フランツ・カフカ 城 

「また助手たちなんです」と、彼は言いわけのためにおかみにいって、外を指さした。だが、おかみはKには注意を向けていなかった。写真を彼から取り上げ、それをじっとながめ、手でしわをのばし、またふとんの下に押し入れていた。彼女のしぐさは前より緩慢になっていたが、疲れのためではなく、思い出の重荷にあえいでいるためであった。Kに話そうとしたのだが、話をしているうちにKのことを忘れてしまっていた。ショールのへり飾りをもてあそんでいた。ちょっとの間をおいてからやっと眼を上げ、手で眼の上をこすり、いった。
「ああ、このショールもクラムからもらったのよ。それからナイトキャップも。写真とショールとキャップ、この三つはわたしがもっているクラムの記念の品なの。わたしはフリーダのように若くないし、あの子のように野心がないし、またあの子のように気がやさしくはないわ。あの子はとても気がやさしいのよ。つまり、わたしは生活に順応することを知っているのね。でも、このことを白状しなきゃならないけれど、この三つの品物がなければ、わたしはここでこんなに長いあいだ我慢できなかったことでしょう。いいえ、おそらく一日だって我慢できなかったことでしょうよ。この三つの記念の品は、あなたにはおそらくつまらぬもののように思われるでしょうけれど、ごらんなさいな。あんなに長くクラムとつき合っていたフリーダだって、記念の品なんて全然もっていないじゃないの。わたしはあの子にきいてみたんだけれど、あの子はあまりに夢想しすぎるし、あまりに満足を知らなすぎるのよ。ところがわたしのほうは、たった三度しかクラムのところにいかなかったのに、――あとではあの人はもうわたしを呼びに人をよこさなかったの、どうしてかわからないのだけれど――まるであの人とわたしとの関係が短いことを予感していたように、これらの記念の品をもってきたのよ。もちろん、自分からそのつもりにならなければならないのよ。クラムが自分でものをくれることなんてないわ。でも、クラムのところで気にいるものがあるのを見たら、くれってせがむことはできるのよ」
 いくら自分に関係のあることでも、Kはこんな話を聞かされていて、不愉快に感じた。
「いったい、そういったことはどれくらい前のことなんです?」と、彼は溜息をもらしながらきいた。
「二十年以上も前のことよ」と、おかみがいった。「二十年よりずっと前の話よ」
「そんなに長いあいだクラムに対して変わらぬ愛の心を守っているんですね」と、Kはいった。「でも、おかみさん、私が自分の将来の結婚のことを考えると、あなたはこんな告白で私に大きな心配のたねを与えているんだっていうことを、気づいておられますか?」
 おかみは、Kが自分のことをもち出して今の話に口を挾もうとしたのを無礼と思い、怒ってわきからKをじっと見た。
「そんなに気を悪くしないで下さい、おかみさん」と、Kはいった。「私はクラムにかれこれいうのではありません。しかし、私はさまざまなできごとの力でクラムとはある関係ができてしまったのです。それはいくらクラムの最大のファンだって否定はできないはずです。そうなんですよ。そこで私はクラムの話になると、いつでも自分のことを考えないではいられません。これはどうしようもないのです。それに、おかみさん――」――ここでKは彼女のためらう手をつかんだ――「考えても下さい、さっきの私たちの話合いはなんてまずい終りかたをしたことでしょう。今度は仲よく別れましょう」
「おっしゃることはもっともです」と、おかみはいって、頭を下げた。「でも、わたしのことも気の毒だと思って下さいよ。わたしはほかの人たちみたいに感じやすくはありません。それに反して、みんなはいろいろな泣きどころをもっているけれど、わたしはただこのクラムという泣きどころをもっているだけなのよ」
「残念ながら、それが同時に私のでもあってね」と、Kはいった。「でも、私はきっと自分を抑えるでしょう。ところで、おかみさん、私にいって聞かせて下さいませんか。結婚してから、クラムに対するこんなおそろしいほどの変わらぬ愛情をどうやって私は我慢したらいいのですか。フリーダもこの点であなたと似ているとしての話ですけれど」
「おそろしいほどの変わらぬ愛情ですって!」と、おかみはぶつぶついいながら、Kの言葉をくり返した。「これが変わらぬ愛情なんていうものですか? わたしは夫に対して操(みさお)を立てています。クラムにですって? クラムは一度わたしを恋人にしましたよ。わたしがいつかこの資格を失うことがあるんですかね? で、あなたはフリーダの場合にそれをどうやって我慢したらいいかですって? ああ、測量技師さん、そんなことをきくなんて、あなたはいったいなんという人なんです?」
「おかみさん」と、Kは相手をたしなめるようにいった。
「いいすぎましたわ」と、おかみはすなおにいった。「けれど、わたしの夫はそんな問いはしませんでした。あのころのわたしと今のフリーダと、どちらが不幸といえるのか、わたしにはわかりませんわ。気まぐれにクラムを捨てたフリーダでしょうか、それとも、クラムがもう呼びに人をよこさなくなった私のほうでしょうか。けれど、おそらくはフリーダのほうだわ。あの子にはまだそれがすっかりはわかっていないようだけれど。でも、あのころわたしの不幸はわたしの頭を今よりももっと占めていたのよ。というのは、いつでも自分自身に次のようにきかないではいられなかったし、ほんとうのところ今でもまだ自分にきくことをやめていないのよ。『どうしてこんなことになったのだろう? 三度クラムはお前を呼びに人をよこしたが、四度目はもうよこさない、四度目はもうけっしてよこさないなんて!』って。あのころ、このこと以上に何がわたしの心を占めていたでしょうか? そのすぐあとで結婚した夫と、このこと以外の何について話すことができたでしょうか? 昼のあいだは時間がありませんでした。わたしたちはこの宿屋をひどい状態で譲り受けたのですし、それをりっぱに繁昌させなければなりませんでした。でも、夜はどうでしたろう? 何年ものあいだ、わたしたちの夜の話は、ただクラムとあの人の心変りの理由とだけをめぐって行われました。そして、夫がこの話をしているうちに眠りこんでしまうと、わたしは夫を起こして、また話しつづけたものですわ」
「で、もしお許し下さるなら」と、Kはいった、「大変ぶしつけな質問をしたいのですが」
 おかみは黙っていた。
「それでは、きいてはならないわけですね」と、Kはいった。「それでも十分です」
「もちろんですとも」と、おかみはいった。「それでも十分でしょうね。それがとくに十分でしょうね。あなたはなんでも誤解なさるのね。黙っていることもね。あなたには誤解するほかにできることってないのよ。わたしは、どうぞきいてくださいっていうつもりよ」
「私はなんでも誤解するのなら」と、Kはいった。「おそらくわたしの質問も誤解しているのでしょう。おそらく少しもぶしつけな質問なんかじゃないのでしょう。ただ、あなたがどうやってご主人を知るようになったかということと、どうしてこの宿屋があなたたちのものになったかということとを、知りたいだけなんです」
 おかみは額にしわをよせたが、平静にいった。
「それはとても簡単な話ですわ。わたしの父が鍛冶屋で、わたしの今の夫のハンスはある豪農の馬丁で、しょっちゅう父のところへきたのです。そのころ、クラムと最後に会ったあとで、わたしはひどく不幸でした。けれども、ほんとうは不幸になんかなってはいけなかったのでしょう。というのは、万事は正確に進んでいたのです。そして、わたしがもうクラムのところへいっていけなかったのは、まさしくクラムがきめたことで、それだから正確だったはずです。ただ、そうなった理由だけがあいまいで、それは探ってもよかったのです。でも、わたしは不幸になんかなってはいけなかったのでしょう。ところで、それでもわたしは不幸で、仕事も手につかず、うちの前庭に一日じゅう腰を下ろしていました。そこでハンスがわたしを見て、ときどきわたしのそばへやってきては腰を下ろすのでした。わたしはあの人に自分の悩みを訴えませんでしたが、あの人はそれが何についての悩みなのかを知っていました。そして、あの人は善良な若者だったので、わたしといっしょに泣いてくれるという場面になったのです。あのころの宿の主人はおかみさんが死んで、そのために商売をやめなければならなかったのですが、――それにその人はもう老人でしたから――あるとき、うちのその小さな庭の前を通りかかって、そこでわたしたち二人が坐っているのを見ると、立ちどまり、むぞうさにこの宿屋を賃貸ししてやろうと申し出てくれました。わたしたちを信用してくれていたので、内金を取ろうとはしないで、賃貸料も大変安くしてくれました。わたしは父にだけは面倒をかけまいと思っていましたが、そのほかのことはみんなどうでもよかったのです。そこで、宿屋のことや、おそらくは少しは悩みを忘れさせてくれる新しい仕事のことを考えて、ハンスの結婚申込みに応じました。そういう話なんですよ」
 しばらく二人は黙っていたが、やがてKがいった。
「その宿屋の主人のやりかたはたしかにりっぱだったのですが、軽率でしたね。それとも、その人にはあなたたちを信頼する特別の理由でもあったのですか?」
「その人はハンスをよく知っていました」と、おかみはいった。「ハンスの伯父(おじ)さんでしたから」
「それなら、むろんのことですね」と、Kはいった。「では、ハンスの家族はきっとあなたとの縁組を大いに問題にしていたのですね」
「きっとそうでしょう」と、おかみはいう。「わたしにはわかりません。そんなことに気を使ったことはありませんから」
「でも、きっとそうだったにちがいありませんね」と、Kはいった。「家族の人たちがこんな犠牲を払って、宿屋を担保もなしで簡単にあなたたちの手に渡す気になったんですからね」
「あとになってわかったように、それは軽率なやりかたではありませんでしたよ」と、おかみはいった。「わたしは仕事に没頭しました。鍛冶屋の娘のわたしは身体がじょうぶで、女中や下男もいりませんでした。食堂でも、台所でも、馬小屋でも、内庭でも、どこででも働きました。料理が上手なので、紳士荘のお客さえ取ってしまったほどです。あなたはまだ昼食に食堂へいらっしゃっていないので、うちの昼食のお客さんがたをご存じないのです。あのころはもっと多かったんです。あれからもうお客がだいぶ減ってしまいましたのでね。で、その結果は、わたしたちは賃貸料をきちんと払ったばかりでなく、二、三年ののちにはそっくり買い受け、今ではほとんど借金もなくなっています。ところが、それ以外の結果としては、もちろん、そのために私は身体をこわしてしまい、心臓が悪くなり、今ではお婆さんになってしまった、ということをあげなければなりません。おそらくあなたは、わたしのほうがハンスよりもずっと年上だとお思いでしょうけれども[#「お思いでしょうけれども」は底本では「お思いでしようけれども」]、ほんとうはあの人は私より二つか三つ若いだけなんです。そして、あの人はさだめしこれからもけっして年をとらないことでしょう。というのは、あの人のような仕事をしていては、――パイプをふかしたり、お客さんがたの話に耳を傾けたり、それからパイプをたたいて灰を出したり、ときどき一杯のビールをお客にもっていったりするぐらいなんですから――とても年なんかとるものではありませんよ」
「あなたのお手柄はすばらしいものです」と、Kはいった。「そのことは疑いありません。けれども、あなたはあなたの結婚以前のときのことをお話しになりましたが、そのころには、ハンスの家族が入るべき金を犠牲にし、あるいは少なくとも宿屋の譲り渡しというような大きな危険にあまんじて、あなたがたの結婚をうながし、しかもその場合にまだ全然わかっていなかったあなたの仕事の腕前と、ないということはよく知っていたにちがいないハンスの仕事の腕前と以外には少しも見込みというものをもたなかったとすると、どうも奇妙なことになりますね」
「まあ、まあ」と、おかみは疲れたようにいった。「あなたが見当をつけていること、しかもそれがまちがっていることは、よくわかりますよ。クラムについてはこうしたすべてのことはまったくかかわりもないことですわ。なぜクラムがこのわたしのために心配してくれたり、あるいはもっと正確にいって、このわたしのために心配してくれることができたりしたでしょうか? あの人はじつのところ、わたしのことなんか、もう全然知らなかったのです。あの人がもうわたしを呼びによこさなかったということは、わたしのことを忘れてしまったというしるしなんですわ。自分がだれを呼びにやらないのかは、完全に忘れているのですよ。こんなことはフリーダの前では申したくありません。ところで、それは忘れるということだけではなく、それ以上のことなんです。忘れてしまった者のことは、ふたたび知るということがありえます。ところが、クラムの場合には、そんなことはありえないんです。クラムがもう呼びに人をよこさない者のことは、その者の過去について完全に忘れてしまったばかりでなく、すっかりその者の未来についても忘れてしまったということなんです。わたしだって骨を折って考えれば、あなたの考えていらっしゃることぐらい察しはつきますわ。あなたの故郷であるよその土地ではたぶん通用しているのでしょうが、ここではばかばかしいような考えのことをいっているんですよ。おそらくあなたは、クラムが将来いつかわたしを呼ぶとき、わたしがあの人のところへいくじゃまにならないようにというので、ハンスのような男をわたしの夫にしたのだ、というようなばかげたことまで考えていらっしゃるんでしょう。ところで、ばかばかしいにもほどがあるというものです。もしわたしにクラムが合図したなら、わたしがクラムのところへ駆けつけるのを妨げることができるような夫なんて、いるものですか。ばかばかしい、ほんとにばかばかしいことですわ。こんなばかげた考えをもてあそんでいたら、頭が変になりますわ」
「いや」と、Kはいった。「おたがいに頭が変なんかになりたくありませんね。私も、あなたの考えておられるほどに私の想像をたくましくしたわけではありませんよ。もっとも、ほんとうをいうと、そんなことを考えかけていたんですけれどね。ただ、さしあたって不思議と思ったのは、親戚の人たちがこの結婚に大いに期待をかけ、しかもそうした期待が実際に実現されたということなんです。実現されたといっても、あなたの心臓と健康と引き換えということでしたがね。こうした事実とクラムとのあいだにある関連があるらしいという考えは、たしかにお話をうかがっていて私の頭に浮かんではきましたが、あなたがおっしゃったほど失礼なものではありませんでした。あるいは、まだそこまではいっていなかったといえます。あなたがあんなことをおっしゃったのは、あなたに面白いものだから、私をどやしつけようというだけの目的でなさったようですね。まあ、勝手に面白がって下さい。ところが、私が考えたのは、何よりもまずクラムが結婚のきっかけらしい、ということなんです。クラムというものがいなかったら、あなたは不幸にはならなかったでしょうし、仕事に手がつかぬようになって前庭に坐りこんでいることもなかったでしょう。クラムがいなかったら、あなたはハンスと前庭で会わなかったことでしょうし、あなたの悲しみというものがなかったら、気の小さいハンスはあなたにけっして話しかけようなどとしなかったことでしょう。クラムがいなかったら、あなたはけっしてハンスといっしょに涙を流したりしなかったでしょう。クラムがいなかったら、あの年とった善良な伯父さんの宿のご亭主も、けっしてハンスとあなたとが前庭でなごやかにいっしょにいるのを見はしなかったでしょう。クラムがいなかったら、あなたは人生に対してどうでもいいというようなふうにはならず、したがってハンスと結婚なんかしなかったでしょう。で、こうしたすべてにすでに十分にクラムが関係があるのだ、といわないわけにはいきません。ところが、もっと先があります。クラムがいなければ、あなたは過去を忘れようとはしなかったでしょうし、きっとそんなに考えなしに身体をいじめつけて仕事をしなかったでしょうし、また商売をこんなに栄えさせはしなかったでしょう。だから、その点でもクラムが関係しているわけです。ところで、クラムはまた、そうしたことは別としても、あなたの病気の原因でもあります。というのは、あなたの心臓は結婚の前にすでにかなわぬ恋の情熱に疲れ切っていたのですからね。で、なお残っている問題は、ハンスの親戚たちはなんであなたがたの結婚にそんなに乗り気になったのか、ということだけです。さっき、ご自分でいわれましたが、クラムの恋人であるということは、身分が上がることで、それはいつまでも消えるものではないってね。ところで、そのことがあなたの心をひきつけたのかもしれませんね。だが、そのほかに、こういう期待があったんだと思います。つまり、あなたをクラムのところへつれていったのはいい星のめぐり合せであり、――いい星だと仮定しての話ですが、あなたはそうなんだっておしゃっていますね――その星があなたのものであって、そしてあなたのところにいつまでもとどまるだろう、そして、クラムがやったようにあんなに早く、あんなに突然、あなたを見捨てることはないだろう、っていう期待です」
「そんなことをみんな本気で考えていらっしゃるんですか」と、おかみがきいた。
「本気ですとも」と、Kは口早にいった。「ただ私が思うのは、ハンスの親戚たちはそうした期待の点で正しかったのでもなければ、まったくまちがっていたのでもない、ということです。そして、その人たちがやったまちがいが私にはわかるように思います。たしかに外面的には万事がうまくいったように見えます。ハンスは暮しの心配がなくてすみますし、すばらしい奥さんをもち、人には尊敬され、家計は借金なしときています。でも、ほんとうは万事うまくいったわけではありません。ハンスは、自分をりっぱな初恋の人と見てくれた普通の娘といっしょになったほうが、きっとずっと幸福だったことでしょう。あの人が、あなたの非難されるように、ときどき食堂でまるで放心したように立っているなら、それはあの人がほんとうに自分はだめだと感じているからなんです。――といって、そのことで不幸にはなっていませんけれど。きっとそうです。私もそのくらいはあの人のことがわかっています。――でも、それと同じようにたしかなのは、このりっぱな、ものわかりのいい若者は、別な女の人といっしょになったら、もっと幸福だったろう、ということです。という意味は、それと同時に、もっと自主的になり、もっと勤勉に、もっと男らしくなったろうということなんです。そして、あなたご自身もきっと幸福ではないはずです。おっしゃったように、あの三つの記念の品がなければ、あなたは生きていく気が全然しないことでしょうし、また心臓をわずらってもいらっしゃるんですからね。それでは、ハンスの親戚たちは彼らの期待した点でまちがっていたのでしょうか。そうとは思いません。祝福はあなたの上にあったのですが、だれもその祝福を自分たちのところへ下ろすことを心得ていなかったのです」
「いったい何を取り逃がしてしまったっていうんですか」と、おかみはきいた。おかみは手足をのばして仰向けになり、天井を見上げていた。
「クラムにきいてごらんなさい」と、Kはいった。
「それでは、あたしたちはまたあなたのことにもどるのですね」と、おかみがいった。
「あるいは、あなたのことにね」と、Kはいった。「私たち二人のことはすぐ隣り合っているようなものですからね」
「それでは、あなたはクラムにどんなことを望んでいらっしゃるんです」と、おかみがきいた。彼女は身体をまっすぐにし、枕を振ってなおし、坐ったままでよりかかることができるようにした。Kの両眼をまともに見ていた。「わたしはあなたに、わたしのことを打ち明けてお話ししましたわ。あなたはこの話からいくらかのことを学べたはずですよ。今度はあなたが、クラムに望んでいることを打ち明けておっしゃって下さいな。フリーダに自分の部屋へ上がっていき、そこにいるようにって、わたしはやっとあの子を説得したんですよ。あなたは、あの子がいると、どうも十分に打ち明けて話して下さらないんじゃないか、と思ったものですから」
「隠すことなんか、何もありませんよ」と、Kはいった。「でも、まずあなたにご注意申し上げることがあります。クラムはすぐ忘れてしまう、ってあなたはおっしゃいました。ところでまず第一に、そのことが私にはとてもありえないことのように思われるんです。第二には、それは証明できないことです。クラムにかわいがられていた女の子たちが考え出した単なる伝説にすぎないように思われます。あなたがそんな明白なつくりごとを信じていらっしゃることが、私には不思議ですよ」
「伝説なんかじゃありませんよ」と、おかみはいった。「それはむしろみんなの経験から出ているんですわ」
「それなら、新しい経験によってそれを否定することもできるわけですね」と、Kはいった。「それに、あなたの場合とフリーダの場合とでは、ちがいがあります。クラムがフリーダをもう呼ばなくなったなどということは、いわば全然なっていないんです。むしろ、あの男があの子を呼んだのに、あの子はそれに従わなかったのですよ。クラムがまだあの子を待っているということだって、ありえますよ」
 おかみは黙ってしまい、ただただ探るように視線をときどきKの上に走らせるのだった。やがていった。
「あなたのおっしゃりたいことはなんでもおとなしくうかがいましょう。わたしの気を悪くしないようになんて気づかわれるよりは、ざっくばらんにお話し下さい。ただ、一つだけお願いしておきます。クラムの名前を出さないで下さいな。〈あの人〉とかなんとかいって下さいね。でも名前を直接口にはしないで下さい」
「いいですとも」と、Kはいった。「でも、あの人に私が望んでいることは、いうのがむずかしいんです。まず、あの人を身近かに見たい、次にあの人の声を聞きたい、それからあの人が私たちの結婚にどんな態度をとるのか知りたいんです。それからたぶんそのほかにも頼みたいことは、話合いのなりゆきにかかっています。おそらくいろいろなことが話に出るでしょうが、私にとっていちばん大切なことは、あの人と面と向って会うことです。つまり、私はまだほんとうの役人と直接話をしたことがないんです。それは、私の考えていたよりむずかしいことのように思われます。ところで私としては、個人としてのあの人と話をする義務があります。そして、これは私の考えによると、ずっと実行がやさしいはずです。役人としてのあの人には、ただあの人の事務室で話ができるのですが、その事務室へはどうやら近づきがたいようです。それが城のなかにあるのか、紳士荘にあるのかが、すでに問題ですしね。でも、個人としてなら、あの人に会うことのできるどこでも、家のなかでも、路上でも、話ができるはずです。その場合に、ついでに役人としてのあの人と向かい合うことになっても、私にはいっこうかまいません。でも、それは私の第一の目的というわけではありません」
「わかりましたよ」と、おかみはいい、自分が何か恥知らずなことをいっているかのように、顔を枕に埋めた。「もしわたしがこちらの関係によって、お話がしたいのだというあなたの願いをクラムに伝えたときには、返事がくるまではあなたが何も独断ではやらない、ということを約束してくださいね」
「それはお約束できません」と、Kはいった。「あなたの頼みというか、あなたの気まぐれというか、それをかなえてあげたいのですけれどね。つまり、事は火急なんです。ことに、村長との話合いの結果が思わしくはないもんですからね」
「そんな異議はだめですわ」と、おかみはいった。「村長はまったく取るにたらぬ人物なんです。それにお気づきにはなりませんでしたか。なんでもやっているあの人の奥さんがいなければ、ただの一日だって村長の地位にとどまってはいられないのよ」
「ミッツィですか」と、Kはきいた。おかみはうなずく。「あの人は居合わせましたよ」と、Kはいった。
「あの人、何かいいましたか」と、おかみがきく。
「いや」と、Kはいった。「あの人がそんなことができるっていうような印象は、全然受けませんでしたよ」
「まあ、まあ」と、おかみはいった。「あなたはこの土地ではすべてをまちがって見ているのよ。ともかく、村長があなたについてやったことなんて、なんの意味もありませんわ。機会を見て、奥さんと話してあげましょう。そして、あなたにさらに、クラムの返事は遅くとも一週間以内にくるだろう、とお約束するのですから、わたしのいうことに従わないという理由はないはずですよ」
「そんなことでは、まだ決定的というわけではありません。私の決心は固くきまっていて、ことわりの返事がきたって、私は自分の決心をやりとげようと試みるでしょうよ。はじめからこんなつもりでいるとすれば、人を通じてあらかじめ話合いのことを頼んでもらうわけにはいきません。頼まないでやったのなら、大胆ではあっても悪気はないやりかたですむものが、ことわりの返事を受け取ってからやるならば、公然たる反抗になってしまうことでしょう。そのほうが、むろん、ずっと悪いでしょう」
「もっと悪いですって?」と、おかみはいった。「どっちにしたって、反抗ですよ。まあ、好きなようになさいな。スカートを取ってちょうだい」
 Kがいることなどおかまいなしに、おかみはスカートをはき、台所へ急いでいった。かなり前から、食堂からはさわがしい音が聞こえていた。のぞき窓をたたく音もした。助手たちがその窓を突き開けて、腹がすいた、となかへどなった。次に、ほかの者たちの顔もそこから現われた。小さい声でだが、高低いろいろまじった合唱の歌さえ、聞こえてきた。
 もちろん、Kがおかみと話していたため、昼食の料理がひどく遅くなっていた。まだ支度ができ上がらないのに、お客たちが集っていた。ところが、だれ一人としておかみの禁止に逆らって台所へ足を踏み入れようとする者はいなかった。ところが、のぞき窓の連中が、おかみさんがきたぞ、といったので、女中たちはすぐ台所へかけこんでしまった。Kが台所へ足を入れてみると、驚くほどたくさんの人たちが、男と女とで二十人以上もいるのだろうか、田舎風ではあるが農夫ではないようなみなりをして、今まで集っていたのぞき窓から、食卓へとなだれこみ、自分の席を確保しようとするのだった。それより前に坐っていたのは、片隅のテーブルにいる、二、三人の子供づれの一組の夫婦だった。夫は、親切そうな青い眼をした男で、灰色のもじゃもじゃな髪と髯とをしていて、子供たちのほうに身体をかがめて立ち、ナイフで子供たちの歌の拍子をとっていたが、たえずその歌声を抑えようと努めていた。おそらく歌で子供たちの空腹を忘れさせようとしているのだった。おかみはみんなの前で、二こと三こと、投げやりな言葉で詑(わ)びをいったが、だれもおかみに文句はいわなかった。おかみは亭主がいないかとあたりを見廻したが、亭主は事態がむずかしいのを見て、とっくの昔に逃げ出していた。それから、おかみはゆっくりと台所へいった。Kは自分の部屋にいるフリーダのところへと急いでいったが、おかみは彼に対してもはや目もくれなかった。






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