夏目漱石 道草

九十七



 人通りの少ない町を歩いている間、彼は自分の事ばかり考えた。



「御前は必竟(ひっきょう)何をしに世の中に生れて来たのだ」



 彼の頭のどこかでこういう質問を彼に掛けるものがあった。彼はそれに答えたくなかった。なるべく返事を避けようとした。するとその声がなお彼を追窮し始めた。何遍でも同じ事を繰り返してやめなかった。彼は最後に叫んだ。



「分らない」



 その声は忽(たちま)ちせせら笑った。



「分らないのじゃあるまい。分っていても、其所(そこ)へ行けないのだろう。途中で引懸っているのだろう」



「己(おれ)のせいじゃない。己のせいじゃない」



 健三は逃げるようにずんずん歩いた。



 賑(にぎ)やかな通りへ来た時、迎年の支度に忙しい外界は驚異に近い新らしさを以て急に彼の眼を刺撃(しげき)した。彼の気分は漸(ようや)く変った。



 彼は客の注意を惹(ひ)くために、あらゆる手段を尽して飾り立てられた店頭(みせさき)を、それからそれと覗(のぞ)き込んで歩いた。或時は自分と全く交渉のない、珊瑚樹(さんごじゅ)の根懸(ねがけ)だの、蒔絵(まきえ)の櫛笄(くしこうがい)だのを、硝子越(ガラスごし)に何の意味もなく長い間眺めていた。



「暮になると世の中の人はきっと何か買うものかしら」



 少なくとも彼自身は何にも買わなかった。細君も殆(ほと)んど何にも買わないといってよかった。彼の兄、彼の姉、細君の父、どれを見ても、買えるような余裕のあるものは一人もなかった。みんな年を越すのに苦しんでいる連中(れんじゅう)ばかりであった。中にも細君の父は一番非道(ひど)そうに思われた。



「貴族院議員になってさえいれば、どこでも待ってくれるんだそうですけれども」



 借金取に責められている父の事情を夫に打ち明けたついでに、細君はかつてこんな事をいった。



 それは内閣の瓦解(がかい)した当時であった。細君の父を閑職から引っ張り出して、彼の辞職を余儀なくさせた人は、自分たちの退(しり)ぞく間際に、彼を貴族院議員に推挙して、幾分か彼に対する義理を立てようとした。しかし多数の候補者の中(うち)から、限られた人員を選ばなければならなかった総理大臣は、細君の父の名前の上に遠慮なく棒を引いてしまった。彼はついに選に洩(も)れた。何かの意味で保険の付いていない人にのみ酷薄であった債権者は直ちに彼の門に逼(せま)った。官邸を引き払った時に召仕(めしつかい)の数を減らした彼は、少時(しばら)くして自用俥(じようぐるま)を廃した。しまいにわが住宅を挙げて人手に渡した頃は、もうどうする事も出来なかった。日を重ね月を追って益(ますます)悲境に沈んで行った。



「相場に手を出したのが悪いんですよ」



 細君はこんな事もいった。



「御役人をしている間は相場師の方で儲(もう)けさせてくれるんですって。だから好(い)いけれども、一旦役を退(ひ)くと、もう相場師が構ってくれないから、みんな駄目になるんだそうです」



「何の事だか要領を得ないね。だいち意味さえ解らない」



「貴方(あなた)に解らなくったって、そうなら仕方がないじゃありませんか」



「何をいってるんだ。それじゃ相場師は決して損をしっこないものに極(きま)っちまうじゃないか。馬鹿な女だな」



 健三はその時細君と取り換わせた談話まで憶(おも)い出した。



 彼はふと気が付いた。彼と擦(す)れ違う人はみんな急ぎ足に行き過ぎた。みんな忙がしそうであった。みんな一定の目的を有(も)っているらしかった。それを一刻も早く片付けるために、せっせと活動するとしか思われなかった。



 或者はまるで彼の存在を認めなかった。或者は通り過ぎる時、ちょっと一瞥(いちべつ)を与えた。



「御前は馬鹿だよ」



 稀(まれ)にはこんな顔付をするものさえあった。



 彼はまた宅(うち)へ帰って赤い印気(インキ)を汚(きた)ない半紙へなすくり始めた。



     



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