フランツ・カフカ 城 

 村長は時計を見て、薬をさじの上にあけ、それを呑みこんだ。
「あなたはきっと城のなかの事務組織のことだけしかご存じでないのでしょう?」と、Kはぶしつけにたずねた。
「そうです」と、村長は皮肉げな、しかしありがたいというような微笑を浮かべて、いった。「その組織がまたいちばん重要なものなのです。ところで、ブルンスウィックについていうと、あの男を村から追い払うことができたら、われわれはほとんどみんながうれしいんですがね。ラーゼマンだってうれしくないわけじゃないはずです。ところが、そのころ、ブルンスウィックはちょっとした勢力を得ました。雄弁家でないけれど、大声でわめく男で、それで多くの人たちには十分だったのです。そこで私はこの件を村会に提出せざるをえないというはめになったのですが、これはともかくはじめのうちはブルンスウィックのただ一つの成功でした。というのは、もちろん村会は大多数が測量技師のことなど別に問題にしていなかったのです。それに、この件はすでに何年も前から起っていたのですが、今にいたるまでずっと決着しなかったのでした。それは一部分はソルディーニの良心的なやりかたからきたことであり、彼は多数派の根拠も反対派の根拠もきわめて注意深い調査によって探り出そうとしたのでした。それから一部分はブルンスウィックの愚かさと名誉心とからきたのです。この男は役所といろいろな個人的なつながりがあって、彼の空想力によってたえず新しいことを考え出しては、そうした役所とのつながりを動かしていました。もとよりソルディーニはブルンスウィックにだまされたりなどはしませんでした。どうしてブルンスウィックがソルディーニをだますことなんかできるでしょう。――けれども、まさにだまされないためには、新しいいろいろな調査が必要で、それがまだ終らないうちに、ブルンスウィックは早くもまた何か新しいことを考え出しているのでした。まったくあの男は活動的なやつで、それも彼の愚かさからくるのです。ところで、われわれの役所の組織の特別な性格についてお話しするときになりましたね。その組織の正確さというものに対応して、それはきわめて敏感なのです。一つの件がきわめて長いあいだ吟味(ぎんみ)されていると、その吟味がまだ終ってしまってはいないのに、突然、電光石火の勢い、思いもかけなかったようなところ、またあとからではもう見出すことができないようなところに、一つの解決が生まれるということがあるものです。その解決は、用件をたいていはきわめて正しく、しかしともかく気まま勝手に片づけてしまうのです。まるで、役所の組織が、おそらくは取るにたらぬような一つの問題に何年ものあいだ駆り立てられ、緊張していることにもはや我慢できなくなり、役人の助けを借りないでみずから決定を下してしまうようなものです。もちろん何も奇蹟が起ったわけではなく、きっと役人のだれかがそうした処理を書いたのか、あるいは書かないで決定を下したのか、どちらかにちがいありません。ところが、いずれにしろ、少なくともわれわれのところからは、つまりここからは、いや、そればかりでなく役所からも、どの役人がこの件で決定を下したのか、そしてどういう理由から決定を下したのか、ということははっきりとさせられないのです。監督の役所がそのことをずっとあとになってやっとはっきりさせるのです。しかし、われわれにはもうその結果はわかりません。それに、そのころにはそれはほとんどだれにももう興味はありませんからね。ところで、すでに申し上げたように、まさにこうした決定はたいていの場合すばらしいものですが、ただそうした決定で困ることは、普通は次のようなことになるんですが、こうした決定についてわかるのは遅くなりすぎてからのことで、そのため決定がわかるまで、ほんとうはとっくに決定されてしまっている事柄について依然として熱心に論議している、ということになるのです。あなたの件でこうした決定が行われたかどうかは私にはわかりません。――いろいろな点でそうだといえますし、またいろいろな点でそうではないといえます――しかし、もし決定が下されたのであれば、招聘状があなた宛に送られ、あなたがここまで長い旅をしてこられたわけで、その場合に長い時間が経ち、ソルディーニはそのあいだ依然としてここで同じ問題にたずさわって、へとへとになるまで仕事をし、ブルンスウィックは策動をつづけ、私はこの二人に悩まされていたわけです。そういう可能性は今私がただ仄(ほの)めかしているだけのことですが、次のことは私もはっきり知っています。つまり、ある監督の役所がそのあいだに、A課から何年も前に村に宛てて測量技師についての照会が行われているのに、これまでその返事がきていない、ということを発見したのです。最近、私のところへ照会がきて、それでもちろん事の全貌(ぜんぼう)が明らかにされました。A課は、測量技師は必要でないという私の回答に満足し、ソルディーニは、自分がこの件については係ではなかったということ、そしてむろん自分の責任ではないのだが、こんなにたくさんの不必要な気骨の折れる仕事をやってきたのだということを、みとめないわけにいかなかったのです。もし新しい仕事がいつものように四方から殺到してきていなかったら、そしてもしあなたの件がただきわめて小さな件にすぎないのでなかったならば、――あなたの件は、小さな件のうちでももっとも小さなものといってもいいくらいです――われわれはきっとみなほっと息をついたことでしょう。ソルディーニ自身さえも息をついたことだろう、と思います。ただブルンスウィックだけがぶつぶついったのですが、それもほんのお笑い草にすぎませんでした。ところで、測量技師さん、私の失望を考えてもみて下さい。事が全部うまく片づいたあと――そして、それからもすでにまた長い時が流れ過ぎたのですが――突然、あなたが現われ、またこの件がはじめからやりなおしという模様なんですからね。この件は私に関する限りどうしてもみとめまい、と私は固く決心していますが、そのことはきっとわかっていただけましょうね」
「わかりますとも」と、Kはいった。「だが、もっとよくわかることは、この土地では私についておそろしく不法な扱い方をしているということです。おそらくは法律についてもです。私としてもそれを防ぐことができるでしょう」
「どうやってそれを防ぐおつもりですか?」と、村長がきく。
「それは打ち明けてしまうわけにはいきません」と、Kはいった。
「無理にとはいいませんがね」と、村長はいう。「ただ、あなたにお考えいただきたいのですが、あなたにとっては私は――なにも友人だなどとはいいません。というのは、われわれはまったくの他人ですからね――だが、いわば仕事の上の友だちなのです。ただ、あなたが測量技師として迎えられることは、私はみとめるわけにいきません。そのほかのことでは、いつでも信頼して私に相談して下すってかまいませんよ。もちろん、たいしたものではない私の権限の範囲内でのことですが」
「あなたはいつも、私が測量技師として採用されるべきかどうか、ということについてお話しになりますが、私はすでに採用されたのですよ。ここにクラムの手紙があります」
「クラムの手紙ね」と、村長はいった。「それはクラムの署名があることで貴重で名誉なものです。それにその署名はほんもののようです。しかし、そのほかの点では――まあ、自分ひとりだけでそれについて意見はあえて申しますまい。――ミッツィ!」こう叫んで、次にいった。「ところで、お前たちはいったい何をしているのかね?」
 長いあいだ無視されていた助手たちとミッツィとは、探している書類を見つけ出さなかったようだった。そこで、いっさいのものをまた戸棚のなかへしまおうと思ったが、書類がきちんとまとめられていなかったので、うまくしまうことができないでいた。そこで、おそらく助手たちが思いついて、それを実行しているところだったが、二人は戸棚を床の上に寝かせ、すべての書類をそのなかにつめこみ、次にミッツィといっしょになって戸棚の扉の上に坐って、扉をじわじわと押えつけようとしていた。
「それではあの書類は見つからなかったのだね」と、村長がいった。「残念ですね。だが、その話はもうおわかりですね。ほんとうはもう書類なんかいらなくなったのです。ともかく書類はまだ見つかるでしょうが。おそらく学校の先生のところにあるのでしょう。あの人のところにはまだ非常にたくさんの書類があります。だが、ミッツィ、蝋燭をもってここへきてくれ。そして、この手紙を私といっしょに読んでくれ」
 ミッツィがやってきたが、彼女がベッドのはしに坐り、頑強で元気あふれる夫に身体を押しつけると、彼女はいっそう色あせ、みすぼらしく見えた。夫は彼女を抱いたままでいた。彼女の小さな顔だけは、今や蝋燭の光のなかできわ立って見えたが、その顔の輪郭はきびしく、ただ老年の衰えによってだけいくらかやわらげられていた。手紙に視線を投げるやいなや、彼女は軽く両手を合わせた。
「クラムのだわ」と、彼女はいった。



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