フランツ・カフカ 城 

「拝啓。すでにご存じのように、あなたは領主の仕事に採用されました。あなたのすぐ上に立つ上役はこの村の村長で、この人があなたの仕事と報酬条件とについていっさいのくわしいことをお知らせするでしょう。また、あなたはこの村長に報告の義務を負います。しかし、私もやはりあなたを眼から放さないでしょう。この手紙を伝達するバルナバスは、ときどきあなたの希望を聞くためにあなたのところへいき、それを私に伝えるでしょう。私はできるだけあなたの意に添う用意があるものとご承知下さい。働く者が満足しているということこそ、私の関心事であります」
 署名は読めなかったが、署名のそばに「X官房長」と印刷されていた。
「待ってくれ」と、Kはお辞儀をしているバルナバスにいい、自分に部屋を見せるように、宿の亭主にいいつけた。この手紙のことを考えるためにしばらくひとりになりたかったのだった。ところで、バルナバスは彼にひどく気に入ってはいたが、ただの使いにすぎないのだ、ということを思い出し、この男にビールをやるように命じた。男がビールをどんなふうに受け取るだろうか、とKは注意して見ていたが、彼は明らかにひどく悦んでそれを受け取り、すぐに飲んでしまった。それからKは亭主といっしょに出ていった。この小さな家にはKのためといってもただ小さな屋根裏部屋が用意できるだけであり、それさえもいろいろな困難があった。というのは、それまでその部屋に寝ていた二人の女中をほかへ住まわせなければならなかったのだ。実をいうと、ただ二人の女中を追い払っただけの話で、そのほかには部屋は少しも変わらず、たった一つのベッドにシーツ一枚あるわけでなし、ただ一、二枚のクッションと馬の鞍被(くらおお)い一枚とが、ゆうべ置き去りにされたままの状態で残されているだけであった。壁には一、二枚の聖人の絵と兵隊の写真とがかかっていた。風を入れた形跡もなかった。どうも新しい客が長くはいないと思っていたらしく、客を引きとめるために何一つやってはなかった。しかし、Kは万事承知して、毛布で身体をくるみ、机に腰を下ろして、一本の蝋燭(ろうそく)をたよりに手紙を読み始めた。
 手紙はまとまりがなく、自由意志をみとめられた自由な人間に話すようにKに語りかけている個所があった。上書きがそうで、彼の希望に関する個所がそうだった。ところが一方、あけっ放しにか遠廻しにか、彼が例の官房長の地位からはほとんど目にとまらぬちっぽけな一労働者として扱われている個所があった。官房長は「彼を目から離さない」よう努める、というのだが、彼の上役は村長にすぎず、しかもこの村長に報告の義務を負わされているのだった。彼のただ一人の同僚は村の警官ぐらいなのだろう。これは疑いもなく矛盾(むじゅん)であり、矛盾はわざとつくられたにちがいないほど歴然としていた。こんな矛盾をさらけ出しているのは役所のあいまいな態度のせいにちがいないと考えるのは、こういう役所に関してはばかげた考えというもので、そんな考えはほとんどKの頭を掠(かす)めなかった。むしろ彼はその矛盾のうちに、公然とさし出された選択の自由を見たのであった。彼がこの手紙の指示から何をしようと思うのか、城とのあいだにともかくもほかの連中とはちがってはいるがただ見かけだけにすぎない関係をもつような村の労働者であろうとするのか、あるいは、ほんとうは自分の仕事関係のいっさいをバルナバスの通知によってきめさせる見かけだけの村の労働者であろうとするのか、この選択が彼にはまかせられているのだった。Kは選ぶのにためらわなかった。たといこれまでにしたような経験がなかったとしても、ためらいはしなかったろう。ただ、できるだけ城の偉い人たちから遠く離れて、村の労働者として働くときにだけ、城の何ものかに到達できるのだ。彼にとってまだ不信の念を抱いている村の連中も、もし彼がたとい彼らの友人ではなくとも彼らの仲間となったときに、やっと話し始めるだろう。そして、もし彼がひとたびゲルステッカーやラーゼマンと区別されなくなれば、――大至急そうならなければならない。それにすべてはかかっているのだ――彼にはきっとあらゆる道が一挙に開けてくるのだ。それらの道は、ただ上の城の偉い人たちと彼らの思召(おぼしめ)しとにまかせているだけであれば、永久に閉ざされているばかりか、目に見えないままでいるにちがいないのだが。もちろん一つの危険はあるのであって、その危険は手紙のなかにも十分に強調されており、まるでのがれることができないものであるかのように、一種の悦びをもって書き表わされている。危険というのは、労働者であることだ。勤務、上役、仕事、報酬条件、報告、働く者、そんなことが手紙にいっぱい書かれている。そして、別なこと、もっと個人的なことがいわれていても、それはそうした観点から述べられているのだ。Kがもし働く者であろうとすれば、それになれるのだが、そうすればひどく深刻な話で、ほかのものになる見込みはまったくないのだ。Kは、ほんとうの強制におびやかされているのではない、ということを知ってはいた。そんなものを恐れてなんかいなかったし、少なくとも今の場合そんなものを恐れはしなかった。しかし、気力を失わせるような環境、幻滅に慣(な)れてしまうこと、またそれぞれの瞬間の気づかない影響力、そうしたことのもつ大きな力を彼は恐れていた。だが、そうした危険とこそ彼は闘わなければならないのだ。手紙はまた、もし闘いを生じるようになったなら、Kのほうが不敵にも闘いを始めたのだ、ということもあからさまに書いていた。それは微妙に表現されていて、安らかでない良心だけが――それは安らかでないだけで、けっしてやましいわけではないのだ――気づくことができるものであった。つまり、彼を勤務に採用することに関して「ご存じのように」と書いてある言葉がそれである。Kはすでに到着を報告したが、それ以来、手紙が表現しているように、自分が採用されたのだ、ということを知っていたのであった。



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