フランツ・カフカ 城 

 そこでKは、ふたたび無言のままテーブルに腰を下ろしている教師と、二人きりになった。もう少しお待ち下さい、といって、シャツを脱いで、洗面台で顔を洗い始めた。そこでやっと、教師に背を向けたまま、なんのご用でいらっしゃったのですか、ときいてみた。
「村長さんに頼まれてきました」と、教師はいった。Kはその用件をきくつもりだった。ところが、Kの言葉が水の音で聞き取りにくかったので、教師は近づいてこなければならなかった。そして、Kのそばの壁にもたれた。Kは、こうやって顔を洗ったり、そわそわしているのは、これからいくつもの訪問がさし迫ったためだからだ、と詑びた。教師はそんなことは聞き流しておいて、いった。
「あなたは村長さんに対して失礼だったようですね、あんなに年とった、功労のある、経験豊かな、尊敬すべき人なのに」
「私が失礼だったかどうかは、知りません」と、Kは顔をふきながらいった。「でも、上品なふるまいなどとは全然ちがったことを私が考えていたということは、ほんとうです。というのは、私にとっては生きるか死ぬかの問題だったんですからね。私の生存は恥知らずな役所の仕事ぶりであぶなくなっていたのです。そのこまかなことは、ご自身でこの役所で働いておられるあなたには申し上げる必要はありますまい。村長がわたしについて文句でもいったのですか」
「だれに向ってあの人が文句なんかいえるでしょうか」と、教師はいった。「だれか文句をいう相手がいるとしても、いったいあの人が文句なんかいってこぼすでしょうか。私は村長さんの口授であなたがたの話合いに関してちょっとした調書をつくっただけですが、それによって、村長さんの親切さとあなたの返事のしかたとについて十分に知ったのです」
 フリーダがどこかへしまったにちがいないくしを探しながら、Kはいった。
「なんですって? 調書ですって? 話合いのときに全然いなかった者が、あとになって私のいないところで調書なんか取ったんですか。それも悪いことではありません。が、いったいなぜそれは調書なんです? では、あれはおおやけの話合いだったのですか」
「いや」と、教師がいう。「ただ半分おおやけのものです。調書もただ半分だけおおやけのものにすぎません。それをつくったのは、われわれのところではすべてに厳密な秩序がなければならないからです。ともかく、あなたの調書はあるのだし、あなたにとって名誉となるものではありませんよ」
 ベッドのなかにすべりこんでいたくしをやっと見つけたKは、前よりは落ちついていった。
「そんな調書があるのなら、それでもかまいません。あなたは、そのことをいいに私のところへいらっしゃったのですね」
「いや」と、教師はいった。「でも、私だって機械じゃないんだから、自分の意見をいわないではいられなかったのです。ところで、私の依頼されてきた用件は、村長さんが親切であることをもっとよく証明するものです。私は強調しておきますが、こんな親切さというものは私には理解できないものであり、私がこの依頼を果たしているのは、ただ立場の上からどうしてもそうしなければならないからであり、また村長さんを尊敬しているからなのです」
 顔を洗い、くしを使っていたKは、今度はシャツと服とがくるのを待って、テーブルのところに坐った。教師が伝えてきたことにはほとんど興味がなかった。彼はまた、おかみが村長について抱いている軽蔑的な意見に影響されてもいた。
「もうお昼を過ぎたことでしょうね」と、彼はこれからいくつもりの道のことを考えながらいったが、次にそれをいいなおした。「あなたは村長からいいつかった何かの用事を私におっしゃるんでしたね」
「そうですとも」と、教師はまるで自分のどんな責任をも身体から振い落すかのように、肩をすぼめて、いった。「村長さんが恐れていられるのは、あなたの件の決定があまりに長びくときに、あなたが何か軽はずみなことを独断でやるのではないか、ということです。私としては、村長さんがなぜそんなことを心配されるのか、わかりません。私の考えでは、あなたはしたいことをなさればいちばんいい、と思います。われわれは何もあなたの守り神ではないのだし、あなたのいくさきざきまで追いかけていく義務なんかありません。まあ、それはいいとしましょう。ところが村長さんときたら、それとはちがうご意見なのです。伯爵の役所がやるべき決定そのものは、もちろんあの人は早めるわけにはいきません。でも、あの人は自分の力の及ぶ範囲のうちで、ほんとうに寛大な仮の決定をしようというのですよ。それを受け入れるかどうかは、ただあなただけにかかっています。つまり、あの人はあなたにさしあたって学校の小使の地位を提供されているのです」
 自分に提供されていることなどについては、Kははじめのうちほとんど気にはかけなかったけれども、何かが自分に提供されているのだという事実は、彼には無意味ではないように思われた。それは、彼という人間は、村長の考えによれば、自分の身を守るためにはどんなことでもできるのだ、そんなことを防ぐためには、村自身がある程度の金を使ったってかまわないのだ、ということを暗示するものであった。ああ、こんなことをなんて重大に考えているのだろう。ここですでに長いあいだ待ったし、なおその前に調書を取ったという教師は、まったく村長によって駆り立てられてやってきたものにちがいない。自分のいうことがKを考えこませてしまったのを見て取ると、教師は言葉をつづけた。
「私は異論を申し立てました。これまで学校の小使なんかいらなかった、ということを私は指摘しました。教会の小使の細君がときどき掃除をするし、女の先生のギーザ嬢がそれを監督します。私は子供たちの面倒でもううんざりしていますから、この上小使のことなんかで怒ったりしたくはありません。すると、村長は、でも学校のなかはひどく汚いじゃないか、といわれるんです。私は、ほんとうのことなんですが、そんなにひどくはありません、と答えました。それから、私はつけ加えました。われわれがその男を学校の小使に雇ったら、もっとよくなるでしょうか。そんなことは全然あるはずがないですよ。その男がそんな仕事のことを全然知らないことは別としても、学校の建物には控室なしの二つの大きな教室があるだけです。そこで、小使は家族の者とともにその一つの教室に住みこんで、寝たり、煮たきまでもしなければならないでしょう。そんなことではもちろん清潔さを増したりできません。ところが、村長さんは、この地位はあなたにとっては苦しいときの救い主になるだろうし、そのためにあなたもその仕事をよく果たすために全力を振りしぼって努力するだろう、とおっしゃいます。さらに、村長さんがおっしゃるには、あなたを雇えば、あなたといっしょにあなたの奥さんや助手さんたちの力も手に入れるわけで、そのため学校ばかりではなく、校庭も模範的にきちんと片づけておくことができるだろう、というのでした。そうしたことはすべて、私は苦もなく反駁(はんばく)しました。とうとう村長さんはあなたのためにもう全然何も提案することができなくなり、笑って、あなたは測量技師なんだから、校庭の花壇をとくに美しく設計することができるだろう、とだけいいました。で、冗談に対しては異論を述べてもしかたがありません。それで私は村長さんのその頼みをもってあなたのところへきたのです」
「あなたはむだな心配をしておられますね、先生」と、Kはいった。「その職を引き受けるなんていうことは、私には思いもよりませんね」
「りっぱなものです」と、教師はいった。「りっぱなものですよ、まったくなんの留保もなしにおことわりになるのですからね」そして、帽子を取ると、出ていった。



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