フランツ・カフカ Franz Kafka 原田義人訳 審判 DER PROZESS


第八章 商人ブロック・弁護士の解約


 ついにKは、弁護士に自分の代理をさせることをやめる決心をした。こういうふうに振舞うことが果して正しいだろうか、という疑念は根絶できなかったが、それが必要であるという確信が勝ちを占めた。弁護士のところへ行こうという日になって、その決心は彼から仕事する能力を大いに奪い、ことに遅い仕事の運びのため、きわめて遅くまで事務室に居残らなければならず、やっと弁護士の扉(とびら)の前に立ったときは、もう十時を過ぎていた。ベルを鳴らす前に、電報か手紙で解約するほうがよくはないか、面談するとなるときっと非常につらいだろう、と考えてみた。それでもKはついに面談をやめようとは思わなかった。ほかの形で解約すれば、それはただ黙ってか、あるいはごくわずかな形式的な言葉で受入れられるだろうし、レーニにいくらかでも探ってもらわなければ、弁護士がどうやってこの解約を受取ったか、またまんざらつまらぬものでもない弁護士の意見によれば、この解約がどんな結果を生じるか、知りようがなかったからである。ところが弁護士がKに向い合ってすわって解約を不意に聞くとなれば、たとい弁護士がたいして心中を打明けなくとも、その顔つきや態度から自分の欲するすべてのことを容易に推量することができるだろう。さらに、弁護士に弁護をまかせ、自分の解約を引下げるほうがよいと確信させられる場合もないとは言えなかった。
 弁護士の扉のベルを鳴らしても、最初は例のごとくむなしかった。
「レーニのやつ、もっと早くできようものを」と、Kは考えた。それでも、寝巻姿の男かあるいはほかの誰かが自分をわずらわすことになるのであれ、いつものようにほかの依頼人がはいりこむのでなければ、それだけでもまだましだった。Kは二度目にボタンを押しながらもうひとつの扉を振向いてみると、今日はこれもしまったままだった。ついに弁護士の扉ののぞき窓に二つの眼が現われたが、レーニの眼ではなかった。誰かが扉をあけたが、しばらくはまだ扉を押えていて、居間のほうに向って叫んだ。
「あの人だよ!」
 そして、それからやっと完全にあけた。Kは、その背後のほかの居間の扉で鍵(かぎ)があわててしめられるのを聞きつけたので、扉にぶつかっていった。そこで扉がついにあくと、まっすぐに控室に飛びこみ、部屋のあいだに通じている廊下をレーニが下着姿で逃げてゆく有様を見た。扉をあけた男の警告が向けられたのは、彼女にだったのだ。しばらくその後ろ姿を見ていたが、やがて戸をあけた男のほうに向き直った。顎(あご)も頬(ほお)もひげ一面の小柄な痩(や)せた男で、手に蝋燭(ろうそく)を持っていた。
「ここに雇われているんですか?」と、Kはきいた。
「いや」と、男は答えた。「この家の者ではありません。弁護士さんは私の代理人でして、ある法律問題のためにここに来ているんです」
「上着も着ておられませんが?」と、Kはきき、手振りでその男のしどけない身なりを指さした。
「ああ、お許しください!」と、男は言い、彼自身初めて自分の格好をながめるように、蝋燭で自分を照らした。
「レーニはあなたの恋人ですか?」と、Kは手短かにきいた。両脚を少し開き、帽子を持った両手を背後で組んでいた。頑丈(がんじょう)な外套(がいとう)を着ているだけで、この痩せた小男には大いに優越しているように感じられた。
「とんでもないことです」と、相手は言い、驚いて身を守るように手を顔の前にあげた。「どうして、どうして、いったい何を考えておられるんですか?」
「まあ信用しておきましょう」と、Kはにやにやしながら言った。「それはそうとして――いらっしゃい」
 彼は帽子で男に合図をし、先に立ってゆかせた。
「なんというお名前ですか?」と、歩きながらKはきいた。
「ブロック、商人のブロックです」と、小男は言い、こう名乗りながらKのほうに向き直ったが、Kは相手を立ち止らせてはおかなかった。
「ほんとうのお名前ですか?」と、Kはきいた。
「そうですとも」というのが返事だった。「どうしてお疑(うたぐ)りになるんですか?」
「お名前をお隠しになる理由がおありだろうと思いましたんでね」と、Kは言った。
 彼はきわめて自由な気分だったが、こんなふうになれるのは、普通ならばただ、見知らぬ土地で卑しい連中と話していて、自分自身に関することはいっさい自分の胸に納めておき、ただ落着きはらって他人の利害のことをしゃべり、それによって相手をおだて上げたり、また思いのままに突き落すことができるときにだけやれることである。弁護士の事務室の扉のところでは立ち止り、扉をあけ、おとなしくついてきた商人に向って叫んだ。
「そんなに急がないでください! ここを照らしてくれませんか?」
 Kは、レーニがこの部屋に隠れていまいかと思い、商人に隅々(すみずみ)まで捜させたが、部屋はからっぽだった。裁判官の絵の前でKは、商人の後ろからズボンつりをつかんで押しとどめた。
「あれを知っていますか?」と、彼はきき、人差指で高いところを示した。
 商人は蝋燭を掲げ、眼をぱちくりさせながら見上げて、言った。
「裁判官です」
「位の高い裁判官ですか?」と、Kはきき、その絵が商人に与えた印象を観察するため、商人の側にまわった。商人は感嘆しながら見上げていた。
「位の高い裁判官ですね」と、彼は言った。
「あなたもたいして眼がきかないですね」と、Kは言った。「位の低い予審判事のうちでもいちばん低いやつですよ」
「ああ、思い出しました」と、商人は言い、蝋燭を下げ、「私もそんなことを聞きましたっけ」
「そりゃあもちろんね」と、Kは叫んだ。「すっかり忘れていました、もちろんあなたもお聞きになっているにちがいありませんね」
「だが、なぜもちろんなんですか、いったいなぜ?」と、Kに両手で追い立てられて扉のところまで動いてゆきながら、商人はきいた。廊下に出て、Kは言った。
「どこにレーニが隠れているかご存じでしょう?」
「隠れているですって?」と商人は言った。「そんなことはわかりませんが、台所に行って、弁護士さんにスープをつくっているのでしょう」
「なぜすぐおっしゃってくださらないのです?」と、Kがきいた。
「あなたをお連れしようと思ったのに、私のことを呼びもどされたものですから」と、矛盾する命令に混乱させられてしまったように商人は答えた。
「きっとうまくやったと思っているんでしょう」と、Kは言った。「とにかく連れていってください!」
 台所にKは行ったことはなかったが、驚くほど大きく、設備が整っていた。炉だけでも普通の炉の三倍も大きかったが、入口のところにかかっている小さなランプだけで台所が照らされているので、ほかのものは細かなところがわからなかった。炉のそばにレーニは例のごとく白いエプロン姿で立ち、アルコールランプの上にかかっている鍋(なべ)に卵を流しこんでいた。
「今晩は、ヨーゼフ」と、横眼を使いながら彼女は言った。
「今晩は」と、Kは言い、片手でわきにある椅子を示し、商人にすわるように合図をすると、彼は言われるままにすわった。だがKはレーニのすぐ後ろに行き、肩の上に身をかがめ、きいた。「あの男は誰なの?」
 レーニは片手でKを抱き、もう片方の手でスープをかきまぜながら、彼を引きつけて、言った。
「ブロックっていう、かわいそうな人で、貧弱な商人なのよ。まああの人を見てごらんなさい」
 二人は振返った。商人はKに示された椅子にすわり、もう要(い)らなくなった蝋燭の光を吹き消し、煙を防ごうと指で燈心を押えていた。
「君は下着姿だったぜ」と、Kは言い、手で女の頭をまた炉のほうに向けた。女は黙っていた。
「恋人なのかい?」と、Kがきいた。女はスープ鍋をつかもうとしたが、Kはその両手を取って、言った。
「返事をするんだ!」
「事務室へいらっしゃいよ、みんなお話ししてあげるわ」と、女は言った。
「いや」と、Kは言った。「ここで話してもらいたいね」
 女は彼にしがみつき、接吻(せっぷん)しようとした。だがKはそれを払いのけると、言った。
「今、接吻なんかしてもらいたくはない」
「ヨーゼフ」と、レーニは言い、懇願するようにだが真っ向からKの眼を見た。「ブロックにやきもちなんか焼いちゃいけないわ。――ルーディ」と、商人のほうを向いて言うのだった、「あたしを助けてちょうだい。ねえ、あたし疑られているのよ、蝋燭なんか置いて」
 商人は気をつけていなかったと思われるのだったが、まったくよく事情をのみこんでいた。
「なぜあなたがやきもちなんか焼くのか、私にもわかりませんね」と、ほとんど刃向う様子もなく言った。
「私にもほんとうはわかりませんよ」と、Kは言い、微笑しながら商人を見つめた。
 レーニは高笑いして、Kが気がつかないでいるのを利用して、彼の腕の中にはいりこみ、ささやいた。
「もうあんな人放っておきなさいな。どんな人かごらんになったでしょう。あたしが少しあの人の面倒をみるのは、弁護士の大顧客(おおとくい)だからで、ほかの理由なんかないわ。ところであなたは? 今日弁護士さんとお話しになるつもり? 今日はたいへんおわるいんだけれど、もし会いたいというんなら、取次ぎますわ。でも今晩はずっとあたしのところにいてよ、ねえいいでしょう。もうずっとここにはいらっしゃらないんだもの。弁護士さんさえあなたのことをきいたわ。訴訟のことを粗末にしちゃだめよ。あたしも、聞いたことをいろいろお話しするわよ。でもまず最初に外套(がいとう)をお脱ぎなさいってば!」
 彼が外套を脱ぐのを助け、彼から帽子を取上げ、それを持って控室に駆けてゆき、駆けてくると、スープを見た。
「あなたのことを先に取次ごうかしら、それとも先にスープを弁護士さんのところへ持ってゆこうかしら?」
「まず取次いでくれたまえ」と、Kは言った。
 彼は腹をたてていた。ほんとうは、自分のこと、ことに疑問がある解約のことをレーニと詳しく相談しようと思っていたのだったが、商人がいるのでそんなことをする気がなくなってしまった。しかし、こんな微々たる商人にすっかり邪魔にはいられるにはあまりに自分の問題は重要なように思われたので、もう廊下に出ていたレーニを呼びもどした。
「やっぱりまずスープを持っていってくれたまえ」と、彼は言った。「僕と話すためにも元気をつけておかなきゃいけないし、きっとほしいんだろう」
「あなたも弁護士さんの依頼人でいらっしゃるんですね」と、確かめるように商人は部屋の隅から小声で言った、だが、それはKによくは取られなかった。
「あなたとなんの関係があるんです?」と、Kが言うと、レーニも言った。
「あんたは黙っていらっしゃい。――じゃ、最初にスープを持ってゆくわ」と、レーニはKに言い、スープを皿に注(つ)いだ。「でも心配だわ、すぐ眠ってしまうのよ。食事がすむと、すぐ眠ってしまうの」
「僕があの人に言うことを聞いてくれれば、眠りはしないさ」と、Kは言い、何か重大なことを弁護士と折衝するつもりであることを見抜かせようとし、いったい何なのか、レーニにたずねさせ、そこで初めて彼女の助言を求めようと思った。ところが女は、ただ言われた命令をきちんと果しただけだった。盆を持って彼のそばを通り過ぎるとき、故意に軽く彼にぶつかり、ささやいた。
「スープを飲み終ったら、できるだけ早くあなたを取返せるように、あなたのことを取次ぐわ」
「行きたまえ」と、Kは言った。「行きたまえ」
「もっと親切にするものよ」と、女は言い、盆を持ったまま扉のところでもう一度、すっかりこちらを向いた。
 Kは女の後ろ姿を見送った。弁護士を断わるという決心が、今は最後的にきまった。あらかじめレーニとそれについて話すことがもうできなかったことも、きっとかえってよかっただろう。女には事柄の全体に対する十分な見通しがほとんどついていないので、きっとやめるようにすすめたことだろうし、おそらくはKも今回はほんとうに解約を思いとどまったことだろう。そして依然として疑惑と不安とにとどまることになり、しかもこの決心はあまりに動かせないものなので、結局はしばらくしてこの決心を実行することになっただろう。しかし、決心が実行されるのが早ければ早いほど、損害は避けられるわけだった。ところで商人もおそらくそれについて何か意見があるかもしれない。
 Kは振返ったが、商人はそれに気づくやいなや、すぐ立ち上がろうとした。
「どうかそのままにしてください」と、Kは言い、椅子をひとつ商人のそばに置いた。
「ずっと前から弁護士さんに依頼なすっていらっしゃるんですか?」と、Kはきいた。
「そうです」と、商人は言った。「古くからの依頼人です」
「何年ぐらい、あの人に弁護をやってもらっているんです?」と、Kはきいた。
「どういう意味かわかりかねますが」と、商人は言った。「商売上の法律事件では――私は穀物商をやっていますんで――あの弁護士さんに、商売を始めたときから弁護をやってもらっています。それでおよそ二十年来のことですが、私自身の訴訟のほうは、あなたはきっとこちらのことをおっしゃっているんでしょうが、やっぱり初めからのことで、もう五年以上にもなります。そうです、五年はたっぷり越えました」
 そして古い紙入れを取出して、言葉を続けた。
「ここに全部書きつけてあります。お望みなら、はっきりした日付を申上げましょう。全部が全部覚えていることはむずかしいですからね。私の訴訟はどうももっと前から続いています。妻が死んですぐ始まったのですからね。で、もう五年以上にもなります」
 Kは商人のほうに寄っていった。
「それじゃあ、弁護士さんは普通の法律事件も引受けるんですか?」と、彼はきいた。裁判所と法律学とがこういうふうに結びついているということは、Kには非常に安心に思われた。
「こういう法律事件でのほうがほかの事件でよりも有能だとさえ言われています」しかし、言ったことを後悔しているらしく、片手をKの肩に置いて、言った。
「どうか私の言ったことは内密にお願いします」
 Kは安心させるように男の腿(もも)をたたいて、言った。
「いや、私は裏切り者じゃないですから大丈夫ですよ」
「つまりあの人は執念深いもんですからねえ」と、商人は言った。
「でも、あなたのような忠実な依頼人には、あの人もきっと変なまねはしないでしょう」と、Kは言った。
「とんでもない」と、商人は言った。「興奮すると見境がありませんし、それに私もほんとうはあの人に忠実なわけでもないんでしてね」
「どうしてなんですか?」と、Kはきいた。
「そのことをあなたにお話ししなくちゃいけませんか?」と、商人は思い惑うように言った。
「してくださってもかまわないでしょう」と、Kは言った。
「それでは」と、商人は言った。「一部だけ申上げますが、私たち二人が弁護士に対して何も言わないという約束をしっかりと守るように、あなたも私に秘密なことを打明けてくださるんですよ」
「あなたはたいへん用心深いな」と、Kは言った。「だが、あなたを完全に安心させるにちがいない秘密をひとつ申上げましょう。ところで、弁護士に対するあなたの不実というのはいったいどういうことです?」
「実は」と、商人はためらいながら、何か面目ないことを白状するような調子で言った。「あの人のほかにほかの弁護士たちもいるんです」
「そんなことなら、たいしてわるいことじゃありませんよ」と、少しがっかりして、Kは言った。
「ところがここじゃあ」と、白状しはじめてから苦しそうな息をついた商人は、Kの言葉でいっそううちとけて、言った。「それが許されないんです。そして、いわゆる弁護士のほかに三百代言を頼むことはことに許されていません。ところがまさにそのことを私はやっているんで、三百代言が五人いるんです」
「五人ですか!」と、Kは叫んだが、まずこの数に驚かされたのだった、「このほかに弁護士を五人もですか?」
 商人はうなずいた。
「今ちょうど六人目と交渉中なんです」
「だが、どうしてそんなにたくさん弁護士が要(い)るんです?」と、Kはきいた。
「みな要るんです」と、商人は言った。
「そのわけを説明してくれませんか?」と、Kがきいた。
「いいですとも」と、商人は言った。「まず、訴訟に敗(ま)けたくないからです。これはむろんのことです、そのためには、利用できるものはなんでも見逃すわけにはゆきません。ある場合、役にたつ見込みがまったく少ないときでも、投げてしまうわけにはゆきません。それゆえ私は、自分の持っているものをみな訴訟につかってしまいました。たとえば、商売から金を全部注(つ)ぎ込みましたし、前には私の店の事務室はある建物のほとんど一階全部にまたがっていたのですが、今では裏のほうの小さな部屋ひとつで十分で、そこで小僧と二人きりで働いているようなわけです。こうさびれた原因となったものは、もちろん、金の蕩尽(とうじん)ばかりでなく、むしろ仕事の精力の蕩尽なのです。訴訟のために何かをやろうとすれば、ほかのことには、ほんの少ししかかかわってはいられませんからね」
「それじゃあなたご自身も裁判所で仕事をやられるんですか?」と、Kはきいた。「まさにそのことについて伺いたいものです」
「その点については、ほとんどお話しすることがありません」と、商人は言った。「初めのうちは確かにそうもしようとしたのですが、すぐやめにしてしまいました。あまりに疲れて、たいして効果がないんです。裁判所で自分で仕事をやり、交渉をやることは、少なくとも私には全然できないことだとわかりました。そこではただすわって待つことだけで、たいへんな骨折り仕事です。あなたご自身も、事務局のあの重苦しい空気はご存じのはずですね」
「僕が事務局に行ったということを、どうして知っているんですか?」と、Kはきいた。
「あなたが通ってゆかれたとき、ちょうど待合室にいたんです」
「なんという偶然でしょう!」と、すっかり夢中になり、これまでの商人の滑稽(こっけい)さも忘れて、Kは叫んだ。「それじゃあ私をごらんになったわけだ! 私が通っていったとき、あなたは待合室におられたのですね。そう、一度通ったことが確かにあります」
「たいした偶然じゃありませんよ」と、商人は言った。「私はほとんど毎日のようにあそこにいるんですから」
「私もこれからおそらくしばしば行かなきゃなりませんが」と、Kは言った。「きっともうあのときほどうやうやしく迎えられることはないでしょうね。みなが起立しましたからねえ。きっと、私のことを裁判官だと思ったのでしょう」
「いや」と、商人は言った。「あのときは廷丁に挨拶(あいさつ)したのですよ。あなたが被告だということは、私たちは知っていました。こんな噂(うわさ)はすぐ広まりますからね」
「じゃあ知っていたんですね。だがそうなると、私の態度はきっと傲慢(ごうまん)に見えたことでしたろう。そのことをとやかく言ってはいませんでしたか?」
「いや」と、商人は言った。「それどころか。でもつまらぬことですよ」
「つまらぬことって、どんなことです?」と、Kがきいた。
「なぜそんなことをおききになるんですか?」と、商人は腹立たしげに言った。「あなたはあそこの連中のことをよくはご存じでないらしく、おそらく事情を誤解していらっしゃるのでしょう。あなたはよくお考えにならなけりゃなりませんが、この手続きではしょっちゅういろいろな事柄が口の端(は)に上りますが、そんなことはもう常識で間に合うものではなく、誰もがただ疲れ果て、いろんなことに気をそらされていて、その穴埋めに迷信に没頭することになるんですよ。他人のことを言っているわけですが、私自身だってたいしてまともじゃありません。こんな迷信のひとつは、たとえば、多くの人たちが被告の顔、ことに唇(くちびる)の格好から、訴訟の成行きを読み取ろうとすることです。そこでこの連中は、あなたの唇の格好から判断すると、きっとすぐにあなたに有罪の判決が下されるだろう、と主張していました。繰返して申上げますが、ばかばかしい迷信でして、たいていの場合は事実とも完全に相反するのですが、あんな仲間の中にいると、こんな考えからなかなか脱けられないのです。まあ思ってもごらんなさい、こうした迷信は激しい力を持っているのですよ。あなたはあそこで一人の男に言葉をおかけになりましたね? ところがその男はあなたにはほとんど一言も答えられなかった。そりゃあ、あそこでは頭が混乱するたくさんの理由がありますが、ひとつにはあなたの唇を見たこともそれなんです。あの男が後(あと)で話してくれたところでは、あなたの口の上にあの男自身の有罪判決を見たように思ったということです」
「私の唇ですか?」と、Kはきき、懐中鏡を取出して、じっと見た。「私の唇に別に変ったところは見えませんけれどね。で、あなたはどうですか?」
「私もそう思いますね」と、商人は言った。「全然そんなことはありませんよ」
「あの連中はなんて迷信深いんでしょう!」と、Kは叫んだ。
「だからそう申上げたでしょう?」と、商人がきいた。
「いったいあの人たちはそんなに行き来をし、意見を交換し合っているんですか?」と、Kは言った。「私はこれまで全然仲間からはずれていましたよ」
「一般には互いに行き来してはいません」と、商人は言った、「それはできないでしょう、なにしろ人数が多いですからね。それに共通の利害もほとんどないんです。ときどきはあるグループで共通の利害という信念が浮び出ることもあるんですが、すぐに間違いだということがわかってしまいます。裁判所に対して共同でやられることなど、何もありません。各事件も単独に調べられ、まったく慎重きわまる裁判所というものですよ。それで共同で何もやることはできないんです。ただ個人が何かこっそりうまくやったことはときどきあります。それが成功したときにやっとほかの人々が聞くというわけですから、どういうふうにしてやられたか誰にもわかりません。それで共同一致ということはなく、待合室のあちこちで寄り合うことがあっても、そこで相談はほとんどされていません。迷信深い考えというのは昔からあって、確かにおのずとふえています」
「あの待合室に待っている人たちを見ましたが」と、Kは言った。「まったく無益なことに思われましたよ」
「待つことは無益じゃありません」と、商人は言った。「無益なのは自分だけで手出しをすることです。すでに申上げたように、私は今、この弁護士のほかに五人頼んでいます。彼らに事を完全にまかせることができるだろうと、人は思うでしょう。私自身からして初めはそう思いました。しかし、それはまったく間違っているんです。ただ一人に頼んでいるときよりもまかしておけないくらいです。このことはおわかりでないでしょう?」
「ええ」と、Kは言い、商人があまり早くしゃべるのを妨げるために、なだめるように自分の手を相手の手の上に置いた。「どうかもっとゆっくりお話ししてください。どれもみな私にとって大切な事柄ですが、どうもあなたのお話についてゆけません」
「それをおっしゃってくだすって結構でした」と、商人は言った。「で、あなたはまだ新米で、末輩です。あなたの訴訟は半年ばかりでしたね? そう、そのことは伺いました。そんなに新しい訴訟だなんて! ところが私はこうした事柄をもう数限りなく考え抜いてきましたので、世の中でいちばんわかりきったことなんですよ」
「あなたの訴訟がもうそんなに進んでいるのを、きっとよろこんでおられるでしょう?」と、Kはきいたが、商人の事件がどういう状態にあるのかあけすけにたずねようとは思わなかった。ところが相手からも、はっきりした返事は得られなかった。
「そうです、訴訟は五年間もころがしてきました」と、商人は言い、頭を垂れた。「簡単な仕事じゃありませんよ」
 それからしばらく黙った。Kは、レーニがもう来ないか、と耳を澄ました。一面では、彼女が来なければと思った。まだまだ聞きたいことはあるし、商人とこうしてうちとけて話しているときレーニに邪魔されたくはなかったからである。だがその反面、自分が来ているのにこんなに長く弁護士のところにいることに腹をたて、スープを持ってゆくだけならこんなに長くかかるわけはない、と思った。
「私は今でもまだ」と、商人がまたしゃべりはじめたので、Kはすぐ注意を集中した。「私の訴訟が今のあなたのと同じように新しかったときのことを覚えています。あのときはここの弁護士さんだけでしたが、大いに安心していたわけじゃなかったんです」
 これでなんでも聞きこめるぞ、とKは考え、勢いよくうなずいたが、それによって商人をけしかけて、知る値打ちのあることをなんでも言わせることができる、というような様子だった。
「私の訴訟は」と、商人は続けた。「さっぱり進みませんでした。それでも審理は行われ、私もそのたびごとに出向き、材料を集め、帳簿を全部裁判所に提出しましたが、これは後で聞いたところによると、全然必要じゃなかったそうです。しょっちゅう弁護士さんのところへ行き、弁護士さんもいろいろな願書を出してくれました――」
「いろいろな願書ですって?」と、Kはきいた。
「そうです」と、商人が言った。
「それは私には大切なことです」と、Kは言った。「私の事件の場合、あの人は今でもまだ最初の願書を書いてばかりいるんです。まだ何もやってはいません。これでわかりましたが、あの人は破廉恥にも私のことを無視しているんだ」
「願書がまだ完成しないということは、きっといろいろ理由があるんでしょう」と、商人は言った。「ところで、私の願書がまったく値打ちのないものだということが、後になってわかりました。ある裁判所の役人の親切でそのひとつを自分で読んだことさえあります。それは大いに学者ぶったものでしたが、ほんとうは中身がからっぽでした。まず、私にはわからないひどくたくさんのラテン語、次に数ページにわたる裁判所に対する一般的な嘆願、それから、はっきり名前はあげてはないが事情に通じた者ならかならずわかるにちがいない一人一人の役人に対するお世辞文句、それから次に、まさしく犬のように裁判所にへりくだっている調子の弁護士の自賛、そして最後に、私のと似てるという以前の法律事件の吟味、というわけです。これらの吟味は、もちろん、私がたどれたかぎりでは、きわめて慎重にできていました。こうしたことで弁護士の仕事に判断を下そうとは思いませんし、私が読んだ願書もたくさんのもののうちのひとつでしかなかったわけですが、ともかく当時訴訟になんらの発展が見られなかったということだけは、今申上げておきたいと思います」
「それじゃ、どんな発展を望まれたんですか?」と、Kはきいた。
「おたずねはごもっともです」と、商人は微笑しながら言った。「この手続きでは発展はほんのまれにしか望めないんです。ところがその当時はこのことが私にはわかっていませんでした。私は商人ですが、当時は今よりもっとずっと商人でしたので、はっきりとした発展というものがほしくて、全体が結末に近づくとか、あるいは少なくとも規則正しく上昇の経過をたどるとかしてもらいたかったのです。ところがそうはゆかずに、あるものはただ、たいてい同じ内容を持つ尋問ばかりでした。返答はもうまるで連祷(れんとう)の文句みたいに覚えこんでしまいました。週に何回も裁判所の使いが、店や、住居や、そのほか私に出会えるどこにでもやってきます。それはもちろんわずらわしいことでした。(今では少なくともこの点、ずっとよくなりました。電話の呼び出しですからずっと面倒がありませんのでね)そして、私の商売仲間や特に親戚(しんせき)のあいだでは私の訴訟の噂(うわさ)が広まりはじめますし、そのためあらゆる方面からの中傷が起りましたが、最初の審理が近く行われるだろうという徴候さえもさっぱり見えません。そこで弁護士さんのところへ行き、苦情を言いました。すると長々と言い訳を聞かせてくれはしたのですが、私の思うようなことを何かやるということはきっぱりと拒絶し、審理日の確定を左右する力はなにびとも持たない、願書でそのことをしつっこく迫るのは――私はそれを要求したわけですが――まったく前代未聞(みもん)のことだし、そんなことをしたら私もあの人も破滅してしまうだろう、と言うのでした。この弁護士がしようとしないのか、あるいはできないのかのいずれかで、ほかの人ならしてくれる気にもなろうし、またできもしよう、と考えました。そこでほかの弁護士を物色してみました。ところが、私は少し先まわりして申上げますが、それからの弁護士は一人として本審理の日限の確定を要求しませんし、やってもくれませんでした。それはもちろん、これから申上げようと思いますが、ある条件のためにできないことです。それゆえ、この点についてはここの弁護士さんの言うことはまんざら嘘(うそ)じゃなかったわけです。ところで、ほかの弁護士たちに頼んだことは、私は少しも残念に思うことはありませんでした。あなたもきっとフルト博士からとっくに三百代言についてさまざまなことをお聞きでしょうし、たぶん彼らのことを非常に軽蔑(けいべつ)して言ったことでしょうが、それは確かにほんとうのことです。もっとも、博士が三百代言たちのことを語って自分や自分の同僚たちのことを彼らと比較するときはいつでも、ある誤謬(ごびゅう)がはいりこむんでして、ついでにこのことをあなたにご注意申上げておこうと思います。つまり博士はそういうときに、しょっちゅう自分の仲間の弁護士を区別するため、『大弁護士』と呼びます。これが間違いで、もちろん誰でも気に入るなら自分を『大』と称することはできますが、この場合に決定力を持っているのはただ裁判所の慣習だけのはずです。それによると、三百代言のほかにさらに大小の弁護士があるんです。しかし、ここの弁護士さんとその仲間の人たちは小弁護士にすぎず、大弁護士というのは私はただ噂に聞いただけで一度も見たことがありませんが、小弁護士があの軽蔑されている三百代言たちの上にあるのと比較にならないくらい、小弁護士よりも高いところにいるんです」
「大弁護士ですね?」と、Kはきいた。「いったいどういう人たちなんですか? どうしたら会えるんですか?」
「ははあ、あなたはまだ彼らのことをお聞きになっていないんですね」と、商人は言った。「彼らのことを聞かされたあとで、しばらく彼らのことを夢に見ないような被告というのは一人もありません。だがあなたは、むしろそんな誘惑にかかってはなりません。大弁護士が何者かは、私は知りませんし、彼らのところへ近づくことはきっと誰にもできないのです。彼らが手がけたとはっきり言えるような事件を、私は知りません。かなりの被告を弁護はするんですが、被告の意志ではどうにもならないし、彼らが弁護しようと思う者たちだけを弁護するんです。だが、彼らが引受ける事件というのは、きっと下級裁判所を超(こ)えたものにちがいありません。ともかく、彼らのことを考えないほうがよいでしょう。そうでないとほかの弁護士との話や彼らの忠告や尽力というものがきわめていとわしく、無益なものと思われるからです。いっさい投げ出してしまって、家でベッドに寝ころび、何も聞かないでいるのがいちばんいいと思うようになるっていうことは、私自身経験ずみです。しかし、これもまたもちろんばかげたことでして、ベッドに寝ていていつまでも安閑とできるもんじゃありません」
「それじゃあ、あなたはその当時大弁護士のことは考えなかったんですか?」と、Kはきいた。
「長くは考えませんでしたが」と、商人は言い、また薄笑いした。「残念ながらすっかり忘れることはできませんし、ことに夜にはこんな考えがとかく浮んできましてね。しかし、当時私は即効をあげることを望みましたんで、三百代言のところへ行ったんです」
「まあ、こんなところにくっついてすわって!」と、盆を手にしてもどってきて、扉のところに立ったレーニが、言った。
 確かに二人はひどくくっついてすわり、少し身体(からだ)の向きを変えても頭をぶっつけ合ったにちがいなく、もともと小柄なところへもってきて背中を曲げている商人は、Kにも、すべてを聞き取ろうとすると、身体を深くかがめさせるのだった。
「もう少し待って!」と、Kはレーニに拒むように叫び返したが、まだ依然として商人の手の上に置いていた手を、いらだたしそうにぴくぴくさせた。
「この方が私の訴訟の話を聞こうとおっしゃるんだよ」と、商人はレーニに言った。
「さあお話しなさい、お話しなさい」と、女は言った。女は商人と愛情をこめて話すが、また見下げた様子が見られ、これがKの気にさわった。今ではわかったのだが、この男はやはりある値打ちがあるし、少なくも経験を持ち合せており、それをうまく話すことができるのだ。レーニはどうもこの男を不当に判断している、そう思った。彼は、商人が長いあいだしっかと持っていた蝋燭(ろうそく)をレーニが商人の手から取上げ、エプロンで手をふいてやり、蝋燭からズボンに垂(た)れたいくらかの蝋をかき取ってやるため商人のそばにひざまずくさまを、腹だたしげに見ていた。
「三百代言のことをおっしゃってくださろうとしたところでしたね」と、Kは言い、それ以上何も言わずに、レーニの手を押しやった。
「何をするのよ?」と、レーニはきき、軽くKをたたき、蝋を落す仕事を続けた。
「そうです、三百代言のことでした」と、商人は言い、考えこむように額に手をやった。Kは助け舟を出そうとして、言った。
「あなたは即効をあげようと思われ、三百代言のところへ行かれたのです」
「そう、そのとおりでしたね」と、商人は言ったが、話を続けなかった。
「きっとレーニの前ではそのことを言いたくないんだな」と、Kは思って、先をすぐ今聞きたいといういらだたしさを抑(おさ)え、もうこれ以上催促はしなかった。
「僕のことは通じてくれた?」と、彼はレーニに言った。
「もちろんよ」と、女は言った。「あなたのことをお待ちかねよ。もうブロックはやめにしなさいな。ブロックはまだここにいますから後(あと)でもお話できてよ」
 彼はまだ躊躇(ちゅうちょ)した。
「ここにいらっしゃいますか?」と、商人にきいたが、商人自身の返事が聞きたく、レーニが商人のことをまるでいない者のように言うのが気に入らず、今日はレーニに対して心ひそかに大いに腹をたてていた。ところがまた、レーニが返答しただけだった。
「この人はここによく泊るのよ」
「ここに泊るって?」と、Kは叫んだ。商人には自分が弁護士との話を手早く片づけるあいだだけ待ってもらうが、すんだらいっしょに出かけて、すべてを徹底的に、誰にも邪魔されずに語り合うつもりだった。
「そうよ」と、レーニは言った。「誰でもあなたみたいに好きなときにやってきて、弁護士さんに会わせてもらえはしないわ、ヨーゼフ。弁護士さんが病気なのに、夜の十一時にもなって会ってくださるのを、あなたってば全然ありがたいとも思っていないようね。あなたのためにお友達がやってくれることを、まるで当り前のことだぐらいにしか考えていないのね。でもあなたのお友達、少なくともあたしは、よろこんでやってあげてよ。なんにもお礼なんか要らないわ、ただあたしをかわいがってくれればそれでいいの」
「お前をかわいがるって?」と、Kは最初の瞬間に考えたが、それから次に頭の中をかすめる考えがあった。「そうだ、実際おれはこの女を愛しているのだ」それにもかかわらず、彼はほかのことをいっさい無視して、言った。
「私は依頼人だから、会ってくれるのは当り前さ。もし会ってもらうためにも他人の助力が必要だというなら、一歩行くごとにしょっちゅう乞食(こじき)のように頼んだり、ありがとうを言ったりしなくちゃならないだろうよ」
「この人ったら今日はなんて機嫌(きげん)がわるいんでしょう、ねえ?」と、レーニは商人にきいた。
「今度はおれがいないも同然だ」と、Kは思い、商人がレーニの不躾(ぶしつけ)を引取って次のように言ったとき、ほとんど商人に対してさえ気をわるくしていた。
「弁護士さんがこの方を迎えるのにはほかのいろいろな理由があるんだよ。つまり、この方の事件は私のよりも興味があるんだ。そのうえ、この方の訴訟は始まったばかりで、したがって手続きもたいして進行はしていないらしいから、弁護士さんはまだよろこんでこの方のことにかかりあっているんだ。けれども後ではきっと変ってくるよ」
「そう、そうね」と、レーニは言い、高笑いしながら商人を見た。「この人はなんておしゃべりなんでしょう! あなたはこの人のことなんか」と、ここで女はKに向った。「少しでも信用しちゃだめよ。いい人なんだけれど、おしゃべりなの。おそらくそのために弁護士さんもこの人のこと我慢ができないのよ。ともかく、気が向かなければこの人なんかに会わないわ。そんなことやめさせようって、あたしもずいぶん骨を折ったけれど、できないのよ。いい、何度もブロックが来たってお伝えするのに、三日目になってやっと会うような始末なの。でも呼ばれたちょうどそのときにブロックがその場にいないと、みんなだめになり、また改めてお伝えしなけりゃならないのよ。それであたしはブロックにここに泊ることを許してあげたの。弁護士さんが夜中でもこの人のことを呼ぼうとベルを鳴らすことも、これまでにあったことだわ。それで今ではブロックは夜中でも用意しているの。もちろん今度はまたブロックがいるってことがわかると、弁護士さんはこの方をお通ししてくれって頼んだことをときどきやめにしてしまうこともあるわ」
 Kは、問いかけるように商人のほうを見た。商人はうなずき、さっきKと話し合っていたのと同じように率直に言ったが、羞恥(しゅうち)のためにおそらく混乱しているのだった。
「そう、あなたもそのうち弁護士さんの言うことをよく聞くようになりますよ」
「この人はただ見せかけに苦情を言っているのよ」と、レーニは言った。「ここに泊るのはうれしいって、あたしにもう何べんも白状したわ」
 彼女は小さな扉のところへ行き、それを押しあけた。
「あなたこの人の寝室をごらんになる?」と、女はきいた。
 Kはそちらへ出かけ、敷居のところから、幅の狭いベッド一つでいっぱいになっている天井の低い、窓のない部屋をのぞきこんだ。このベッドに乗るにはベッドの枠柱(わくばしら)を越えなくてはならないはずだった。ベッドの枕もとには壁の中にくぼみがあって、そこには、一本の蝋燭、インク壺(つぼ)、ペンおよび訴訟文書らしい一束の紙が、ひどくきちんと置いてあった。
「女中部屋でお休みになるんですね?」と、Kはきき、商人のほうを振返った。
「レーニが空(あ)けてくれたんですよ」と、商人が答えた。「とても便利ですよ」
 Kは長く商人の顔を見つめていた。彼が商人から受けた第一印象は、おそらく正しかったのだ。訴訟がもう長いあいだ続いたので、経験を持っているにはちがいないが、これらの経験に高価な代償を払ったのだった。突然Kは商人のこの有様に耐えられなくなった。
「この人をベッドに連れてゆきたまえ!」と、彼はレーニに叫んだが、女は彼の言うことが全然わからないらしかった。だがおれ自身は弁護士のところへ行こう、解約を通告して、ただ弁護士からばかりでなくレーニと商人とからも縁を切ろう、と思った。ところが扉のところまで行くか行かないかのうちに、商人が低い声で言葉をかけた。
「業務主任さん」
 Kは機嫌のわるそうな顔つきで振返った。
「あなたは約束をお忘れになりましたね」と、商人は言い、椅子から懇願するように身体を伸ばした。「私にも秘密をおっしゃってくださるということでしたが」
「そうでした」と、Kは言い、自分をまじまじと見つめるレーニにも一瞥(いちべつ)を投げた。「それじゃ聞いてください。もちろんほとんど秘密というほどのものじゃないんです。これから弁護士のところへ行って、解約するんですよ」
「この人は弁護士を解約するんだ!」と、商人は叫び、椅子から飛び上がって、腕を振上げて台所じゅうを走りまわった。何度も繰返して叫ぶのだった。「この人は弁護士を解約するんだ!」
 レーニはすぐKに飛びかかっていったが、商人が邪魔にはいると、両手の拳(こぶし)で一撃を加えた。なおも拳を握ってKの背後を追いかけたが、Kのほうはかなり逃げていた。もう弁護士の部屋に足を入れていたが、そこでレーニが追いついた。扉をほとんどしめたが、足で扉を食い止めたレーニは、彼の腕をつかみ、引戻そうとした。ところが女の手首を強く圧(お)したので、女はうめき声をあげて手を放さねばならなかった。女はこれ以上部屋の中に踏みこむことはしなかったが、Kは扉に鍵(かぎ)をかけた。
「たいへんお待ちしていましたよ」と、弁護士はベッドから言い、蝋燭の光で読んでいた文書を夜間用の机の上に置き、眼鏡をかけると、Kを鋭く見つめた。Kはわびもせずに、言った。
「すぐに帰りますから」
 わびではなかったので、弁護士はKのこの言葉を相手にせずにやりすごし、言った。
「この次はもうこんな遅くはお会いしませんからね」
「それは願ったりです」と、Kは言った。
 弁護士は、いぶかしげにKの顔を見た。
「まあおかけください」と、言った。
「ではお言葉どおり」と、Kは言い、椅子を夜間用の机のそばに引寄せ、すわった。
「扉の鍵をおかけになったようですな」と、弁護士は言った。
「そうです」と、Kは言った。「レーニのためでした」
 彼は、誰でも容赦するつもりはなかった。ところが弁護士はきいた。
「あれがまたしつっこいことをしましたか?」
「しつっこいですって?」と、Kはきいた。
「そうです」と、弁護士は言って笑ったが、咳(せき)の発作を起し、それが止ると、また笑いはじめた。
「きっとあれのしつっこいことをごらんになったでしょうね?」と、きき、Kがぼんやりと夜間用の机の上についていた手をたたいたので、Kは素早くその手を引っこめた。
「あなたはそのことをたいして問題にしておられぬようだが」と、Kが黙っているので弁護士は言った。「そのほうがよろしい。さもないとわしがおそらくあなたにおわびしなければなりませんからな。それがレーニの奇妙なところでしてね。わしは前からそれを大目に見ていますし、あなたがたった今扉をおしめにならなかったら、お話もいたさなかったでしょう。この奇妙なところというのは、もちろんあなたにご説明するまでもないんですが、あなたは私のことを驚いてごらんになるので申上げておきますけれど、それは、レーニがたいていの被告の人々を美しいと思いこむことなんですよ。あれは誰にでもくっつき、誰にでもほれますし、もちろん誰からも愛されもします。その後で、私がよいと言えば、わしを興がらせるため、ときどきそれについて話してくれます。お見かけしたところだいぶ驚いていらっしゃるようですが、わしはこのことにたいして驚きはしませんね。見分ける眼力がありさえすれば、被告の人々はほんとうに美しいと見えることがしょっちゅうあるものですよ。これは確かに、奇妙な、いわば自然科学的と言える現象なんです。もちろん、告訴の結果何かはっきりとした、詳細に規定できるような容貌(ようぼう)上の変化が起るわけじゃありません。ほかの裁判事件の場合とはちがって、たいていの被告は普通の生活を続け、事件の世話をしてくれるいい弁護士がついていさえすれば、訴訟に少しもわずらわされません。それにもかかわらず、経験のある人々は、大勢の人々の中から被告を一人一人見分けることができます。どういう点でか、とあなたはおたずねになるでしょう。わしの返事はあなたを満足させるわけにゆかぬかもしれません。つまり、被告の人々はまさしくいちばん美しいんです。彼らを美しくするものは罪ではありません。なぜなら――わしは少なくとも弁護士としてこう申上げなくてはなりませんが――すべての被告が罪があるとはかぎらないのですからね。また、彼らを今から美しくしているのは、正しい処罰というものでもありません。被告はみな処罰されるとはかぎっていないからです。それゆえ、なんらかの形で彼らにつきまとっている、彼らに対して提起された訴訟手続きというものにあるにちがいありません。もちろん、美しい人たちのうちにも特に美しい人というのはあります。でもみな美しいことは確かであって、あのみじめな虫けらのようなブロックでさえ美しいんです」
 Kは、弁護士が語り終えたとき、すっかり気を落着け、最後の言葉には目だつほどにうなずきさえしたが、そうすることによって前々からの自分の見解にみずからの裏打ちを与えるのであった。その見解によるとこの弁護士は、いつも、そして今度も、事の本質には触れていない一般的なことばかり伝えては自分の気をそらし、いったい自分のために実際に仕事をして何かをやってくれたか、という根本問題は、避けよう避けようとばかりしているように思われるのだった。弁護士は確かに、Kがこれまでよりも自分に対して抵抗していることに気づいたらしかった。というのは、弁護士は黙ってしまい、Kのほうが話しだす機会を与えたからである。ところが、Kがいつまでも黙っているので、きいた。
「今晩は何かきまったご意図を持っていらっしゃったのですか?」
「そうです」と、Kは言い、弁護士をもっとよく見るため、片手で少し蝋燭の光をさえぎった。「今日をかぎりあなたには私の弁護をやめていただきたい、と申上げようと思います」
「なんですと」と、弁護士は言い、ベッドの中で半身をもたげ、片手で布団(ふとん)の上に身体をささえた。
「おわかりいただけたと思います」と、Kは身体をこわばらせてきちっと立ち、相手の出方に身構えするようにすわっていた。
「では、そのプランについてお話しすることもできますね」と、しばらくの後、弁護士は言った。
「もうプランなんていうものじゃありませんよ」と、Kが言った。
「そりゃあそうかもしれませんが」と、弁護士は言った。「でもわしらは何事もあわてすぎたくはありませんね」
 弁護士は「わしら」という言葉を使って、Kを手放す気は毛頭ないし、たとい代理人ではありえなくとも、少なくとも引続いて忠告者ではありたいというような素振りだった。
「あわてているわけじゃありません」と、Kは言い、ゆっくりと立ち上がり、自分の椅子の後ろに行った。「十分に考えましたし、おそらくあまり長く考えさえしたようです。決心はもうきまっています」
「それではもう少し言わせてください」と、弁護士は言い、羽根布団を退(の)け、ベッドの縁に腰かけた。むきだしの白毛(しらが)の脚は、寒さで震えていた。彼はKに、長椅子から毛布を取ってくれ、と頼んだ。Kは毛布を持ってきて、言った。
「そんなに冷えるようなことをなさる必要は全然ありませんよ」
「事はなかなか重大です」と、弁護士は言いながら、羽根布団で上半身を包み、それから両脚を毛布に突っこんだ。「あなたの叔父(おじ)さんはわしの友人だし、あなたもまた時のたつにつれわしにとって親しいものとなった。そのことを率直に申上げます。こう申上げても恥じる必要はないと思います」
 老人のこういう感傷的な話は、Kにはきわめてありがたくなかった。というのは、避けたいようなくだくだしい説明にどうしてもなったし、そのうえ、もちろん彼の決心をけっして翻すことはできなかったが、率直に白状するとそれをいろいろと迷わしたからである。
「ご親切にご心配いただいてありがとうございます」と、彼は言った、「あなたが私の事件をできるだけ、そして私にとって有利だとお考えのかぎりお引受けくだすったということも、よく存じております。しかし、最近、それは十分でないという確信を持つにいたりました。もちろん私は、あなたのようなたいへん年長で経験に富んだ方に、私の考えに従っていただくようにしようとはけっして思いません。もし私がときどき思わず知らずにそんなことをしようといたしましたなら、どうかお許しねがわなければなりませんが、事はあなたご自身のおっしゃられるようになかなか重大ですし、私の確信によりますと、訴訟に対してこれまでやった以上に強力に手を出すことが必要だと思われます」
「よくわかりましたが」と、弁護士は言った、「あなたは短気ですね」
「私は短気なんじゃありません」と、Kは少し興奮して言い、もうたいして自分の言葉に気を使わないことにした。「私が叔父といっしょにあなたのところへ初めて伺ったとき、私には訴訟なんかたいして問題ではなかったということは、あなたもご存じでしょうし、いわば力ずくで思い出させられるのでなかったなら、私は訴訟のことは完全に忘れていたのでした。ところが叔父が、あなたに弁護をお願いしろと言い張るものですから、叔父の気を損じないためにそうしました。それで、弁護士に弁護をおまかせするのは訴訟の重荷を少しでも避けるためなんだから、これで私の訴訟も前よりは気軽になるものとばかり思っていたわけです。ところが事実はまったく反対です。それまでは、あなたにお願いしてからほど訴訟のために心配させられるということは、なかったのです。私ひとりのときには、自分の事件については何も手を出しませんでしたが、それを心配することもほとんどなかったのでした。ところが今では、代理人もおられるし、何事が起っても万端の用意が整えられていて、ひっきりなしに緊張してあなたが手を下してくださるのを待っていたわけですが、さっぱりでした。もちろん、おそらくはほかの人からはもらえそうにもないさまざまな裁判所についての情報を、あなたからいただきはしました。しかし、訴訟が確かに私の気づかぬうちにだんだんと身に迫ってきている今となっては、それでは十分ではなくなったのです」
 Kは椅子を突きのけて、両手を上着のポケットに突っこんだまま立ち上がった。
「訴訟をやっているうちの、ある時期には」と、弁護士は低い声で落着いて言った。「本質的に新たな事態というものが起らなくなるのです。あなたと同じような訴訟の段階にある大勢の依頼人の方々が、これまでもわしの前に立って、あなたと同じようなことを言ったものですよ!」
「そうだとすると」と、Kは言った。「そういう同じような依頼人たちは、私と同じように当然な理由があったのです。それだからそんなことは全然私に対する反駁(はんばく)にはなりやしない」
「何もあなたに反駁しようとは思いません」と、弁護士は言った。「だがわしが申上げておきたいと思うのは、あなたにはほかの人々よりも判断力というものを期待していたということです。ことにあなたには、ほかの依頼人に対してやる以上に、裁判組織とわしの仕事とについて詳しくお教えしておいたんですからね。ところが今は、こんなにしてさしあげているのにあなたはわしを十分ご信用にならない、ということを見なければならないというわけです。あまりわしのことを軽く考えてくだすっては困りますね」
 弁護士はKに対してなんと卑屈な態度をとったことか! 確かに今においてこそいちばん感じやすくなっているにちがいない自分の身分に関する体面というものを全然忘れてしまっているのだ。なぜこういう態度をとるのか? 見かけたところ仕事の多い弁護士で、そのうえ金もあるらしいし、もうけがなくなることも一人ぐらいの依頼人を失うことももともとたいしたことではないはずだ。そのうえ、病身だし、仕事を減らすことを自分でも考えたほうがよいのだ。それにもかかわらずKのことをこんなに引きとらえているなどとは! なぜだろうか? 叔父に対する個人的な友誼(ゆうぎ)なのだろうか、あるいはKの訴訟をきわめて風変りなものと認めて、Kに対してか、あるいは――こういう可能性もけっしてなきにしもあらずだが――裁判所の友人たちに対して、自分の腕を見せようと望んでいるのだろうか? 遠慮なくKはためつすがめつして弁護士の顔を見るのだったが、相手そのものには何も変ったところが認められなかった。わざと無口のような顔つきをして自分の言葉の効果を待っているのだ、とほとんど考えることができる有様だった。しかし、彼は明らかにKの沈黙を自分にとってきわめて好意的に解釈したことが、次のように言葉を続けたことでわかった。
「いずれおわかりのことと思いますが、わしは大きな事務室を持ってはいますが、助手は一人も使ってはいません。以前はそれとちがい、二、三人の若い法律家がわしのために働いてくれていたときもあったのですが、今ではわしひとりでやっています。その理由は、わしが自分の専門を変え、だんだんあなたのケースのような法律事件だけをやるようにしたためでもありますが、また一部はこの種の法律事件によっていよいよ認識を深めたためです。わしの依頼人の方々や、わしが引受けた課題というものに対して罪を犯したくないと思うならば、こういう仕事は誰にもまかせられない、ということをさとったのです。しかし、仕事も全部自分でやろうと決心したについては、それ相応の結果を生じました。すなわち弁護の依頼をほとんどすべてお断わりせねばなりませんでしたし、わしと特に親しい人々の言うことだけしかきけませんでした。――ところで、わしが投げ捨てた屑(くず)のひとつひとつに飛びつくやつらもたくさんいますし、しかもほんの身近にさえいる始末です。そしてそのうえ、わしは過労で病気になってしまいました。けれども、わしは自分の決心を後悔はしていませんが、わしが実際にやったよりももっと弁護の仕事をお断わりすべきだったのかもしれません。しかし、お引受けした仕事にすっかり没頭するということは、絶対に必要であるということがわかりもしましたし、またよい結果で報いられもしました。わしはかつてある書き物の中で、普通の法律事件の弁護とこういう法律事件の弁護とのあいだの相違がきわめて巧みに表現されているのを見たことがあります。そこにはこう書いてありました。つまり、普通の弁護士は依頼人を細い糸で判決にまで導くが、別の弁護士は依頼人をすぐ肩にかついで、それをおろしたりしないで、判決まで、さらにはそれを超(こ)えたかなたにまで連れてゆく、というのです。そのとおりですね。ですが、わしがこんな大仕事で全然後悔していないなんて言えば、一から十まで正しいとは言えませんね。たとえばあなたの場合のように、わしの仕事が完全に誤解されるとなると、わしもほとんど後悔しますよ」
 Kはこんな談義で、納得させられるというよりは、むしろいらいらしてきた。弁護士の口調からなんとはなしに、自分を待っているものがなんであるか聞き取れるような気がした。いま譲るとなると、また例の慰め文句が始まるのだろう。願書が進捗(しんちょく)しているということ、裁判所の役人たちの機嫌がよくなったこと、だが仕事にはさまざまな大きな困難が直面していること、要するにそうしたいやになるほど知っているいっさいのことが持ち出され、またもや自分にはっきりとしない希望をいだかせたり、はっきりしない脅威で自分を苦しめたりしようとするのだ。そんなことはもう最終的に食い止めなくてはならない、と思ったので、彼は言った。
「弁護をお続けになる場合、私の事件について何をやってくださろうというのですか?」
 弁護士はこの侮辱的な質問にさえ乗ってきて、答えるのだった。
「あなたのためにすでにやってまいったことを、続行するんです」
「そのことならまったくわかっています」と、Kは言った。「ですが今はもうそれ以上おっしゃるにはおよびません」
「もう一回やってみようと思うんです」と、Kを興奮させた事柄はKに関係があるのではなくて自分に関係あることなのだ、とでもいうかのように弁護士は言った。
「つまりわしはこう思うんだが、あなたはわしの法律顧問としての地位を間違って判断されているばかりではなく、そのほかにも妙な態度をとられているが、そんな態度をとられるのは、あなたが被告であるのにあまりにいい待遇を受けていられる、あるいはもっと正しく言って、どうでもいいというふうに、少なくとも外見上どうでもいいというふうに取扱われている、ということのわるい結果ですね。このどうでもいいというふうに取扱っているということにも理由があるんですよ。つまり、自由であるよりも鎖につながれているほうがいいということもしばしばあるもんでしてね。だが、ほかの被告がどういうふうに取扱われているかということをあなたにお教えしたいと思いますが、そうすればおそらくあなたはそれから教訓を引出すこともできますよ。そこでこれからブロックを呼びますから、扉をあけてここの夜間用の机のそばにおかけになってください!」
「かしこまりました」と、Kは言い、弁護士が要求したとおりにした。いつでも学ぼうという心構えであった。しかし、どんな場合に対しても安全な処置をとっておこうと思って、彼はきいた。
「ですが、私があなたの弁護はお断わりしているということは、わかっていただけましたね?」
「わかりました」と、弁護士は言った。「しかし今晩のうちにも後戻(あともど)りされることがありえますね」
 彼はまたベッドに横になり、羽根布団を顎(あご)まで引寄せ、壁のほうに向き直った。それからベルを鳴らした。
 ベルの合図とほとんど同時にレーニが現われた。素早くあたりを見て、何が起ったのかを知ろうとした。ところがKが落着いて弁護士のベッドのそばにすわっていたので、ほっとした様子だった。自分をじっと見つめているKに、微笑(ほほえ)みながらうなずいてみせた。
「ブロックを連れておいで」と、弁護士は言った。ところが彼女は、ブロックを連れてくるかわりに、ただ扉の前まで出て、叫んだ。
「ブロック! 弁護士さんのところへいらっしゃいって!」
 それから、弁護士が壁のほうを向いたままで何も問題にしてはいないからであろうが、Kの椅子の後ろにこっそりとまわりこんだ。そうしてから、椅子のもたれの上に身体を曲げてきたり、もちろんきわめてやさしげに、また注意深げにだが、両手を彼の髪毛(かみのけ)の中に入れたり、頬をなでたりして、彼をうるさがらせるのだった。最後にKは、女の手をつかんでそんなことをさせまいとした。女はしばらく逆らったが、やがて手を彼にまかせた。
 ブロックは呼ばれてすぐやってきたが、扉の前で立ち止り、はいったものかどうかと考えている様子だった。眉毛(まゆげ)をつり上げ、弁護士のところに来いという命令が繰返されまいかと聞き耳を立てているかのように、頭をかしげていた。Kははいるように彼を勇気づけてもよかったが、ただ弁護士とばかりでなく、この家にあるいっさいのものと最後的に手を切ることに心をきめていたので、じっとしていた。レーニも黙っていた。少なくとも自分を追い払う者は誰もないとブロックは見てとり、顔を緊張させ、後ろにまわした両手を痙攣(けいれん)させながら、爪立(つまだ)ちではいってきた。扉は、退却してゆく場合のことを考えて、あけ放しにしておいた。Kは彼の顔を全然見ずに、うず高い羽根布団を依然として見ていたが、弁護士はその布団にくるまって壁ぎわまで身体を寄せていたので、姿が全然見えなかった。しかし、その声だけは聞えた。
「ブロックは来たかね?」と、彼がきいた。この問いは、すでにかなりな距離に進んでいたブロックの胸に明らかに一撃を与え、次にまた一撃を背中に与えたので、彼はよろめき、背中を深く曲げて立ち止って、言った。
「おります」
「なんだと言うのだね?」と、弁護士は言った。「都合のわるいときに来るんだね」
「お呼びではありませんでしたか?」と、ブロックは弁護士にというよりは自分自身にきいてみて、身を防ぐように両手を前に出し、逃げてゆく身構えをした。
「呼びはしたんだが」と、弁護士は言った。「都合のわるいときに来るんだね」
 そしてしばらく間(ま)をおいて、言葉を足した。
「君はいつも都合のわるいときにばかり来るね」
 弁護士がしゃべってからは、ブロックはもうベッドのほうを見ず、むしろ部屋の隅(すみ)のどこかを見つめ、話し手の視線があまりまぶしすぎて耐えられないというように、ただ耳を傾けるだけだった。だが、弁護士は壁に向ってしゃべり、しかも声が低く口早なので、聞き取ることもむずかしかった。
「帰ったほうがよろしいでしょうか?」と、ブロックがきいた。
「もう来ちゃったんだから」と、弁護士は言った。「いなさい!」
 弁護士はブロックの望みをかなえてやったのではなくて、笞(むち)で打つぞとでもいうようにおどしたのだ、と思えそうだった。今やブロックがほんとうに震えはじめたからである。
「昨日(きのう)わしは」と、弁護士が言った。「友人の第三席裁判官のところに行ったんだが、話がだんだん君のことになった。彼が言ったことを聞きたいかね?」
「ぜひどうぞ!」と、ブロックが言った。
 弁護士がすぐには返事をせぬので、ブロックはもう一度懇願を繰返し、ほとんどひざまずかんばかりに身体をかがめた。ところがそのとき、Kが彼に噛(か)みついていった。
「君はなんていうことをするんだ?」と、Kは叫んだ。
 レーニが彼の叫ぶのを妨げようとしたので、彼は女のもう一方の手もつかんだ。彼が女をしっかとつかんでいるものは、愛情の握りかたではなかったし、女も繰返し溜息(ためいき)をして、両手をもぎ取ろうとした。ところが、Kが叫んだおかげでブロックが罰を食った。弁護士がこうきいたからである。
「君の弁護士はいったい誰かね?」
「あなたです」と、ブロックは言った。
「で、わしのほかには?」と、弁護士がきいた。
「あなたのほかには誰もいません」と、ブロックが言った。
「それじゃ、ほかの人の言うこともきかないことだね」と、弁護士は言った。
 ブロックは弁護士の言うことをすっかりのみこみ、悪意のこもった眼差(まなざし)でKをじろじろながめ、彼に対して激しく頭を振った。この動作を言葉に翻訳すれば、乱暴な罵倒(ばとう)だったにちがいない。こんな連中とKは親しげに自分の事柄を語り合うつもりでいたのだ!
「もう邪魔はしませんよ」と、Kは椅子にもたれて言った。「ひざまずいたり、四つばいになったり、なんでも好きなようになさい」
 ところがブロックにも、少なくともKに対しては見栄(みえ)というものがあった。というのは、拳を振りまわしながらKに迫ってきて、弁護士の威をかりてその身近でだけやれるような大声で叫んだからである。
「あなたは私に対してそんなふうな口をきいてはいけません。それはよろしくありませんよ。なぜ私を侮辱なさるんです? しかもこの弁護士さんの前で、なぜなさるんです? ここでは、あなたと私との二人は、ただお慈悲で我慢していただいているんですよ。あなただって告訴されていて訴訟にかかりあっているんですから、私よりましな方というわけじゃありません。それでもあなたが紳士だというなら、あなたよりりっぱなというわけじゃないけれども、私もあなたと同様紳士ですよ。そして、ことにあなたからは紳士として口をきいていただきたいですね。あなたはここで腰をかけ、落着いて話を聞いているのに、私のほうはあなたの言いかただと四つばいになっているというので、あなたは優越感を持っていらっしゃるのなら、私は昔の判例のことを申しましょう。それは、容疑者にとっては静かにしているよりも動くほうがよろしい、なぜなら静かにしている者は、知らぬ間に秤(はかり)の上に乗り、罪を量られることにいつでもなるからだ、というんです」
 Kは何も言わずに、ただこの混乱した男をまじろぎもせずにじっと見つめていた。ほんのこの数秒のうちになんという変化が起ったのであろう! この男をあちらこちらと投げ出し、敵も味方も区別できなくさせているのは、訴訟なのだろうか? 弁護士はわざとこの男を侮辱し、今はただKの前で自分の権力を見せつけ、それによっておそらくはKのことも服従させようということだけをもくろんでいることが、この男にはわからないのだろうか? だがブロックがそういうことをさとることができず、あるいはさとっていても弁護士を非常に恐れているので何の役にもたたないのだとしても、それではどうして、弁護士をだまして、彼のほかになおほかの弁護士にやってもらっているということを隠しているほど、狡猾(こうかつ)で大胆なのだろうか? またどうして、Kがすぐにも自分の秘密を暴露できるというのに、Kに食ってかかるというようなことをあえてやるのか? ところが男はそれ以上のことをあえてやるのだった。弁護士のところへ行き、今度はそこでもKの苦情を言いはじめたのだった。
「弁護士さん」と、彼は言った。「この男が私に口をきくのをお聞きになりましたか? まだこの男の訴訟なんていうものは時間で数えることができるくらいなのに、五年も訴訟をやっている私のような者に、いいことを教えてやろうって言うんです。そのうえ私をののしりさえします。何も知らぬくせに、作法や義務や裁判所の慣習が要求するところを微力ながらできるだけ詳しく勉強してきた私というものを、ののしったりするんです」
「人のことなんか心配するんじゃないよ」と、弁護士が言った。「そして、君が正しいと思うことをやるんだ」
「おっしゃるとおりです」と、自分自身を勇気づけるように言い、ちらと横眼を使いながらベッドのすぐそばにひざまずいた。
「このとおりひざまずいています、弁護士さん」と、彼は言った。
 だが弁護士は黙っていた。ブロックは片手で控え目に羽根布団をなでた。この場を支配している静けさの中で、レーニはKの両手から離れると、言った。
「痛いわよ。放してちょうだい。あたしはブロックのところへ行くわ」
 女はそちちへ行き、ベッドの縁に腰をおろした。ブロックは女が来たことを大いによろこんで、すぐさまさかんな、しかし言葉には出さないしぐさで、弁護士に自分のことを取りなしてくれと頼むのだった。彼は明らかに弁護士の知らせを切に求めていたが、おそらくはただ、そうした知らせをほかの弁護士たちに利用しつくさせるという目的だけのためだった。レーニは、どうやったら弁護士に取入れるかを、詳しく知っているようだった。弁護士の手を示して、接吻(せっぷん)するように唇(くちびる)をとがらせてみせた。すぐブロックは手への接吻をやってのけ、レーニのすすめるままに、さらに二度もそれを繰返した。ところが弁護士はまだ依然として黙りこくっていた。するとレーニは弁護士の上にしなだれかかったが、このように身体を伸ばすと、彼女の美しく発育した身体がはっきりと見えるのだった。そして、弁護士の顔のほうに深くかがみこんで、その長い、白毛の髪毛をなでた。これで彼は返事を一言言わざるをえなくなった。
「どうもそれをこの男に話すことは躊躇(ちゅうちょ)するんだが」と、弁護士は言い、頭を少し振るのが見られたが、おそらくそれはレーニの手の感触にもっとあずかるためにちがいなかった。ブロックは、まるでこうやって聞くことは命(めい)を犯すことででもあるかのように、頭をうなだれて聞いていた。
「なぜ躊躇なさるんですの?」と、レーニはきいた。
 Kは、すでにしばしば繰返された、そしてこれからもしばしば繰返されるにちがいない、ただブロックにとってだけ新鮮味を失わないような、よく覚えこまれた会話を聞くような気がした。
「あの男は今日はどんなふうだった?」と、弁護士は答えるかわりに、きいた。レーニはそれについて述べる前に、ブロックのほうを見下し、この男が両手を彼女のほうにあげて懇願しながらすり合せる有様をしばらくながめていた。最後に彼女は真顔でうなずき、弁護士のほうに向き直り、言った。
「おとなしくして一生懸命でしたわ」
 長い髯を生やした老商人が、若い娘に有利な証言を嘆願するのだった。その場合に何か下心があるとしても、同じような立場にある一人の人間の眼にとって、是認されることは何ひとつなかった。弁護士がこんな見世場をやって自分を手に入れようなどとどうして考えることができるのか、Kには全然気持がわからなかった。自分をこれまでは追い払いはしなかったけれども、こんな場面を見せつけては今度こそ自分を離れさせることになるだろうに。弁護士はこの場に居合す者をほとんど侮辱しているのだった。それゆえ、弁護士のやり口というのは、幸いにもKはたいして長いあいだそれの思いどおりにならなくてもすんだのだが、依頼人がついに世の中のことをすべて忘れ、ただ訴訟の終るまでこのような迷いの道の上に身体を引きずってゆくことを望むというようにさせるものだった。もう依頼人ではなく、弁護士の犬だった。もし弁護士が、まるで犬小屋の中にはい入るようにベッドの下にはい入って、そこからほえてみろ、と命じたならば、この男はきっとよろこんでそうしたにちがいなかった。ここで語られているすべてを詳細に自分の胸に納めておいて、上級の場所でそのことを訴え、報告することを任務とするもののように、Kは確かめ考えこむようにじっと聞いていた。
「一日じゅうあの男は何をやっていたのかね?」と、弁護士はきいた。
「あたしはあの人のことを」と、レーニは言った。「あたしの仕事の邪魔をされないように、いつもいる女中部屋の中に閉じこめておきましたわ。隙間(すきま)越しに、何をやっているかときどき見ることができましたの。いつもベッドの上にひざまずいて、あなたがお貸しになった書類を羽根布団の上に開き、それを読んでいました。それはあたしにいい印象を与えましたわ。だって窓は通風孔に続いているだけで、光なんてささないんですもの。それなのにブロックが読んでいるなんて、なんて従順な人だろう、と思いましたわ」
「そう聞いて、うれしいよ」と、弁護士は言った。「だがちゃんとわかって読んでいたのかね」
 こんな会話が交(か)わされるあいだ、ブロックは絶えず唇を動かしていたが、明らかにレーニに言ってもらいたい返事をつぶやいてみているのだった。
「もちろんそんなことは」と、レーニは言った。「はっきりとはお答えできませんわ。とにかくあたしは、この人が徹底的に読んでいるのを見ましたの。一日じゅう同じページを読んでいて、読みながら指で一行一行たどっていましたわ。この人のほうをのぞきこむといつでも、読むことがひどく苦労なように溜息をついていました。この人にお貸しになった書類は、きっとわかりにくいものなんですのね」
「そうだよ」と、弁護士は言った。「それはもちろんむずかしいよ。わしはこの男にそれがいくらかでもわかったとは思わないね。あの書類はただ、わしがこの男の弁護のためにやっている闘いがどんなにむずかしいか、少しでも感じ取らせてやればよいのだ。そしてこのむずかしい闘いを、わしはいったい誰のためにやっているんだ? それは――言うのもばかばかしいが――ブロックのためなんだ。これが何を意味するかも、わしはこの男にわからせてやるよ。ひっきりなしに勉強していたかね?」
「ほとんどひっきりなしでしたわ」と、レーニは答えた。「ただ一度だけ水が飲みたいってあたしに頼みましたの。それで通風窓からコップ一杯渡してやりましたわ。それから八時にこの人を出してやって、食物をあげました」
 今ここでほめられているのは自分のことなのだ、そしてそれはKには印象を与えただろう、とブロックは横眼でちらとKを見た。今は大いに有望と思っているらしく、身のこなしもいっそう伸び伸びとし、膝(ひざ)であちこちと動いていた。それだけに、弁護士に次のように言われて凝然としてしまったのも、はっきりと見てとれるのであった。
「お前はこの男をほめているね」と、弁護士が言った。「しかし、そんなことをやると、まさにそのためにわしは話しにくくなるんだよ。つまり裁判官は、ブロックという男についても、それの訴訟についても、あまりよくは言わなかったんだよ」
「よくは言わなかったんですって?」と、レーニはきいた。「どうしてそんなことがあるんですの?」
 ブロックは、今はとっくに言われてしまった裁判官の言葉を自分の都合のいいように曲げる力をこの女が持っていると信じているかのように、緊張した眼つきで女を見つめた。
「よくはなかったね」と、弁護士は言った。「わしがブロックのことを話しはじめたら、不快そうになった。『ブロックのことはやめたまえ』と、言ったよ。そこで、『私の依頼人です』と、わしは言った。『あなたはいいように使われているんだ』と、彼が言う。そこでわしは、『彼の事件はまだだめにはなっていないと思います』と、言った。『あなたはいいように使われているんだ』と、相手が繰返した。『そうは思いませんが』と、わしは言ってやった。『ブロックは訴訟に熱心で、いつも自分の事件を追いかけています。私の家に住み込みも同然になって、いつでも情報に通じていようとしているのです。こんな熱心さは珍しいですよ。確かに個人的には愉快なやつではないし、作法はなっていなくて、きたならしいけれど、訴訟の点では非の打ちどころがありません』とな。わしも非の打ちどころなくしゃべったんだが、わざと誇張してやったんだ。そしたら彼はこう言うんだ。『ブロックはずるいだけだ。あの男はたくさんの聞き込みをかき集めて、訴訟を引延ばすことを知っている。けれどあれの無知のほうがずるさよりもずっと大きいくらいだ。あれの訴訟なんか全然始まっていないということを聞いたら、そして、訴訟開始の鐘の合図も全然鳴らされたことがないと言ってやったら、それに対してどう言うだろうか』ブロック、おとなしくするんだ」と、弁護士は言った。ブロックがよろよろする膝で立ち上がり、明らかに説明を求めようとする気配を示したからである。
 弁護士がはっきりした言葉でずばりとブロックに向って言ってのけたのは、これが初めてだった。疲れた眼で半ばはどこともなく、半ばはブロックのほうを見下したが、ブロックはこの眼差を見て、またへなへなとひざまずいてしまった。
「裁判官のこんな言葉は、君には全然意味を持たないんだよ」と、弁護士は言った。「どうか一言ごとに驚かないでもらいたいね。そんなことが繰返されると、もう全然打明けられないよ。一言話しはじめると、今こそ最終判決が下されるのだというような顔つきで見つめられるんだからねえ。ここにはわしの依頼人もいらっしゃるんだから、少しは恥を知ってもらいたい! この方がわしにおいてくださっている信用というものも台なしにしてしまうよ。いったい、どうしてくれっていうんだい? まだ君は生きているし、まだわしの後楯(うしろだて)っていうものがあるんだ。つまらぬ心配というものだよ! 最終判決は多くの場合、思いがけずに、任意の人の口から任意な時に下される、ということを君はどこかで読んだはずだ。いろいろな留保条件はあるが、それはもちろんほんとうだ。だが、君の心配はわしに不愉快だし、わしはその中にわしに対する必要な信頼の欠如というものを見る、ということもほんとうだ。いったいわしが何を言ったかね? ある裁判官の言ったことをそのまま伝えただけだよ。君も知っているとおり、さまざまな見方が手続きの周囲に積み重なって、見通すことができないほどになっているんだ。たとえばこの裁判官は手続きの始まりというものをわしとは別な時期において考えているんだよ。見解の相違というもので、何もそれ以上のものじゃないよ。訴訟のある段階において、昔からのしきたりで鐘が鳴らされる。この裁判官の見方によると、それで訴訟が始まるというんだ。それとちがう意見を今全部君に言って聞かせることはできないし、聞いたところで君はそうしたものをわかりはしないだろうが、それとちがう意見はたくさんあるというだけで君には十分だ」
 ブロックは当惑して下にうずくまり、ベッドの前に敷いてある小絨毯(じゅうたん)の毛を指でさすっていた。裁判官の言ったことが気がかりで、弁護士に対する自分の従順さもしばらくは忘れてしまい、ただ自分のことだけを考え、裁判官の言葉をあらゆる方向にこねまわしていた。
「ブロック」と、レーニはたしなめる調子で言い、上着の襟(えり)を引っとらえて少し上へ引っ張った。
「もう毛なんかなでるのをやめて、弁護士さんのおっしゃることを聞きなさいな」

(編集者マックス・ブロート注 本章未完)






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