ゲーテ詩集 生田春月訳





魔王


こんな嵐の夜更けに馬を駆るのは誰か?
それは父親とその子供とだ
父はわが児を腕に抱いてゐる
しかと、温かく抱いてゐる

『坊や、なぜそんなに恐ろしさうに顔隠すのだい?』
『御らん、お父さま、あの魔王を御らん!
冠をかぶつて裾を曵いてるあの魔王を!』
『坊や、あれは霧が棚曵いてゐるんだよ』

{[]ねえ坊ちやん、いい児だからこつちへお出で!
面白いことをして遊びませんか
きれな花のたくさん咲いてゐる岸辺へ来て
わたしの母は黄金(きん)の着物を有つてますよ》

『お父さま、お父さま、あれお聞きなさいな
魔王が坊やに小声で約束してゐるよ!』 –
『安心をし、安心してお出で、ねえ坊や
あれは枯葉が風にがさがさ鳴つてるのだよ』

{[]坊ちやん、ねえ坊ちやん、一緒にまゐりませう!
わたしの娘たちはあなたを待ちかねてます
わたしの娘たちは手を取つて夜の踊をおどります
踊つて歌つてあなたを寝かせてあげますよ》

『お父さま、お父さま、あれ御らんなさいな
あのむかふの暗い処に魔王の娘の立つてゐるのを!』 –
『坊や、ねえ坊や、あれは何でもないよ
あれは古い灰色をした柳の樹だよ』

{[]かはいい坊ちやん、わたしの大好きな坊ちやん
あなたが承知しなければ無理にも攫(さら)つて行きますよ》
『お父さま、お父さま、あれ魔王が僕を捉(つかま)へる!
魔王が僕をこれこんなに虐(いぢ)めるよ!』

父はぞッとして、一目散に馬を飛ばした
彼はしくしく泣く児を腕に抱いたまま
やつとのことで屋敷に着くと
子供は腕に死んでゐた





漁夫


波は鳴り立ち、波は湧き上る
一人の漁夫(れふし)が岸辺にすわり
しづかに浮標(うき)を見つめてゐた
胸の底まで冷たくなつて
すわつて耳をすましてゐると
波がたちまちふたつにわかれて
ゆらめく水の間から
濡れた女の姿が現れた

女は歌つた、話しかけた
『どうしてあなたはわたしの眷族を
人間の智慧で、人間の奸計(たくらみ)
(をか)に誘つてお殺しになるんです?
ああ、海の底で魚がどんなにか
楽しく暮してゐるかお知りになつたなら
あなたもその儘下りてお出でになつて
はじめて穏かな身におなりでせうに

お天道さまもお月さまも海へお入りになつて
元気附きにおなりになるではありませんか?
波を浴びて一層お顔も美しう
おかへり遊ばすではありませんか?
この深い空、この澄み切つた紺青が
あなたのお心を誘ひはしませんか?
この永遠の露に映るあなたの面影が
あなたのお心を誘ひはしませんか?』

波は鳴り立ち、波は湧き上る
波は漁夫のはだしの足を洗ふ
愛する人に挨拶された時のやうに
彼の心はあこがれで一杯になつた
女は歌つた、話しかけた
漁夫(れふし)はもはやさからふことも出来ず
半ば引き寄せられ、半ば倒れて行き
もはや姿は見えなかつた





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