすぐ縁(えん)から庭へ飛び下りた。彼が再び座敷へ上(あが)って来た時、細君は思いも掛けない非難を彼の顔に投げ付けた。



「貴夫は不人情ね。自分一人好ければ構わない気なんだから」



 何故(なぜ)子供の安危(あんき)を自分より先に考えなかったかというのが細君の不平であった。咄嗟(とっさ)の衝動から起った自分の行為に対して、こんな批評を加えられようとは夢にも思っていなかった健三は驚ろいた。



「女にはああいう時でも子供の事が考えられるものかね」



「当り前ですわ」



 健三は自分が如何(いか)にも不人情のような気がした。



 しかし今の彼は我物顔に子供を抱いている細君を、かえって冷(ひやや)かに眺めた。



「訳の分らないものが、いくら束になったって仕様がない」



 しばらくすると彼の思索がもっと広い区域にわたって、現在から遠い未来に延びた。



「今にその子供が大きくなって、御前から離れて行く時期が来るに極(きま)っている。御前は己(おれ)と離れても、子供とさえ融け合って一つになっていれば、それで沢山だという気でいるらしいが、それは間違だ。今に見ろ」



 書斎に落付(おちつ)いた時、彼の感想がまた急に科学的色彩を帯び出した。



「芭蕉(ばしょう)に実が結(な)ると翌年(あくるとし)からその幹は枯れてしまう。竹も同じ事である。動物のうちには子を生むために生きているのか、死ぬために子を生むのか解らないものがいくらでもある。人間も緩漫ながらそれに準じた法則にやッぱり支配されている。母は一旦自分の所有するあらゆるものを犠牲にして子供に生を与えた以上、また余りのあらゆるものを犠牲にして、その生を守護しなければなるまい。彼女が天からそういう命令を受けてこの世に出たとするならば、その報酬として子供を独占するのは当り前だ。故意というよりも自然の現象だ」



 彼は母の立場をこう考え尽した後(あと)、父としての自分の立場をも考えた。そうしてそれが母の場合とどう違っているかに思い到(いた)った時、彼は心のうちでまた細君に向っていった。



「子供を有(も)った御前は仕合せである。しかしその仕合を享(う)ける前に御前は既に多大な犠牲を払っている。これから先も御前の気の付かない犠牲をどの位払うか分らない。御前は仕合せかも知れないが、実は気の毒なものだ」



     



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