フランツ・カフカ 城 

 次に二人はいっしょに手紙を読み、少しばかりささやきを交わしていた。一方、助手たちはちょうど「万歳!」と叫んだところだった。とうとう戸棚の扉を押えて閉めたのだ。ミッツィは静かに感謝の面持で彼らのほうを見やった。最後に村長がいった。
「ミッツィが完全に私と同意見なので、このことをあえて申し上げてよいと思います。この手紙はおよそ役所の公文書ではなくて、私簡です。それは〈拝啓〉という書き出しによってもすでにはっきりとわかります。その上、この手紙のなかでは、あなたが測量技師として採用された、ということは一こともいわれていません。むしろ一般的に領主に仕える勤務のことが問題となっていて、それも強制的にいっているわけではなく、ただ〈ご存じのように〉という条件つきであなたは採用されているのです。つまり、あなたが採用されたことの立証責任があなたに課せられているという意味です。最後に、職務上のことに関してはもっぱら村長であるこの私を直属の上役として相談しろ、と命令されています。この私がいっさいのこまかいことをあなたにお知らせするはずだ、とね。ところで、そのことは大部分はすでにお話ししてしまったわけです。公文書を読むことを心得ており、したがって公文でない手紙などはもっとよく読める者にとっては、こうしたことはすべてあまりにもわかり切ったことです。よそ者であるあなたがそのことをおわかりにならないのは、私には別に不思議ではありません。全体としてこの手紙の意味しているところはただ、あなたが領主に仕える勤務に採用された場合に、クラムが個人的にあなたのことを心配するつもりだ、というだけのことです」
「村長さん、あなたはあんまりうまくこの手紙を解釈されたので」と、Kはいった。「結局のところ一枚の白紙の上の署名しか残らなくなってしまいましたね。それによって、あなたが尊敬するとおっしゃったクラムの名前をおとしめておられるのだ、ということにお気づきにならないのですか」
「それは誤解です」と、村長がいった。「わたしはこの手紙の意味を見そこなってはいません。私の勝手な解釈でそれを軽んじたりなんかしていませんよ。その逆です。クラムの私簡は公文書よりもずっと意味をもっています。ただ、あなたがそれにつけ加えているような意味はもってはいないのです」
「シュワルツァーをご存じですか」と、Kがたずねた。
「いや、知りません」と、村長はいった。「お前ならたぶん知っているね、ミッツィ? お前も知らないのか。いや、私たち二人は知りません」
「それは変ですね」と、Kがいった。「彼は下級の執事の息子ですから」
「測量技師さん」と、村長はいった。「どうして私が、すべての下級の執事の息子まで全部知っていなければならないんです?」
「よろしい」と、Kがいった。「それなら、彼がそういう男だということを信じて下さい。私はこのシュワルツァーと、私が到着した日のうちに早くも腹が立つ一幕を演じたのです。そのとき、この男が電話でフリッツという下級の執事のところへ照会し、私が土地測量技師として採用されたという知らせをもらったのです。村長さん、あなたはこのことをどう説明されますか」
「きわめて簡単です」と、村長がいった。「だとすると、あなたはまだ一度もほんとうにわれわれの役所と接触されたことがないわけです。こうした接触はすべて見せかけのものにすぎないのに、あなたは事情をご存じないものですから、それをほんとうの接触と思っておいでです。それに、電話についていえば、ごらん下さい、ほんとうに役所とは十分連絡の仕事があるはずのこの私のところに、電話がありません。食堂とかそういったところでは、電話は大いに役に立つかもしれません。たとえば自動ピアノなんかのようにね。でもそれ以上のものではありません。あなたはこの土地でいつか電話をおかけになったことがありますか、え? それなら、おそらく私のいうことがおわかりでしょう。城では電話はすばらしく役に立っているらしいです。人びとの話では、城ではたえず電話をしているようで、それはもちろん仕事を非常にはかどらせています。このたえまのない電話をかける音が、この村の電話にざわめきや歌声のように聞こえるのですが、それはあなたもお聞きになったでしょう。ところで、このざわめきとこの歌声とが、われわれにここの電話が伝えてくれるただ一つの正しいことであり、信用に価することであって、そのほかのものはまやかしです。城との一定の電話連絡というものはないし、われわれがかける電話をつないでくれる本局というものもないのです。ここから城のだれかに電話をかけると、むこうではいちばん下級のあらゆる課の電話機のベルが鳴ります。いや、むしろ城のすべての電話が鳴ることでしょう、もし私がはっきり知っているように、ほとんどすべてのこの電鈴装置が切られてなければね。だが、ときどき、疲れ切った役人たちが少しばかり気晴しをやりたい要求をもちます。とくに夕方や夜です。そこで電鈴装置にスイッチを入れるのです。すると、われわれは返事をもらうのですが、そうはいってもただの冗談にすぎない返事ですよ。これもきわめて納得できることです。個人的なつまらぬ用事のために、きわめて重要な、いつでもすさまじい勢いで進行している仕事のまっただなかに電話のベルを鳴らして面倒をかけるなどということが、だれに許されるでしょうか。また、私にはわからないのですが、たといよそからきた人であっても、たとえばソルディーニに電話をかけて、自分に返事をしているのがほんとうにソルディーニなのだなどと、どうして信じることができるのでしょうかね。それはむしろ、おそらくはまったく別な課の下っぱの記録係なのでしょう。反対に、もし時間を選んでかけるならば、下っぱの記録係に電話をかけたのに、ソルディーニ自身が返事をする、ということが起こりえますがね。そういう場合には、もちろん、最初の声が聞かれるより前に、電話から逃げ出したほうがいいですよ」
「たしかにそんなことは考えませんでしたが」と、Kはいった。「そういうこまかいことは私にはわかりませんでした。でも、私はこの電話の話というものをたいして信用していませんでしたし、まさに城のなかで経験したり獲得したりすることだけがほんとうの意味をもつのだ、といつでも考えていました」
「いや」と、村長はKのその一言に固執しながら、いった。「そういう電話の返事にはほんとうの意味があるんですよ。どうして、ないなどといえますか? 城の役人が与える知らせが、どうして無意味なはずがあります? クラムの手紙についてお話ししたときに、そのことはもう申しましたね。つまりこうした言葉はみんな公務上の意味はもってはいません。もしあなたがそうした言葉に公務上の意味があるとお考えなら、あなたはまちがってしまいます。それに反して、その個人的な意味は、好意的な意味においてであれ、悪意をもった意味においてであれ、とても大きなものなのです。たいていは、公務上の意味よりも大きなものなのです」
「わかりました」と、Kはいった。「万事がそういう事情にあるとするなら、私は城にかなりな数の良い友だちをもっているわけですね。よく考えてみると、あの何年も前に例の課が、測量技師を呼ぶかもしれないと思いついたのは、私に対する好意の行為だったのですね。そして、それにつづいてずっとこの好意の行為が重なっていき、最後には、なるほどひどい結末ではありますが、私がおびきよせられ、そして私を追っ払うぞとおどしているわけですね」
「あなたの考えかたにはある真実な点があります」と、村長がいった。「城のいうことを言葉どおりに取ってはいけないという点では、あなたのいわれることはもっともです。しかし、用心はどこでも必要であって、ここだけのことではありません。そして、問題となっている発言が重要であればあるほど、それだけ用心が必要なのです。ところで、あなたが〈おびきよせる〉とおっしゃるのは、私には納得できません。もしあなたが私の説明をもっとよくたどっておられたら、あなたをここに招くという問題はあまりにもむずかしく、われわれがここでちょっとした談話をしているうちにとても答えられるようなものではない、ということを知られているにちがいないでしょうが」
「それでは、このお話の成果は」と、Kはいった。「私が追い払われるまで、万事がひどく不明瞭で、解決のつかぬままでいるのだ、ということなのですね」
「測量技師さん、だれがあえてあなたを追い払おうなんて思っているでしょうか」と、村長はいった。「いろいろな予備的問題が不明瞭だということこそ、あなたにもっとも鄭重な待遇を保証しているのです。ただ、あなたはお見かけしたところ、あまりにも神経質でいらっしゃる。ここではだれもあなたを引きとめないでしょうが、それはまたけっしてあなたを追っ払うということではありません」
「おお、村長さん」と、Kがいった。「多くのことをあまりにもあっさり見すぎていらっしゃるのは、またしてもあなたなのです。私をこの土地にとどめているいくつかのものを、あなたに数え上げてお聞かせしましょう。故郷の家から出てくるために私がもたらした犠牲、つらかった長い旅、ここで採用されるために思い描いたさまざまなちゃんとした理由のある希望、完全な無一物、今また家へ帰って別な適当な仕事を見つけ出すことの不可能なこと、そして最後にはこの土地の女である婚約者です」
「ああ、フリーダですね」と、村長は少しも驚かないで、いった。「知っています。でも、フリーダはあなたのいかれるところへどこへでもついていくでしょう。もちろん、そのほかのことに関しては、ここでいろいろお考えになることがたしかに必要ではあります。それについては城に報告しておきます。城の決定がくるにしろ、あるいはその前にもう一度あなたにいろいろおたずねすることが必要であるにしろ、あなたをお呼びしに人をやります。それはご承知下さいますね?」
「いや、承知できません」と、Kはいった。「私は城の施しものなどを望んでいるのではなく、当然の権利を欲しているのです」
「ミッツィ」と、村長は細君に向っていった。細君はまだ夫に身体を押しつけて坐っており、まるで夢のなかに没頭しているような様子で、クラムの手紙を手でもてあそんでいた。その手紙で彼女は小さな舟をつくっていた。Kは驚いてその手紙を彼女の手から奪い取った。「ミッツィ、脚がまたひどく痛み始めたよ。湿布を換えなければならないね」
 Kは立ち上がって、いった。
「それでは、おいとましましょう」
「はい」と、ミッツィは村長にいって、早くも塗り薬を準備していた。「すきま風がひどく入ってくるんですわ」
 Kは振り向いた。二人の助手が、いつものぎごちない職務熱心な態度で、Kの言葉を聞くとすぐ、観音開きのドアの両方を開けてしまっていた。Kはひどく侵入してくる寒気からこの病室を守るために、村長の前ですばやくお辞儀をするのがせいぜいだった。それから彼は、二人の助手を引っ張るようにしながら部屋から出て、急いでドアを閉めた。






底本:「世界文学大系58 カフカ」筑摩書房
   1960(昭和35)年4月10日発行
入力:kompass
校正:米田
2011年12月3日作成
青空文庫作成ファイル:
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