須川邦彦 無人島に生きる十六人







学用品


 島生活に、だんだんなれて、時間にゆとりができてきた。そこで、六月の中ごろから、学科時間を、午前、午後、一日おきに入れた。
 練習生と会員、それからわかい水夫と漁夫のために、船の運用術、航海術の授業を、私と運転士が受け持った。漁業長は、漁業と水産の授業と、実習を受け持った。このほかに、私が数学と作文の先生であった。
 学用品には苦心した。三本のシャベルを石板のかわりにして、石筆には、ウニの針を使った。島のウニは大きい。くりのいがのような針の一本は、大人の小指くらいもあった。はじめは赤いが、天日にさらしておくと、まっ白になって、りっぱに石筆の代用となった。これでシャベルの石板に、みじかい文章を書き、計算をした。
 習字は、砂の上に、木をけずった細いぼうの筆で書かせた。
 練習生二人には、帰化人三人に、漢字を教えさせ、帰化人には、練習生と会員に、英語の会話と作文を教えさせた。
 だから、なにかのつごうで作業のすくないときは、まるで学校のような日もあった。一週に一度、私が一同に精神訓話をした。

「インキがほしい」
 と、私がいった。
 水夫長が、万年灯(まんねんとう)にたまった油煙をあつめて、米を煮たかゆとまぜて、インキのようなものをつくった。そして、海鳥の太い羽で、りっぱな羽ペンはできたが、インキは役にたつものではなかった。
 漁業長が、カメアジの皮を煮つめて、にかわをつくって、水夫長のインキにまぜて、とうとうりっぱなインキができあがった。このインキは、水に強く、帆布に文字を書いて海水にひたしても、消えない。
 そこで、帆布を救命浮環(うきわ)にはりつけ、その帆布に、このインキで、
「パール・エンド・ハーミーズ礁、龍睡丸(りゅうすいまる)難破、全員十六名生存、救助を乞(こ)う」
 と、日本文で書き、おなじ意味を英文で書いて、伝馬船(てんません)で沖にもっていって、
「われらの黒潮よ、日本にとどけてくれ。――救命浮環よ、通りかかった船にひろわれてくれ」
 と念じて、人目につくよう、帆布の小旗を立てて流した。
「インキよ、何年、波風にさらされても消えるな。――文字よ、いつまでも、はっきりしていてくれ。人に読まれるまでは……」
 十六人は、この救命浮環とインキに、大きな望みをかけていた。
 インキができたので、帆布に日記を書きはじめた。女のおびのような、長い帆布に書くのだ。何年かののちには、大きなまき物になる。それから、帆布で読本をつくって帰化人に読ませた。これもまき物だ。

 一日の仕事がすんで、夕方になると、総員の運動がはじまる。すもう、綱引、ぼう押し、水泳、島のまわりを、何回もかけ足でまわる。それから、海のお風呂(ふろ)にはいって、夕食という順序を、規則正しくくりかえした。
 月夜には、夜になっても、すもうをとった。りっぱな土俵も、ちゃんとつくった。
 夕食後には、唱歌(しょうか)、詩吟(しぎん)も流行した。帰化人が、英語の歌、水夫が錨(いかり)をあげるときに合唱する歌などを教え、帰化人は、詩吟を勉強した。
 いよいよねる時間がくると、一日のつかれで、みんなぐっすり眠ってしまって、気のよわいことを、考えるひまがなかった。
 こうやって、みんなが、気もちよくねこんでしまっても、見張当番はやぐらの上で、「船は通らないか」と、ゆだんなく、四方を見はっていたのだ。見張当番は、午後十時ごろまでが青年組、それから夜明けまでは、老年組の当番で、日中は、総員が交代でやぐらにのぼった。


茶話会


 われら十六人にとって、雨はありがたいものであった。天からたくさんの蒸溜水(じょうりゅうすい)を、すなわち命の水を配給してくれるからである。
 雨の降る日は、みんな、いっそうほがらかで、にこにこしていた。それは、雨水のためばかりではない。ほかにわけがあった。
 雨の日は、午後、小屋の中で、茶話会をすることもあったからだ。茶話会の日には、めったにこしらえないお米のおもゆを雨水でつくって、それを、かんづめのあき缶(かん)や、タカセ貝に入れて、おやつに出すのだ。これは、島いちばんのどちそうで、みんなは、
「ああ、うまい。おもゆというものは、こんなに、うまいものだったのか――」
「舌がとけてしまうほど、おいしい」
 などと、思わずいっては、舌つづみをうつ。そして、雨の日の茶話会は、いつでも楽しく、にぎやかで、余興のかくしげいには、感心したり、おなかの皮をよじって大笑いをしたりして、笑声と拍手の音は、太平洋の空気をふるわせ、波にひびいた。そして、アザラシ半島のアザラシどもをおどろかした。アザラシどもは、人間の友だちのさわぎにあわせて、そろってほえた。
 茶話会の話は、青年たちのためになることばかりで、まことにわれらの無人島に、ふさわしいものであった。やっぱり、海の体験談が多かった。

 小笠原(おがさわら)老人は、よく話をした。かれは、海の上に、四十四年間もくらしている。そして、十六人の中で、いちばんの年長者で、また、いちばん長い年月を海でくらしたのだ。帆船で鯨を追って、太平洋のすみからすみまで航海した。じぶんで、
「おいらは、太平洋のぬしだ」
 と、じょうだんをいうくらいだ。話がすきで、身ぶり手まねをまぜて、話しかたも、日本語もうまかった。
 小笠原老人は、第一回の茶話会に、こんな話をした。

 みんなが、おいらのことを、老人というが、まだ、たった五十五歳だ。このもじゃもじゃひげとふとったからだが、老人に見えるのだろう。
 おいらのおじいさんは、アメリカ捕鯨の本元、大西洋沿岸、北方の小島、ナンテカット島の生まれで、おじいさんも、父親も、おいらも、代々鯨とりだ。おじいさんは、カーリー鯨アンド・アンニー号という百十五トンの捕鯨帆船を持っていて、その船長だった。
 おじいさんが、青年時代、一八二〇年(江戸時代の文政三年)に、太平洋の日本沿岸、金華山沖で、捕鯨船が、まっこう鯨の大群を発見したのだ。
 それはね、何千頭という大鯨が、べたいちめんに、いぶきをしていたというのだ。このことのあったつぎの年から、そのころ世界一さかんであった、アメリカ中の捕鯨船が、金華山沖にあつまって、めちゃくちゃに鯨をとった。なんでもしまいには、各国の、大小七百何隻(せき)の捕鯨帆船が、金華山沖に集まったというのだから、太平洋の鯨もたまらない。
 一八二三年に、そのアメリカ捕鯨船が、小笠原の母島を発見した。小笠原島には、いい港がある。年中寒さしらずで、きれいな飲料水がわき出ている。木がおいしげっていて、いくらでもたきぎがとれる。そのうえ、鯨も島の近くに多い。そして、そのころは無人島だったから、上陸した乗組員は、天幕(テント)をはって休養したが、のちにはりっぱな家をたてて、幾人もの鯨とりが住まうようになった。
 おいらの父親も、小笠原に家をもったのだ。そして、おいらは、一八四五年(弘化(こうか)二年)に、この島で生まれて、フロリスト・ウィリアム、と名まえをつけられた。
 そのじぶん、捕鯨船では、小笠原島のことを、ボーニン島といっていた。なんでも話にきくと、日本のお役人に、
「あの島の名まえは、何というのですか」
 と聞いたら、
「あれは無人島(ぶにんとう)です」
 といったのを、ブニンを、ボニンと聞きちがえて、とうとうボーニン島になったのだそうだ。
 さて、おいらが四歳の年の一月に、アメリカのサンフランシスコのいなかで、砂金がざくざく出るのを発見した者があった。そして、アメリカやヨーロッパのよくばり連中が、シャベルをかついで、さびしいいなかの港、サンフランシスコに、わんさわんさと出かけて行っては、砂金をほった。
 砂金がほしいよくばり病は、捕鯨船の乗組員に、すぐ伝染した。アメリカの、太平洋の港に碇泊(ていはく)中の、捕鯨船の水夫、漁夫、運転士までが、
「鯨よりも、砂金の方がいい」
 といっては、手荷物をかついで、船をおりたり、また、にげ出して行った。それで、何隻もの捕鯨船が、港に錨(いかり)を入れたまま、動けなくなってしまった。それから急に、アメリカの捕鯨船は、だめになった。
 だが、おいらの父親は、生まれつきの鯨とりだった。砂金なんか、見むきもしなかった。気もちのいい小笠原がすきだった。
 さて、おいらの願いがかなって、父親の船に乗せてもらって、太平洋へ鯨をとりに出かけたのは十一歳の春(安政二年)だった。うれしかったね。なんでも、早く一人まえになって、一番銛(もり)をうってやろうと、思ったね。
 はじめは、帆柱の上にある、ほんとうの見張所の下に、樽(たる)をしばりつけてもらって、その樽の中にはいって、見はり見習いをやった。上の方の大人の見はりに負けずに、すばやく、鯨のふきあげる息を見つけては、歌をうたう調子で、声を長く引いて、鯨が息をするように、
「ブロース――ホー」
 と、力いっぱい、どなったものだ。
 あの鯨のいぶき、ふつう潮吹というが、あれを「ブロー」というのだ。そして、うでをのばして、見えた方角を指さすのだ。すると、下では、甲板から帆柱を見あげて、
「鯨はなんだ」
 と聞くのだ。息のふきかたで、鯨の種類がはっきりわかるのだ。
「まっこう」
 とか、
「ながす」
 とか、すぐにいわないと、ひどくしかりとばされるし、まちがったりすると、どえらくおこられたものだ。そのおこって、どなるもんくが、
「このお砂糖め」
 というのだ。ところが、いわれる方では、それこそ、雷が頭の上に落ちたように、うんとこたえるのだ。
 それは、こうなんだ。海の男として、りっぱな一人まえになるまでには、何千べん、いや数えきれないほど、頭から波をかぶっていて、骨の心まで塩けがしみこんでいるはずだ。それで、一人まえの海の勇士が「塩」だ。おいらのような、とくべつの海の男が「古い塩」だ。それだから、塩のはんたいに、「お砂糖め」としかられては、海で男になろうという者にとっては、まったく、なさけなくなるよ。
 鯨のふく息は、一回六秒ぐらいで、十分間に六、七回はふきあげる。水煙がとくべつにこくって、十秒ぐらいも長くふくのは、深くしずむまえだ。鯨が肺の中の空気を、ほとんど出してしまうからだ。
 ふく水煙の高さは、十メートルいじょうのこともある。まっすぐにふきあがって、先の方が二つにわれるのは、せみ鯨。太く一本ふきあげるのが、ざとう鯨。一本で細く高くあがるのが、しろながす鯨。それよりみじかいのが、ながす鯨。いちばんひくいいぶき、それでも四メートルぐらいのが、いわし鯨。前の方に四十五度ぐらいの角度でふくのが、まっこう鯨だ。
 まっこう鯨は、歯があって、強くて元気なやつで、鯨どうしで、大げんかをすることがある。油をとるのにいちばんいいので、どの鯨船でも追いかける鯨だ。銛をうちこまれると、おこってあばれる。あのかたい大頭で、ちょっとつかれても、尾で、ちょっとはたかれても、ボートは粉みじんだ。どうかすると、本船めがけて、ぶつかってくることがある。本船だって、どしんとやられると、ひびがはいって沈没することがある。
 はじめて「鯨とび」を見たときは、うれしかったね。せなかにひれのあるいわし鯨が、なんべんも、つづけてとんだのを見た人は少ないだろう。十五メートルもある、あの大きなのが、頭を上に、ほとんどまっすぐに、海面からとびあがって、尾を海から高くはなしたな、と見るまに、大きな曲線をえがいて、頭の方から海にどぶうんとはいって、またとびあがるのだ。すばらしいなめし革のような白い腹には、縦に幾筋も、大きな深いしわがある。灰色のせなかには、ちょっぴり三角のひれ。鯨ぜんたいが、日光にきらきらするのだ。
 まっこう鯨も、よくとぶ。あの十五メートルいじょうもある大きなのが、はじめは海面すれすれに、たいへんな速力でおよいでいると見るまに、少しずつとびあがり、しまいには、すぽーんと、空中にとび出すのだ。角ばった頭を上に、四十五度ぐらいの角度にかたむけて、あの世界一大きなからだを、すっかり空中に出したすがたのりっぱさ。なんといったらいいだろう、おいらにはいえないね。何しろ地球上の動物の中で、でっかいことでは王様だ。
 それが、水に落ちるときの水煙とひびき、まるで水雷の爆発だ。それも、三つ四ついっしょにね。ぶああんと、遠くまで、海鳴りがして、ひびき渡っていく。こんなことは、まあ、陸では見られない。海は大きいが、動物も大きいと、つくづく思うね。
 また、こんなこともあった。おいらが十五歳のときだ。おとうさんの船に乗って、アラスカのいちばん北のとっさき、バーロー岬から、もっと東の方へ、北極の海を、氷のわれめをつたわって、行ったことがあった。船の上から、氷の上に、のそのそしている白くまを、いくつも見た。
「おとうさん、白くまをとってもいい」
 と聞いたら、おとうさんは、
「鉄砲でうったり、銛でついてはいけない。いけどりにするならいい」
 といった。まだ少年のおいらに、――くまがりなんかおまえにはできないよ。そんなあぶないことをするな――という、ありがたい親心が、今ではよくわかる。だが、そのじぶんには、親のありがたさなんぞは、気がつかない。
「おとうさんは、ぼくの勇気をためすのだ。鯨よりは、ずっとちっぽけな白くまだ。生けどりにできないことはない。――よし、やるぞ」
 こんな親不孝なことを考えた。そして、アメリカの牧童が、あれ馬にまたがって、ふちの広い帽子をかぶって、投縄をぶんぶんふりまわして、野馬や野牛にひっかけて生けどりにするように、白くまを生けどってやろう。おとうさんはじめ船の連中を、びっくりさせて、それから、まっ白い毛皮をおじいさんに、おみやげにして喜ばせてあげよう。ぼくは、いっぺんに英雄になるのだ。こう決心して、さっそく、くまとりの練習をはじめた。
 白くまは、人が近づくと、後足で立ちあがって、前足をひろげて、とびかかって人間をだきこむというから、こっちの方が先に、投縄をくまの首にひっかけるのだ。そうして、すぐに前足にも、その縄をひっかけて、力いっぱい、前の方へ引き倒してやろう。そうすれば、くまが前足にからんだ縄で、じぶんの首をしめるから、生けどりにできると考えた。
 それで、まず長い縄の先に、金の小さい輪をはめ、これに縄を通して、大きなずっこけをつくり、それから、白くまのかわりに、木で十文字をつくって、甲板の手すりに立ててしばりつけ、十文字の横木を、くまの前足に見たてて、十歩ぐらいはなれたところから、投縄の練習をはじめた。
 首にひっかけたら、すぐに、縄にはずみをつけて、輪を送って、右でも左でも、前足にその輪をひっかけて、ぐっと引けばいいのだ。三日も四日も、めしをたべる時間もおしんで、練習した。子どもだって、いっしんは通るよ、上手になったね。おしいことには、いよいよ白くまと対面というときに船は出帆してしまった。おとうさんは、――これはあぶない――と思われたにちがいない。
 この投縄は、いい運動にもなるし、何かの役にもたつよ。みんな、やってどらん、おいらが教えるよ。
 それから、なぜ、フロスト・ウイリアムのおいらが、小笠原島吉(おがさわらしまきち)となったかを、ひとつ話しておこうね。
 おいらが三十一歳のとき、明治八年に、ボーニン島が、日本の領土となって、日本小笠原諸島とはっきりきまったのだ。おいらの生まれた島だ。なつかしい島だ。島が日本の領土となったのだから、おいらも日本人だ。そうだろう。それで帰化して日本人となった。フロスト・ウィリアムが、日本名まえにかわって、島の名をそのままもらって、小笠原島吉。どうだ、いい名だろう。
 漁夫の範多(はんた)のことも、ちょっといっておこう。範多のおやじは、捕鯨銃の射手から、ラッコ猟船(りょうせん)の射手となった。鉄砲の名人だったよ。射手のことを、英語でハンターというのだ。ハンターのせがれの、エドワーズ・フレデリックが帰化して、おやじの職業のハンターをそのままつけて、範多銃太郎(じゅうたろう)となったのだ。
 ここにいる、おいらのいとこの、ハリス・ダビッドが、父島一郎、これも、小笠原諸島の父島に住んでいたので、島の名をそのままつけたのだ。
 このつぎには、もっとおもしろい話をしよう。きょうはこれでおしまい。
 天幕の中は、われるような拍手である。


鳥の郵便屋さん


 七月のはじめに、宝島で、名刺くらいの大きさの銅の札で、ひもを通したらしいあなのあるものを発見した。その札のおもてに、かすかに英文らしい文字があらわれているといって、運転士が、本部島の私のところへ持ってきた。
 双眼鏡のレンズを虫めがねにして、よく見ると、釘(くぎ)でかいた英文であるが、なにぶんにも長い月日をへたものらしく、ほとんど消えかかっていた。帰化人や練習生など、英語のわかるものが、よってたかって、やっと読むことのできたのは、
「……、……島、難破、五人生存、救助――一八……年……」
 という意味の文字だけで、船の名と、島の名、年月は消えていた。
 それで、この銅の札は、どこかの島で難破した外国船の、生き残った五人が、船底にはってあった銅板に、釘でみじかい救助をもとめる文章をかいて、海鳥の首につけて、飛ばしたものにちがいない。
「どうなったろう、五人の人たちは……」
 みんなの思っていることを、練習生の秋田がいった。
 すると小笠原老人は、
「心配することほない、昔のことだ。こんなことは、助かったものと、きめておけばいいのだ」
 と、いいきった。
「銅の札は、いい思いつきだ、われわれもさっそく、まねをしよう」
 私は、われらの倉庫から、このまえ流し文(ぶみ)に使った銅板の残りが、たいせつにしまってあったのを出させて、十枚の銅の札をつくらせ、ひもを通すあなをあけさせた。それから、釘で、
「パール・エンド・ハーミーズ礁(しょう)、龍睡丸(りゅうすいまる)難破、全員十六名生存、救助を乞(こ)う。明治三十二年七月」
 と、日本文で書き、そのうらに、英文でおなじ意味のことを書かせた。日本文は、会員と練習生に、英文は帰化人に書かせた。書く者は、「これできっと助かるのだ」と思いこんで、いっしんこめて書いた。
「国後(くなしり)。この札をつけて飛ばせるのに、役にたちそうな鳥をつかまえてくれ。なるべく元気なやつを、たのむよ」
 鳥と国後とは友だちだと、みんなが思っているのもおもしろい。
 国後がつかまえてきた海鳥の首に、銅板の一枚をじょうずに細い針金でしばりつけて、さて飛ばそうとしたが、札が大きすぎて、重くて鳥は飛べない。そこで、だんだんに札を小さくして、鳥が首につけて飛べるだけの大きさがわかったので、アジサシと、アホウドリと、あわせて十羽の海鳥の首に、その札をつけて、浜に出て、みんなで飛ばせた。
 首に札をつけられて、びっくりした鳥は、一羽一羽かってな方角へ、高く飛んで行った。雨雲がひくく水平線にたれさがって、いまにも降り出しそうな空に、鳥のゆくえを見まもって、浜べに立った人たちは、
「鳥の郵便屋さん、たのむぞ」
「潮の流れの郵便屋さんよりは、鳥の方が速くて、ましかも知れない。どこかの島へおりるからね。無人島じゃ、せっかく配達してくれても、受け取る人がないや……」
「アジサシにアホウドリ、どっちがたしかかなあ――」
 思い思いのことをいった。
 浅野練習生が、とつぜん大きな声で、
「あの鳥がいると、昔話のとおりだがなあ……」
 その声に、水夫長は、びっくりしたような顔をして、ふりむいて、
「なんだい。昔話のあの鳥というのは、わけがありそうだな。教えてくれよ」
 知らないことは、なんでも、だれにでも聞こうとするのは水夫長のいい心がけだ。私がいつであったか、「聞くはいっときの恥。知らぬは末代の恥」という話をしたことがある。それからずっと、私の話のとおりに実行しているのだ。
「話はばかに古くって、長いのだよ」
「じゃあ、みんな、ゆっくり砂にあぐらをかいて、聞かせてもらおう」
 この連中は、このように、おりにふれ、事にあたって、研究したり、わけを知ろうとする心がけの人ばかりであった。
 浜に円陣をつくって、あぐらをかいた人たちに、浅野練習生は話しはじめた。
「ずっとまえに、修身の本で読んだ話です。今から二千年も前、漢の国に、蘇武(そぶ)という人があって、皇帝の使者として、北の方の匈奴(きょうど)という国へ行った。ところが匈奴では蘇武をつかまえてこうさんしてけらいになれといったが、蘇武はきかなかった。そこで、大きなあなの中へぶちこんで、食物をやらずにおいたが、蘇武は何日たってもへいきでいた。これを見て匈奴では、蘇武はただの人ではないと思って、殺さずに、ずっと北の方の、無人のあれ野原に追いやって、雄のひつじを飼わせて、この雄のひつじからお乳が出るようになったら、おまえの国へ帰らせてやる、といいわたした。それでも蘇武はへいきだった。はじめあなに入れられたときは、雪が降ったので、じぶんの着ていた毛織物の毛をむしりとって、雪といっしょにたべて、生きていた。あれ野に追い出されてからは、野ネズミをとってたべたり、草の実をたべたりして、十年も十五年もがんばっていた。
 十九年めに、漢の国から匈奴の国へ使者がきて、蘇武をかえせと申しこんだ。すると匈奴では、蘇武はとっくの昔に死んでしまった、といったが、漢ではスパイの通知で、蘇武の生きていることを知っていたから、たぶんこんなことをいうだろう、そうしたらこういってやろうと、考えていた計画のとおりに、
『そんなことはない。蘇武は生きている。つい先日、私の方の皇帝が、狩に出て、空飛ぶ雁(かり)を矢を放(はな)って射落したら、雁の足に、白い布に墨で書いたものがしばりつけてあった。ほどいてひろげてみたら、蘇武からの手紙で、私は北のあれ野原に生きている、助けてください、と書いてあった。うそをいわないで、蘇武をかえしてください』
 と使者はいった。この計略にうまく引っかかった匈奴は、一言(いちごん)もなく、十九年めに蘇武をかえした。
 このことがあってから、手紙のことを、『雁の使』というようになったのです」
 聞く人も話す人も、たったいま、銅の札に、「助けてくれ」と釘で書いて、海鳥の首につけて、飛ばせたばかりだ。みんなは、蘇武の話に深く感動した。水夫長は、すっかり感心して、
「生徒さん、ありがとう。よくわかった。蘇武という人は十九年もがんばったのだなあ。――わしらは、これからだ」
 龍睡丸乗組員は、海の人として、不屈の精神をもった、りっぱな者がそろっていた。めったなことには、気を落さない。命のあるかぎり、いつかすくわれる、という希望をかたく持っていた。海流に配達してもらう郵便にも、鳥に運んでもらう手紙にも、望みをすてはしない。
 小笠原老人は、みんなにいった。
「いまの話を聞いて、この島はいい島だと、つくづく思うね。あたたかくて、たべ物がたんとあって、人数も多くて、にぎやかだ。そのうえ、いろいろのいい話が聞かれて、勉強になる。ほんとにわれわれはしあわせだよ。いつまでもがんばることだ」
 いつも、料理を指導している運転士は、
「野ネズミや草の実で、十九年もがんばった人もある。さあ、魚とかめの昼飯だ。がんばろう」
 といいながら昼飯に立ちあがった。
 さて、昼飯のこんだては、カツオのさしみに、島に生えたワサビ、タカセ貝のつぼ焼、かめの焼肉である。野ネズミと草の実にくらべると、天と地のちがいがある。
「ありがたいなあ――このごちそうだ」
「何十年でもがんばるぞ」
 だれかれが、思わずもらしたことばだ。これはまったく十六人の気もちをいったものであった。
 一同は、天幕(テント)の中で、船長を上座に、その両がわに、ずらりと二列に向きあって、ござの上にぎょうぎよくすわって、料理当番のくばる食事を、いつもよりは、いっそうおいしく思った。そしてよくかんで、食糧のじゅうぶんなことを感謝しながらたべていると、雨もようだった空は、ぽつり、ぽつり、そしてたちまち、ひどい降りになってきた。
「それっ。水だ」
 みんなは、すぐに箸(はし)をおいて、大いそぎで、雨水をためるように、風よけ幕を、外の方へはり出した。こうして、小屋の屋根に降る雨水が、石油缶(かん)にどんどんたまるのを、楽しく見ながら、また食事が、にぎやかにつづくのであった。

 この日の午後は、雨の日の例によって、茶話会である。漁業長の捕鯨の話、帰化人範多銃太郎(はんたじゅうたろう)のラッコ猟の話、それにつづいて、小笠原老人が、午前中に流した銅板のはがきにつながりのある、船と郵便の話をした。

 おいらたちのわかいじぶん、捕鯨帆船は、一年ぐらいはどこへも船をよせずに、大海原を、あっちこっちと、鯨を追っかけて航海していたものだ。故郷や友だちへ手紙を出すことなんか、だれも考えていなかった。それでも太平洋には、郵便局が一つあった。
 それは、南アメリカのエクアドルの海岸から、西の方へ六百カイリのところ、太平洋の赤道直下に、火山の島々、ガラパコ諸島がある。それは、十何個の島を主とした、六十ばかりの火山島の集まりで、スペイン人が発見した諸島だ。
 ガラパコというのは、陸に住む大がめのことで、このかめは、陸かめのなかでいちばん大きなかめで、こうらの直径一メートル半もあって、人間を乗せてもへいきでのこのこ歩くのだ。ガラパコ諸島には、そのガラパコがたくさん住んでいるから、ガラパコ島というのだ。このかめには、べつに象がめの名がついている。からだが大きいからそういうのでもあるが、また、その足が、象の足によくにているからでもある。なんでもかめは七種類あって、島がちがうと、住んでいるかめの種類も、ちがうそうだ。
 つい近ごろまでこの島々には、まるっきり人が住まっていなかった。それで昔は、船をつけるのにいちばんつごうのいい島は、海賊の巣であったが、のちには捕鯨船が、この島の港に船をよせては、飲料水をくみこんだり、たきぎを切ったり、糧食の補給に、木の実や、野生の鳥、けだもの、それからガラパコをつかまえていた。
 いったい、この島にはめずらしい動物が多く、イグアナという大トカゲの、一メートルぐらいのものがたくさんいるし、飛べない鳥もいた。また小鳥たちは、人間を友だちと思っているらしく、へいきで人の肩にとまったり、靴の先をつっついてみたりした。
 この無人島の港に、百年ぐらいまえから、有名なガラパコ郵便局ができた。そして捕鯨船なかまには、たいへんに役にたった。この郵便局は、一八一二年英国と米国とが戦争したときに、英国の軍艦エセックス号のポーターという艦長が、こしらえたのだ。
 郵便局といっても、船から上陸した人が、すぐ目につく場所にある、熔岩(ようがん)のわれめの上に、とくべつに大きなかめの甲羅をふせて屋根として、その下へ、あき箱でつくった郵便箱をおいたものだ。ただそれだけだ。
 この郵便局ができてからは、捕鯨船の船員は、島に船をよせると、すぐに上陸して、かめの甲羅の下の郵便箱をさがして、じぶんや、じぶんの船にあてた手紙を見つけだす。そうして、じぶんが書いた、ほかの船の友達にあてた手紙を、この郵便箱に入れておくという、おもしろい習慣ができて、それが、ずっとつづいたのだ。
 もう一つ、太平洋の郵便配達では、ふうがわりなのがある。それは、赤道から、もっと南の方、南緯二十度のところに、トンガ諸島というのがある。それは、百個ばかりの小さな島の集まりだが、この中の一つ、ニューアフォー島のことを、水夫なかまでは、「ブリキ缶島」といって、ほんとうの島の名をいわないのだ。
 この小島は、どっちを向いても、いちばん近い島が、三百カイリもはなれているけれども、フィジー島とサモア島の間をかよう、汽船の航路のとちゅうにあたっているので、この島あての郵便物は、汽船が通りがかりに持ってきてくれるのだ。
 しかし、この島のまわりは、波があれくるって、郵便物を汽船から島へおろすことも、島からボートを漕(こ)ぎ出して、汽船に行って受け取ることもできないときが多いのだ。そこで、波の荒い季節中、この島あての郵便物を、ブリキ缶にかんづめにして、島の風上(かざかみ)から、海に投げこんでおいて、汽船はそのまま通りすぎて行く。島からは、これを見ていて、およぎの達者な住民がおよいでいって、このかんづめ郵便物を、波の間からひろってくるのだ。それでこの島が、ブリキ缶島とよばれるようになったのだ。


草ブドウ


 島にあがってから、われわれは、急にやばん人のような生活をはじめて、飲み水は、塩からい石灰分の多い井戸水。たべ物は、かめと魚ばかり。そのために十六人とも、すぐに赤痢のようになって苦しんだことは、まえに話したが、これにこりてみんなは、病気になったり、けがをしないように、いっそうおたがいによく気をつけるようになった。
 魚やかめは、いくらでもいて、いくらたべても、たべほうだいである。しかし、たべすぎて、からだをわるくしないように、水もやたらに飲むくせをつけないように、また、運動をよくして、からだを強くすることなど、こまかいところまでも注意した。
 われらの領土の宝島には、つる草が生えていた。宝島の当番が、このつる草に、ブドウににた小さな実がたくさんなっているのを発見して、その実を、本部島に送ってよこした。
 見たところ、むらさき色で、光るようなつやがあって、なんとなくどくどくしい感じもあるが、うまそうである。みんなひたいをあつめて、しらべてみたが、だれも何という草の実か、知っている者がない。
「アメリカには、こんな実があるだろう」
 運転士が、小笠原(おがさわら)老人にきくと、
「ここにいる三人は、小笠原島生まれで、アメリカを知りませんよ」
「なるほど、そうだった――」
 と、大笑い。
 ともかくも、うっかりはたべられない。せっかくいままで、艱難辛苦(かんなんしんく)をきりぬけてきたものを、また、これからさきも、命のあるかぎり、働こうというのに、名も知らぬ島の野生の草の実で、命をなくしたり、病気になっては、たまらない。私は、
「毒でないことが、はっきりするまで、たべてはいけない」
 と、いっておいた。
 ところがある日、宝島当番の者が、鳥のふんのなかに、この草の実の種を発見した。これは、まったく大発見であった。つぎの便船で、宝島から、流木やかめといっしょに、種入りの鳥のふんと、草の実とをたくさんに本部島へ持ってきた。
「どうでしょう、鳥がたべるのですから、人間もたべられると思いますが」
 鳥のふんのなかの種をしようこに、たべてもだいじょうぶという者があると、
「動物といっても、鳥と人間とは、たいへんなちがいだから」
 といって、不安に思う者もあった。
 いちばんねっしんに、たべてもだいじょうぶというのは、動物ずきの漁夫の国後(くなしり)である。かれはこういった。
「宝島の草ブドウは、たべてもだいじょうぶと思います。まず私が、みんなのために、たべてみたいのです。五粒か六粒、ためしにたべるのですから、まんいち、毒にあたっても、たいしたことはありません。それに鳥やけだものは、しぜんに身をまもることを、よく知っています。毒なものはたべません。鳥の試験でじゅうぶんです。この草ブドウは、十六人にとっては、なくてはならない食物と思いますから……」
 けなげなかれの気もちは、よくわかる。しかし、もっとたしかめたうえでないと、私は、たべてもいいとはゆるせない。
「とにかく、もうすこし待て」
 と、いっておいた。
 翌日、国後と範多(はんた)の二人が、
「鳥は、毒をよく知っています。人間がたべてもだいじょうぶです、ねんのため、つりたての魚の腹に、この実を入れてアザラシにたべさせてみましょうか」
 と、いってきた。
 この二人が、じぶんたちのきょうだいのように思っているアザラシで、動物試験をしようというのは、たべてもだいじょうぶと、たしかに信じているからだ。
 一方ではべつに、運転士と漁業長とが、実をつぶして、カニの口にぬってみたり、かめの口に入れてみたりして、ともかくも、鳥いがいの動物試験をしていた。
 種入りの鳥のふんが本部島についてから、三日めの朝、範多が、運転士の前にたって、頭をかきながら白状した。
「私はゆうべ、ねるまえに、草ブドウを十粒ほど、ないしょでたべましたが、とてもおいしくて、そのうえよく眠れました。けさは、このとおり元気ですし、腹ぐあいもたいへんいいのです。もう草ブドウはたべてもだいじょうぶです」
 かれはとうとう、みんなのためにたべたのだ。人間の試験は、こうしてすんだ。それから、みんながこの実をたべはじめた。
 うまい。何しろ野菜といったら、島ワサビだけであった。そこへ、草ブドウが発見されたのだ。こんなおいしい草の実は、生まれてはじめてたべるとみんながいった。草ブドウをたべだしてから十六人は、急にふとってきた。ひどい下痢をしてから、ひきつづいてよわっていた、漁夫の小川と杉田も急に元気になって、力仕事もいくらかはできるようになった。
 こうして、草ブドウは、宝島から本部島へ送り出す、重要輸出品となった。つみたての、むらさき色の小さなブドウににた草の実は、飲料水タンクである石油缶(かん)の、からになったのにつめられてかめと流木と塩といっしょに、本部島へ、便船ごとに運ばれてきた。
 この小さなつる草の実、われわれが、草ブドウと名をつけた実は、島ワサビのほかに、植物性食物のない十六人にとって、じつにたいせつな食糧となった。そこで、本部島にこの種をまき、また宝島からつる草をそのまま、根をていねいにほり出して、本部島にうつし植えて、栽培につとめた。それからまた、ほしブドウのように、実をかわかして、冬の食糧にたくわえる工夫もして、いつまでも無人島に住める用意をした。


われらの友アザラシ


 アザラシと、いちばんはじめに友だちになったのは、国後(くなしり)と範多(はんた)であった。そして、やがてどのアザラシも、人間となかよしになった。いっしょにおよいだり、投げてやる木ぎれを口で受けとめたり、頭をなでてやると、ひれのようになった前足で、かるく人をたたいたり、また、われわれがアザラシ半島に近づくと、ほえてむかえにきたりした。
 二十五頭のアザラシは、いつでも、アザラシ半島に、ごろごろしてはいないのだ。われらがアザラシをたずねても、一頭もいないことがある。そのときかれらは、自然の大食堂、海へ、魚をたべに行っているのだ。およぎの達者なこの海獣は、五、六頭ずついっしょに、島近くの海をおよいだり、もぐったりして、魚をたくみに口でとらえて、腹いっぱいたべると、島へあがって、ごろごろして眠っているのだ。
 そして、眠るときは、きっと一頭だけが、見はり番に起きていて、われらが近づくと、すぐになかまを起してしまう。また、五月のはじめに生まれたらしい、かわいらしい子どもアザラシが、五頭もいた。母親がこれに、およぎかたや魚のとりかたを、教えていることもあった。
 アザラシが島にいないときは、大きな声で、
「ほうい、ほい、ほい、アザラシやあい」
 と、海にむかってさけぶと、この声をききつけて、沖の方から、海面を走る魚形水雷のように、白波を起して、われこそ一着と競泳しながら、何頭も島に帰ってくる。
 そして、私たちが立っているなぎさにはいあがると、頭を、ぶるぶるっと、はげしく左右にふって、毛についた水のしずくをはらいおとし、それから、右と左の前足をかわるがわるふみかえて前へ出し、両方の前足が前へ出たとき、後足をあげて前へ引きよせる、おもしろい歩きかたをして近より、ふうふういって、頭をこすりつけるのである。
「おお、おお、よくきた、よくきた、どうだ魚をうんと食ったか」
 こういって、右手で頭をさすってやると、ほかのアザラシは、私が左手に持っている木ぎれをくわえて引っぱる。
 うしろにまわった二、三頭は、頭でぐんぐんおして、
「さあ、人間のおじさん、いっしょにおよいで遊ぼうよう」
 というような、そぶりをするのだ。
 そこで、立ちあがって、
「そうれ」
 といって、手に持った木ぎれを、力いっぱい、できるだけ遠く海へ投げると、アザラシどもは、たちまち海へとびこんで、しぶきをあげて、木ぎれに突進する。木ぎれをくわえ取ったアザラシは、とくいそうに、頭を高く水から出して、岸にむかっておよぎ帰る。ほかのアザラシは、はずかしそうに海面すれすれに、顔半ぶんを出して、そのあとにつづくのである。こんなに、われらと野生のアザラシとはなかよしになっていた。
 ところが、二十五頭のアザラシ群のなかに、ただ一頭、いつも、ひときわいばって頭をもたげ、りっぱなひげをぴんとさせ、胸をそらしている、雄アザラシがあった。
 このアザラシは、けっして人間をあいてにしなかった。
 お友だちにならなかった。
 国後や範多のような、アザラシならしの名人さえ近づけなかった。
 投げてやった魚は、横をむいて、たべようともしない。
 そして、
「なんだ、人間くさい魚。へん。おいらの食堂は太平洋だよ」
 と、いわぬばかりに、海にはいるとすぐに、大きな魚をつかまえて、口にくわえ、水から頭を高く出して、人間に魚を見せびらかすように、たべるのであった。
 そして、ほかのアザラシとよくけんかをして、きっと勝つのだ。
 この強いアザラシの頭には、かみつかれた大傷のはげがあって、いっそうかれをあらあらしく強そうに見せていた。
 このアザラシが、どうしたことか、いつのまにか元気な大男の川口に、すっかりなついてしまった。
 川口のやる魚なら、手のひらの上でたべた。川口がなでてやると、喜んで大きなひれのような前足で、川口をばたばたたたいた。川口が、どんなに喜んだかは、はたで見る者が、ほほえまれるほどであった。
 かれは、国後にさえなつかなかった、この勇ましい、そして強情なアザラシに、「むこう傷の鼻じろ」という名まえをつけた。それは、頭に大傷のあるこのアザラシは、鼻の上に一ヵ所、一かたまりの白い毛が生えている、めずらしいアザラシであったからだ。
「鼻じろ」は、川口のじまんのもので、まるで、弟のようにかわいがっていた。かれは、ときどき料理当番にたのんで、じぶんのたべる魚の半ぶんを、料理せずに、生のまま残しておいてもらって、「鼻じろ」にたべさせていた。
 ある日、夕食後のすもうで、川口が五人ぬきに勝って、みんなから拍手されたとき、「いや、『鼻じろ』にはかなわない。あいつは、二十四頭ぬきだ。アザラシの横網だよ」
 と、また「鼻じろ」のじまんをした。そしてみんなも、「鼻じろ」は、たしかにアザラシのなかで、いちばん強い王様であることをみとめた。川口はとくいであった。かれは「鼻じろ」のように胸をそらして、
「強い大将には、強いけらいがあるよ」
 と、いった。すると、水夫長が、
「大将さんははだかで、けらいがりっぱな毛皮の着物を着ているなんて、よっぽど、びんぼうな大将だ」
 といった。それでみんな、手をうって、大笑いに笑いこけた。
 これも、ほがらかな無人島生活の一場面だ。だが、「鼻じろ」がいちばん強いということが、あとで川口に、かなしい思いをさせることになった。


アザラシの胆(きも)


 さて、遭難して島にあがった当時、十六人は、ひどい下痢をしたが、それもじきによくなって、みんなもとどおりのじょうぶなからだになった。しかし、小川と杉田とは、ひきつづいてよわっていた。
 宝島の草ブドウの実をたべはじめてから、一時は元気になったように見えたが、その後少しもふとらないで、だんだんやせてくる。当人は、おなかぐあいがいいといって、力仕事に手を出してはいるが、どうも、たいぎらしい。とくべつにたくさん草ブドウをたべさせ、万年灯(まんねんとう)でおなかをあたため、おなかに毛布をまきつけたり、いろいろと手あてをつくすが、少しもききめが見えない。
 八月も中ごろになって、島の生活も四ヵ月になった。一同は、すっかり島生活になれて、はちきれそうないきごみで、日々の仕事にせいを出してるが、二人の漁夫の元気のないのが、みんなの気がかりであった。
 何かいい薬はないだろうかと、いろいろそうだんしたが、これはたぶん、胆汁(たんじゅう)のふそくからきた病気にちがいない、にがい薬をのませたらいいだろう。それにはアザラシの胆、胆嚢(たんのう)をとって、のませるのがいちばんいい。くまの胆嚢を「熊(くま)の胆(い)」といって、妙薬とされているから「アザラシの胆」も、ききめがあるにちがいない、と話がきまって、さっそくアザラシの胆をとることになった。ところが二人の病人は、「もう少し待ってください。草ブドウをたべはじめてから、じぶんでは、たいへんによくなったと思います。せっかく、あんなにわれわれになついているアザラシを、私たち二人のために殺すのは、かわいそうでなりません。しばらく待ってください。いまに、きっとよくなりますから」
 というのだ。
 じつのところ、だれ一人、アザラシを殺したくはないのだ。しかし、人間の命にはかえられない。
「アザラシだって、人助けの薬になれば、きっとまんぞくするよ。みんなのするとおりにまかせておけ」
 とさとしても、病人は承知しない。
「私たち二人は、そんなに大病人なのでしょうか。見はりやぐらの当番と、宝島当番はできませんが、かめの当番も、小屋掃除も、魚つりもできます」
 こういって、いかにも元気そうに、立ち働いてみせるのだ。その心持は、まったくいじらしい。どうかして、なおしてやりたい。だが、病人にさからって、アザラシを殺したなら、
「あれほどたのんだのに、とうとう、アザラシから胆をとってしまった。してみると、じぶんは、ひどい病気なのだ」
 こんなふうに、考えちがいをされてもこまる。もう少し、ようすを見てからにしよう、ということにしておいた。
 友だちとして、かわいがっているアザラシを殺す、ということは、病人でないほかの者にも、大きな問題であった。口にこそ出さないが、みんなは、
「かわいそうなアザラシ。とうとう、くる時がきてしまったのだ。アザラシよ、われらを、なさけ知らずとうらむな。とうとい人間の命を助けるのだ。魚だって、かめだって、あのとおりお役にたっているではないか……」
「しかし、アザラシ殺しの役目には、あたりたくないものだ」
 と思っていた。けれども、手配は、さすがにりっぱだ。
「いちばんききめのありそうな胆を持っているアザラシを、けんとうをつけておいて、いざとなってまごつかないようにしよう」
「薬のききめの多いのは、強いアザラシがいいのにちがいない。強くて胆の大きそうなアザラシをきめておこう」
 と、いうことになった。そのけっか、しぜんに「むこう傷の鼻じろ」の胆をとることに、きまってしまった。そして、いよいよやる時には、みんなでくじを引いて、あたった三人が、胆とり役を、かならず引き受けることにしてしまった。
「鼻じろ」の胆を薬にしようときまったのは、八月の末であった。この時、小笠原(おがさわら)老人は、
「はっはっは、『むこう傷の鼻じろ』か。何しろアザラシの王様だ。すばらしい胆だろう。どんな病気だって、いっぺんにすっとぶよ。――だがね、あとがこわい。元気がつきすぎて、『鼻じろ』とおんなじに、しょっちゅうけんかか。そうして、おいらがなぐられてよ、『むこう傷のあかひげ』か――あっははは」
 と、じょうだんをいった。するとすぐそばで、流木に腰をおろして、つり針の先を、ごしごしこすっていた川口は、立ちあがって、みんなの方にやってきた。
「いっとう強くて、胆の大きいのは、『鼻じろ』にきまっている。それが人助けのお役にたつのだ。やっぱりえらいや。お薬師様(病人をすくうといわれる仏さま)になるんだ……」
 元気なく、しんみりといった。かれは、いつものように、胸をそらしていなかった。前かがみに、砂を見つめていた。
「鼻じろ」の胆をとることにきまってから、川口は、毎日のように、魚を持って、「鼻じろ」のところへ行った。
「おい。鼻じろ。おまえは二人の病気をなおすのだ。えらいんだぞ。この魚をたべてお役にたつまでにもっと強くなれ」
 あらあらしい雄アザラシは、「ウオー」とほえて、魚をたべてしまうと、こんどは、川口の手に鼻をこすりつけて、うう、うう、うなりながら、あまえる。ひれのような前足で、川口をばたばたあおぐ。それから、鼻で川口をぐんぐんおして、なぎさにおし出して、しぶきを飛ばしていっしょに遊ぶ。いっしょにおよぐ。こうして魚を持っていくたびに、川口は、だんだんへんな気がしてきた。
「この『鼻じろ』が、殺されてしまったら、――いなくなったら……」
 と、考えるようになった。
「さびしくなるなあ――」
 と思うと、かなしい気もちが、心いっぱいにひろがるのだ。しかしすぐに、剛気なかれの本性は、それをふきけしてしまう。ちょうど、波がなぎさに、まっ白くくだけて、ぱっとひろがって消えてしまうように。


アホウドリのちえと力


 こうして、数日がたつうちに、八月もすぎてしまった。十月になると、海がだんだんあれてくるであろう。それだから、九月いっぱいに、宝島から、運べるだけのものを本部島へ運んで、冬をこす支度をしておかなくてはならなかった。
 それで私は、九月一日の朝早く、伝馬船(てんません)で本部島を出発して、あかつきの海を宝島へ向かった。一行は五人。私と水夫長と、宝島当番に交代する、三人の漕(こ)ぎ手であった。
 正午ごろ宝島へ着いて、その晩も、二日の晩も、宝島にとまって、塩の製造、かめの捕獲、流木の貯蔵、本部島へ植えかえる草ブドウの根のせわなどのさしずをしながら、島中を念入りにしらべた。二日の午後、ふとしたことから、アホウドリは感心な鳥であると、つくづく感じたことがあった。
 宝島には、十数羽のアホウドリが、いつでもいた。この鳥は日中、数羽ずつ群れて、海上を飛んでえさをさがしている。なにか見つけると、その一つのえさをうばいあって、大きなくちばしで、たがいにけんかをするのだ。これは、どこでも見られることだ。
 さて、えさをたべて、おなかがいっぱいになると、その一群は、海面にうかんでつばさを休め、のんきそうに波にゆられている。
 このアホウドリの一群が、波の上でつばさを休めている時には、きっと、そのなかの一羽が、なかまの上空を、ぐるぐる飛びまわって、見はりをしている。そして、ある時間がたつと、ふわりとなかまのうかぶ海面におりて、つばさを休める。すると、すぐに、ほかの一羽が飛びあがって、また、見はり番をして、ぐるぐる飛びまわっている。これは、その一群が海にうかんでいる間、一時間でも、二時間でも、きっとやっているのだ。
 この見はり番は、アザラシもやっていて、べつにめずらしいとは思わないが、見はり番のアホウドリが海におりて、やっと波にうかんで、まだひろげたつばさをおさめないうちに、すばやく、ほかの一羽が舞いあがる。そのようすは、こんどはだれの番だと、きめてあるように見えるのだ。
 水夫長は、すっかり感心して、その強い研究心から、
「船長。どの鳥が、命令するのでしょう」
 と、きくのだ。これには、私もこまった。
「さあ、だれが命令するのかなあ……」
 こう答えるより、しかたがなかった。
「鳥の法律かしら」
 この水夫長のひとりごとには、みんな大笑いをした。しかし、よく考えてみると、どうして、笑うどころか、まだ人間にはわからない、むずかしい問題なのだ。
 さて、この日の朝、昼飯のため、魚をつったところ、意外の大漁であった、夕食のために、残った魚を生ぼしにしておこうと、四、五十ぴきの魚を、流木の丸太の上に、ほしておいた。
 私たちが、本部島に植える草ブドウの根をほって、ていねいに、草であんだむしろでつつんでいる間に、ただ一羽舞っていた、見はり番のアホウドリが、なまぼしの魚を見つけて、何かあいずをすると、海にうかんでいた一群のアホウドリは、いっせいに舞いあがってきて、なまぼしの魚を、おおかたさらって行った。
「この、アホウめ。おきゅうをすえてやれ」
 と、腹を立てた漁夫が、なまぼしの残ったのにつり針をつけて、なぎさに投げておいて、一羽のアホウドリをつって、いけどりにした。そして、細い縄で、大きなくちばしを、しっかりとしばってしまった。
「人間さまの魚をとるから、こんなめにあうのだぞ。――舌切すずめの話を知っているか。おいらたちには鋏(はさみ)がないから、こうするんだ。おまえたちは、海から魚をとればいいのだ」
 こういいきかせて、くちばしをしばったまま、はなしてやった。
 おどろいたそのアホウドリは、島近くの海におりて、ばたばたさわいでいた。
 ところが、こんどは、われわれがおどろいた。というのは、これを見たなかまのアホウドリどもは、くちばしをしばられたアホウドリのまわりに、いっせいに舞いおりてきて、かわるがわる、くちばしをしばってある縄をつっついたり、かんだり、引っぱったり、ながい間、こんきょくほねをおっていたが、とうとう縄を取ってしまった。
 はじめから、海岸で、このようすを見ていたわれわれは、なんだかアホウドリに教えられたような気がした。
 水夫長は、水夫と漁夫にいった。
「えさをとりあって、けんかばかりしている鳥が、ああやって、ちえと力を出しあって、なかまをすくうのだ。おどろいたなあ。おいらたちも、鳥にまけずに、しっかりやろうぜ」
 私は、口にこそ出さなかったが、二人の病人は、どうしても、みんなの力とちえをあわせて、全快させないと、アホウドリに、はずかしいと思った。


川口の雷声(かみなりごえ)


 宝島に二晩とまって、三日めの夜あけに、かめ、流木、塩、草ブドウを、伝馬船(てんません)いっぱいに積みこんで、宝島をあとに、本部島へ漕(こ)ぎだした。
 いつもならば、三人が交代して宝島に居残るのであるが、飲料水タンクの石油缶(かん)が、どうしたことか、急に三つとももりだして、知らぬ間にすっかりからになってしまった。そして、水のはいっているのは、ただ一缶だけ。それも、半分いじょう使った残りなのだ。宝島からは、一てきの飲料水も出ないのだから、これでは、安心して三人の当番を残してはおけない。それで、一時、全員ひきあげることにして、八人が伝馬船に乗って、出発した。「まわりあわせ」というのには、まったくふしぎなことがある。この水タンクが、三つとも急にもり出したことは、十六人にとって、たいへんつごうのいいことになったのだ。
 九月三日の美しい日の出を、海上でむかえて、東へ東へと漕ぎ進んで、十時すぎに、本部についた。
 いつも三人だけ、宝島にはなれていたのに、ひさしぶりで、十六人の顔がそろった。伝馬船の荷物を、総員で陸あげしてから、石油缶にいっぱいつめてきた、おみやげの草ブドウの実を、みんなで、おいしくたべた。そして、二人の病人には、とくべつにたくさんわけてやった。これも、島のたのしいひとときである。
「ちょっとの時間だ。大いそぎで、だれかかわって、見はり当番にも、ごちそうしてやれ」
 私の一言で、見はり番にはかわりの者がのぼって、やぐらから当番の川口もよびおろされて、大喜びで草ブドウをほおばっていた。
 運転士が、るす中のことについて報告したが、おしまいに、
「それから、病人のことですが、おるす中に、よくいってきかせたのです。みんなが心配しているのだから、一日もはやく、アザラシの薬をのんで、元気になってくれ。おまえたち二人が、アザラシの胆(きも)をのんだら、みんなが、どんなに安心して喜ぶことだろう。二人のためばかりではない、みんなのためだからな、と申しますと、よくわかりました、早くのんでよくなりましょう、と、すっかり承知しました」
 と、つけくわえた。
「そうか、それはいい。では、さっそく実行しよう。やがて昼飯になるだろうが、それまでに、やってしまおう」
 そこで急に、アザラシの胆とり役の、くじびきがはじまった。見はり当番の川口は、「鼻じろ」から胆をとるくじびき、ときいて、さっと顔色をかえたが、そのまま走って、やぐらにのぼって行った。ほかの者は、昼飯までそれぞれの当番配置につこうとして、島の活気みなぎる仕事がはじまりかけた。
 アザラシの胆とり部隊は、隊長が水夫長、つづく勇士が、範多(はんた)と父島。この三人が、くじをひきあてたのだ。
 漁業長が、かなり大きな帆布を持ってきて、
「アザラシの死体は、手ばやくこれでつつんで、ほかのアザラシに見せないように」
 と、父島にいって、手わたしてから、三人に、
「いっぺんにアザラシどもをおどろかして、あの半島によりつかなくなっては、たいへんだから、そのへん、うまくたのむよ。それから、こっちは、はだかだから、『鼻じろ』に、かみつかれたり、ひっかかれたりして、けがをしないように」
 と、注意した。父島が帆布を持ち、水夫長と範多が、太いぼうをかついで、私たちに、ちょっと敬礼をして、
「うまく、やってきます」
 といって、三人が二、三歩あるきだした。その時だ。見はりやぐらの頂上で、
「あっ」
 という、とほうもない大きなさけびが、ただ一声。大声の持主、川口が、せいいっぱいの雷声を出したのだ。とつぜんのことで、みんな、びっくりした。ただごとではない。
「なんだ」
「どうした」
 十五人が、いっせいに見あげるやぐらの頂上では、川口が、もう一声も出せず、うでをつき出して、めちゃめちゃに足場板をふみならしているではないか。それを一目見て、
「気がちがったっ」
 ぎょっとしたみんなは、その場に、立ちすくんでしまった。


船だ


 川口が、気がちがったようにつき出したうでにみちびかれて、沖に目をうつすと、はるか水平線のあなたに、とても小さいが、くっきりと、スクーナー型帆船(がたはんせん)の帆が見えるではないか。
「あっ」
 こんどは地上の十何人が、だれもかも、手にしたものをほうり出して、とびあがった。
「たいへんだっ、船だっ」
「それっ。信号だっ、火だっ」
「伝馬(てんま)っ」
 総員は、右に左に、それこそとびちがうように走って、非常配置の部署についた。それが、またたくまに、みごとにてきぱきと、日ごろの訓練どおりに、手順よく進行した。
 三ヵ所から、みるみる黒煙がふきあがりはじめた。
 私は、双眼鏡を首にかけながらなぎさに走って、伝馬船にとび乗ると、伝馬船当番の三人の水夫は、もう、櫓(ろ)と櫂(かい)とをにぎっている。飲料水入りの石油缶(かん)をかついで、水夫長が乗りこむ。と私と水夫長と当番三人の、帽子と服とをひとまとめにしたつつみが、伝馬船に投げこまれる。数人が、伝馬船をなぎさからつき出す。
 すると、櫓も櫂もぐっとしわって、伝馬船は、ぐんぐん沖にむかって進んでいた。これがみんなほとんど同時に活動しだしたのだ。まるで、電気ボタンをおすと、大きな機械が一時に動き出すのとおなじように――
「ばんざあいっ」
 島に残った十一人が、のどもさけろとさけぶのも、はやうしろに、
「えんさ、ほうさっ」
 櫓と二つの櫂をしわらせて、うでっぷしのつづくかぎり、沖合はるかの帆船めがけて、ただ漕(こ)ぎに漕いだ。
 その帆船は、どこの国の船かわからない。はだかで漕ぎつけては、日本の名誉にかかわる。それで、まえから、こういう場合のことを考えて、船長と水夫長、それに伝馬船当番三人の、帽子と服とはひとまとめにしておいて、飲料水といっしょに、いざというとき、伝馬船につみこむ用意がしてあったのだ。あの船に近くなったら、ひさしぶりで服装をととのえて、どうどうと乗りこもう。
 ふりかえって見ると、島には、黒煙がいきおいよく立ちのぼっている。沖の船では、遭難者がすくいをたのむ信号と見ているにちがいない。一こくもはやく漕ぎつけよう。

 さて、島では、見はりやぐらにむらがりのぼって、沖の帆船と、だんだん小さくなって行くわれらの伝馬船をみんなだまって見まもっていた。昼飯をたべることなど、すっかりわすれている。
 あの剛気な川口が、せいいっぱいの雷声で、「あっ」と一声は出たが、あまりのうれしさに、それっきりのことばが出なかったのだ。あの場合、だれだってそうだろう。「あっ」というのは、「船だ」「帆だ」という意味なのだ。
 島にのこって沖を見つめている十一人は、説明のしようもない、ただ胸いっぱいの気もちで、だれもだまっている。目にはなみだがいっぱいだ。わかい者は、一時はこうふんもした。だが、じきにおちついた。老年組は、さすがに、岩のようにどっしりとしていた。せんぱいたちは、どんなときでも、りっぱなお手本を青年たちに見せているのだ。ここが、日本船員のえらいところだ。

 風が、ぴゅうぴゅうふきだしてきた。波のしぶきが、海面に白く立ちはじめた。その中を、伝馬船はあれ馬のように進んでいった。漕ぎ手は、いまこそ、たのむはこの二本の鉄のうでと、めざす帆船にへさきを向けて進むのである。けれども、漕いでも、漕いでも、帆船は近くならない。はじめは近く見えたが、四時間も漕いだのに、いっこう近くならない。
 島を漕ぎ出したのは、正午ごろであった。午後四時すぎやっと帆船が近くなった。
 私は遭難いらい、五ヵ月ぶりでズボンをはき、上着をきて、船長帽をかぶった。水夫長も三人の漕ぎ手も、交代で漕ぐ手を休める間に、服をきた。これは、われら日本船員のみだしなみだ。だが、はだしはしかたがない、難破船員だから。
 そのとき、私の双眼鏡のレンズにうつったものがある。
「おや。ゆめではないか」
 また見なおした。たしかにそうだ。
「おい。日の丸の旗だっ。よろこべ、日本の船だ」
「えっ。日本の船。しめたっ」
 水夫長も、水夫も、つけたばかりの上着をかなぐりすてて、猛烈に漕いだ。
 みるみる帆船は、すいよせられるように近くなる。ついにわれらの伝馬船は、帆船へ漕ぎついた。帆船から投げてくれた索(つな)をうけとって、伝馬船は帆船の舷側(げんそく)につながれ、上からさげられた縄梯子(なわばしご)をつたって、私たちは、さるのようにすばやく、帆船の甲板におどりこんだ。
 まっさきに甲板に立った私は、むらがって、私たちを見まもる船員の中央に立っている人を、一目見て、思わず、「あっ」とよろこびの声をあげてしまった。それは、この帆船的矢丸(まとやまる)の船長で、私にとっては友人の、長谷川(はせがわ)君であったのだ。大洋のまんなかで、二人は感激深い対面をしたのである。


的矢丸にて


 私たちの漕(こ)ぎつけた船、スクーナー型、百七トンの的矢丸は、政府からたのまれて、遠洋漁業をやっている帆船(はんせん)である。めったに船のくるところではない、このへんの海の漁業調査のため、パール・エンド・ハーミーズ礁(しょう)の北の沖を、西にむかって、暗礁(あんしょう)をよけて航海中、とつぜん、水平線に黒煙が二すじ三すじ、立ちのぼるのを見た。
「たぶん、外国の軍艦でも遭難しているのだろう。錨(いかり)のとどくところがあったら、ともかくも、碇泊(ていはく)しよう」
 それで錨を入れたのは、われらの本部島から、十二カイリ(二十二キロ)の沖であった。
「ボートらしいものが、やってきます」
「日本の伝馬船(てんません)です」
「乗っているのは、まっ黒い、はだかの土人です」
 望遠鏡で見はっていた当直の者から、このような、やつぎばやの報告を受けて、的矢丸の長谷川船長は、遭難した土人が漕ぎつけてくるのだ、と思いこんでいた。
 そこへ、縄ばしごをつたって、甲板によじのぼってきたのは報告どおりの、まっ黒な土人が五人。酋長(しゅうちょう)らしいのが、ただ一人、気のきいた服装をしている。その男が甲板に立って、きっと、こちらを見つめていたが、とつぜん、大きな声で、
「あっ。長谷川君」
 とよぶと、飛びつきそうなかっこうで、両手をひろげて、せまってくる。
 長谷川船長は、びっくりした。
「ええっ」
 目をすえて、土人を見きわめようとするまに、両うでを、力いっぱい、土人につかまれてしまった。でも、友人はありがたい。すぐにわかった。
「やっ。中川君。どうした――」
「龍睡丸(りゅうすいまる)は、やられた……」
「みんなぶじか」
「全員ぶじだ」
 それから私は、船長室にあんないされて、ひととおり遭難の話をしてから、すくってくれるようにたのんだ。
「われわれ十六人を、今すぐすくってくれれば、これにこしたことはない。しかし、君の船はまだ漁業がおわらないのに、急に十六人がやっかいになっては、食糧や飲料水にもこまるだろうし、漁業のさまたげにもなって、めいわくだろう。そこで、どうだろう、一人だけ日本へつれて帰って、報効義会(ほうこうぎかい)へ遭難のようすを報告させてくれないか。もし、それもできなければ、手紙一本だけ日本へ持って帰って、とどけてくれないか。今のところ病人が二人あるが、まだ一年二年は、命にさしさわりはあるまい。それに、十六人は今までの研究で、これからさき何年でも島でくらして行ける自信がある。米もまだ、節約したのこりが、三斗五升(六十三リットル)はあるから」
 両うでを組んで、目をつぶってきいていた長谷川船長は、
「君も知っているように、的矢丸は、やっと目的の漁場についたばかりだ。これから、ほんとうの仕事をはじめるところだ。今すぐ君たち十六人を、この船にひきとって、ここから、日本へ引き返すことはできない。それで、漁業がおわってから、みんなを日本へつれて行こう。それにしても、この島にいたのでは、命とたのむ飲料水にこまるだろう。さしあたり、いい水の出るもっと大きな島、ミッドウェー島に、十六人を明日にも送りとどけよう。そしてミッドウェー島で、的矢丸の漁業のすむまで待っていてくれ。
 米も寝具も服も何もかも、もう不自由をさせないよ。いい薬もある。
 ミッドウェー島は、ここから六十カイリばかり北西の方だ。ともかく今夜は、この船にゆっくりとまって行きたまえ、米のめしをごちそうするよ。あすの朝、本船をできるだけ島によせるから」
 といってくれた。

 その間、水夫長と三人の水夫は、水夫部屋にみちびかれて、心から同情する的矢丸乗組員の、まごころこめての接待をうけた。
 そして、きかれるままに、島生活の話をした。四人をとりまいて、目をまるくして、ねっしんに聞き入る人々は、ことごとに感心して、
「ふうん」
「ほほう」
 と、ときどき、声をたてたり、ためいきをついたりした。病人とアザラシの胆(きも)とりの話をきいて、なみだぐむ人もあった。
 的矢丸の水夫長が、
「本船には、いい薬がありますよ、なにしろ役所からの命令船ですからね。『熊(くま)の胆(い)』もありますよ。安心してください。本船は小さいが、それこそ、大船に乗ったつもりでね」
 と、しんせつにいってくれた。
「日本もえらくなったものだ。あたりまえの船がくるところじゃあない、こんな、太平洋のまんなかの無人島へ、日本船が二隻(せき)も集まったのだ。そして、一隻は難破、一隻はその助け船。これはまたふしぎなまわりあわせになったものだ」
 と、つくづく感心している者もあった。

「ご飯を、ごちそうしよう」
 と、上甲板の日よけ天幕(テント)の下に、とくべつにテーブルと椅子(いす)とをならべて、五人の席ができた。五人は長い間見なかった、白い、かたいご飯を、ごちそうになった。しかし、私はどうしても、それがのどをとおらなかった。
「ああよかった。十六人は、助かった――」
 ただそればかりで、胸がいっぱいだ。お茶をのんでも、味がわからない。まして、ならべてある心づくしのお皿に、何があるのか……
 水夫長も水夫も、おなじらしい。かれらは、ご飯を一口ほおばっては、いつまでもかんで、なみだをぽろぽろこぼしている。そして、半分腰をうかして、私の顔をときどき見るのだ。
「はやく、島の連中に、このよろこびを知らせてやりましょう」
 と、あいずをする気もちは、よくわかる。かれらにも、ものの味などは、わからないのだろう。こうなっては、じっとしてご飯をもぐもぐかんではいられない。私は、立ちあがった。
「長谷川君、ありがとう。一こくもはやく、島の連中をよろこばせてやりたい。ぼくはもう帰る。ご飯は、とちゅうの弁当にもらって行くよ」
「たいした風ではないが、少し波もある。夜はむりだよ、とまっていけよ」
 しんせつにいってくれるが、あした、的矢丸を本部島の近くへよせてもらうことをやくそくして、私たち五人は、夕方五時すぎに、ふたたび伝馬船に乗って、的矢丸をはなれた。
 そして、本部島の方角にけんとうをつけて、元気よく漕いだ。


よろこびの朝


 島では日がくれてから、かがり火を、さかんにもやした。夜どおし交代で、かがり火当番をしてもやしつづけた。そのころやっと、みんなが、いろいろとうわさをはじめた。
「どこの国の船だったろう」
「助けてくれるかしら」
「遠い外国へ行く船だったかもしれない」
 青年たちは、眠られぬらしい。夜がふけても、かがり火のまわりに集まっている。漁業長と小笠原(おがさわら)老人が、かわるがわるいった。
「当番だけ起きていて、火をもやしつづければよい。あとの連中は、みんなおやすみ。いくらここで気をもんでも、どうにもならないよ。なるようになるのだ。親船に乗った気でいるというのはこういうときのことだ。安心して、さあさあ、おやすみ」
 こうして、青年たちをたしなめた。
 太平洋のまんなかの波にうかぶ、小さな伝馬船(てんません)には、風はすこし強すぎたが、雲の切れめにかがやく星をたよりに、波をおしわけて漕(こ)いだ。「十六人は助かったのだ」このよろこびは、人間のうでの力に人間いじょうの力をつけた。こうなっては、二本のうでは、電気じかけの機械のように、少しもつかれない。ただ漕ぎつづけた。
 ま夜中の一時ごろか、水平線の一ところ、雲が、ぽっと赤いのを見つけた。島でたく大かがり火が、雲にうつっているのだ。もうだいじょうぶだ。島は見つかった。
 火のうつっている赤い雲をたよりに、一晩中漕いだ。そして翌日、すなわち九月四日の夜あけに島に帰りついた。そのとき青年たちは、まだ眠っていた。かがり火当番と、見はりやぐらの当番と老年組は、なぎさに走ってきた。
「おうい、助かったぞ。みんな起きろ」
 この一言で、島はまるで、蜂(はち)のすをひっくりかえしたようなさわぎになった。
 われらは、ついに助けられたのだ。小さな名もない島から、おとなりの、大きなミッドウェー島へ、海上六十カイリの引っこしをするのだ。
 みんな、大よろこびで、荷づくりがはじまった。めいめい研究したものを、とりまとめたり、めぼしい品物を集めたり、小屋をかたづけたり……
 糧食がかりの運転士が、一同にいった。
「みんな、不自由を、よくしんぼうしてくれた。きょうは、ありったけのごちそうをするから、えんりょなく註文してくれ」
 わかい者たちは、よろこんだ。
「かたい、白いめしをたいてください」
「ライスカレーを作ってください」
「パインアップル缶(かん)をあけてください」
「あまいコンデンスミルクを願います」
 料理当番は、てんてこまいだ。
 十六人は、島ではじめての、そしていちばんおしまいの、大ごちそうの朝飯のまえに、一同そろって、海水に身を清めてから、はるか日本の方角にむかって、心から神様をおがんだ。
 それから私は、整列している一同に、いった。
「いよいよ、この島を引きあげるときが来た。考えてみると、よくも、あれだけの困難と不自由とをしのいで、海国日本の男らしく、生きてきたものだ。
 一人一人の、力はよわい。ちえもたりない。しかし、一人一人のま心としんけんな努力とを、十六集めた一かたまりは、ほんとに強い、はかり知れない底力のあるものだった。それでわれらは、この島で、りっぱに、ほがらかに、ただの一日もいやな思いをしないで、おたがいの生活が、少しでも進歩し、少しでもよくなるように、心がけてくらすことができたのだ。
 私たちはこの島で、はじめて、しんけんに、じぶんでじぶんをきたえることができた。そして心をみがき、その心の力が、どんなに強いものであるかを、はっきり知ることができた。十六人が、ほんとうに一つになった心の強さのまえには、不安もしんぱいもなかった。たべるものも、飲むものも、自然がわけてくれた。アザラシも、鳥も、雲も、星も、友だちとなって、やさしくなぐさめてくれた。これも、みんなの心がけがりっぱで、勇ましく、そしてやさしかったからだ。私は心から諸君に感謝する。ありがとう。
 これから、おとなりのミッドウェー島で、三ヵ月もくらせば、的矢丸がむかえにきてくれる。ミッドウェー島に引っこしてからは、この経験したことに、みがきをかけて、ほんとうのしあげをしなくてはならない。いっそう、よくやってもらいたい。あらためて、みんなにお礼をいう」
 私は、みんなに対して、まごころこめて、おじぎをした。
 十五人も、ていねいに頭をさげた。しばらくは、みんな、銅像のように立っていた。すすり泣く者もあった。
 小笠原老人が、一歩前へ出た。頭をさげて礼をしてから、とぎれとぎれにいった。
「年の順で、一同にかわりまして。……ただ、ありがたいと思います。この年になって、はじめて、生きがいのある一日一日を、この島で送ることができました。心が、海のようにひろく、大きく、強くなった気がします。
 ありがとうございます。このうえとも、よろしくお願いいたします」
 私は、このときの感激を、いまでもわすれない。みんなも、そういっている。心と心のふれあった、とうといひびきを感じたのだ。

 たのしい朝飯のはしをとった。笑い声が、たえまなくわきあがる。水夫長は川口に、なによりのみやげ話をした。
「的矢丸には、いい薬がある。『熊(くま)の胆(い)』もあるよ。よろこべ、『鼻じろ』の胆(きも)はようなしだ。あいつも命びろいをしたよ」
 川口は、近ごろはじめて、胸をそらして、
「うあっ、はっはっ」
 と、雷声でごうけつ笑いをした。それがまた、とてもうれしそうだったので、十五人も声をそろえて、
「うあっ、はっはっ」
 と、大笑いをした。
 食後、運転士から、一同に、
「的矢丸の人たちが、ここへ上陸するまでに、ズボンだけでもはいておけ。はだかは、もうおしまいだ」
 と、注意した。


さらば、島よ、アザラシよ


 かくて、この日の午後、的矢丸は本部島の沖に近よって、伝馬船(てんません)一隻(せき)と、漁船三隻をおろして、乗組員は、十六人をむかえにきた。
 的矢丸の船員は、島のあらゆる設備を見て、ただ感心するばかりであった。かめの牧場におどろきの目を見はり、われらの友アザラシの、頭やおなかをさすってみた。川口は「鼻じろ」を的矢丸の人たちに紹介した。
 的矢丸船員も手つだって、龍睡丸(りゅうすいまる)の伝馬船と、的矢丸の四隻の小船とは、何べんも、島と的矢丸との間をおうふくして、荷物を運んだ。その荷物が、ふうがわりなもので、引っこし荷物のほかに、的矢丸の糧食にするため、たくさんの海がめと、石油缶(かん)につめた貴重な雨水が、三十缶、料理用たきぎとして、流木をまきにしたものが、八十五束もあった。

 国後(くなしり)、範多(はんた)、川口をはじめ、アザラシととくべつ仲よしの連中と、もう、ふたたび見ることのできないアザラシたちとのわかれは、見る人々の心を動かした。
 十六人が島から引きあげることを、アザラシどもは察したのであろう。伝馬船のあとをしたっておよいだりもぐったりして、沖の的矢丸までついてきた。
 的矢丸の長谷川(はせがわ)船長は、ほろりとしつつ、いった。
「野生のアザラシでも、こんなになつくのですなあ。はじめて知りましたよ。これはいい報告の材料になりました」
 夕方、的矢丸は、ようやくふきつのった風に帆をはって、本部島をはなれた。われら十六人は、目になみだをいっぱいためて、いつまでも、このなつかしい島を見送った。
 ミッドウェー島に、うつり住むとばかり思っていた十六人は、思いがけなくも、そのまま的矢丸で、航海をつづけることになったのだ。それには、つぎのようなわけがあった。
 はじめ、私たちが救いをたのみに的矢丸に漕(こ)ぎつけたとき、十六人の島生活の話をきいた、的矢丸の水夫や漁夫たちは、
「えらいもんだなあ」
 と、すっかり感心してしまった。そして、伝馬船が島へむかって出発したあと、十六人のうわさばかりしていた。そこへ、日がくれてから、水夫長が、水夫部屋へとびこんできた。
「おい、みんな聞いたか、あす、十六人をミッドウェー島へ移すのだとさ」
「どうして、本船に乗せないのです」
「糧食と飲料水の心配なら、わしら、いままでの半分でも、四半分でも、がまんします。どうか、本船に乗せてあげてください」
「そうだとも。十六人は、わしらのお手本だ」
「船長に、みんなで、お願いしよう」
 こんなわけで、一同の願いがきき入れられて、十六人は、的矢丸に乗り組むことになったのだ。船長も、はじめから、こうしたかったのだ。しかしそうすれば、乗組人数は、これまでの二倍になる。米は、数ヵ月よぶんによういしてあるからだいじょうぶだが、水タンクの大きさにはかぎりがある。飲料水は、いままでの一人一日の量を半分にしても、こののち幾日も雨が降らず、水がえられないと、さらに三分の一にも、へらさなくてはなるまい。これを、部下の船員が、はたしてしんぼうするだろうか。この心配から、気のどくではあるが、十六人に、ミッドウェー島で待っていてもらうことを考えたのであった。


母国の土


 的矢丸は、できるだけ水を節約しつつ、愉快な航海をつづけた。十六人が乗り組んでから、船内は、いっそうほがらかに、的矢丸乗組員は、たいへん勤勉に、そして、規律正しくなった。それは、十六人が恩返しに、的矢丸の仕事に、まごころをつくして働くのを、見ならったからだ。
 島の教室は、的矢丸船内にうつされた。そこでは、的矢丸乗組員の一部もくわわって、学習がはじまった。こうして龍睡丸(りゅうすいまる)乗組員は、勉強のしあげができた。また、的矢丸も、りっぱなせいせきで、遠洋漁業をすませて、故国日本へ帰ってきた。

 明治三十二年十二月二十三日。十六人は、感激のなみだの目で、白雪にかがやく霊峯(れいほう)富士をあおぎ、船は追風(おいて)の風に送られて、ぶじに駿河湾(するがわん)にはいった。そして午後四時、赤い夕日にそめられた女良(めら)の港に静かに入港した。
 十六人は、的矢丸の人たちに、心の底から感謝のことばをのこして、「よし、やるぞ」の意気も高らかに、なつかしい母国の土を、一年ぶりでふんだ。そして、すぐその足で、女良の鎮守(ちんじゅ)の社(やしろ)におまいりをした。
 島で勉強したかいがあって、いままで、ろくに手紙もかけなかった漁夫や水夫のだれかれが、りっぱな手紙を出して、両親や兄弟を、びっくりさせたり、よろこばした話もある。また、四人の青年は、翌年一月、逓信省(ていしんしょう)の船舶職員試験に、みごときゅうだいして、運転士免状をとった。これだけでも無人島生活はむだではなかったと、私はうれしい。
 その後、しばらくして十六人は、また海へ乗り出して行った。

 中川船長の、長い物語はおわった。ぼく(須川(すがわ)は、夢からさめたように、あたりを見まわした。物語のなかに、すっかりとけこんでいたので、よいやみせまる女良の鎮守の森の、大枝さしかわすすぎの大木の根もとに、あぐらをくんでいるのだと思っていたが、この大木は、練習船琴(こと)ノ緒(お)(まる)帆柱で、頭上にさしかわす大枝は、大きな帆桁(ほげた)であった。
 見あげる帆桁の間からは、銀河があおがれた。夜もふけて、何もかも夜露にぬれ、帽子からぽたりと落ちた露といっしょに、なみだがぼくの頬を流れていた。








底本:「無人島に生きる十六人」新潮文庫、新潮社
   2003(平成15)年7月1日発行
   2003(平成15)年10月15日4刷
底本の親本:「無人島に生きる十六人」講談社
   1948(昭和23)年10月
入力:kompass
校正:松永正敏
2004年5月8日作成
2012年5月25日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。







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[#…]は、入力者による注を表す記号です。








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