フランツ・カフカ 城 

「それじゃあ、そりのドアを開けなさるがいい」と、馭者がいう。「ドアのポケットに二、三壜(びん)入っているからね。一壜取って、飲んだらあっしに渡してくんなさい。毛皮を着てるんで、下りていくのが難儀なんでさあ」
 こんなふうに手を貸してやるのはいまいましかったが、もうこの馭者とかかわりをもってしまったので、Kはそりのそばでクラムに不意打ちされる危険まで冒(おか)して、馭者のいうことをきいた。幅の広いドアを開け、ドアの内側につけられているポケットから壜を取り出すことができるはずであったが、そりのなかへ入りたいという気持に駆られ、その気持に逆らうことができない。ちょっとのあいだ、そのなかに坐ってみようと思った。さっとなかへ飛びこんだ。そりのなかの暖かさは非常なもので、Kが閉めようとしなかったのでドアが開けっ放しになっているにもかかわらず、暖かさは変わらなかった。長い腰かけに坐っているのかどうか、全然わからなかった。それほどすっかり膝かけやクッションや毛皮に埋もれていた。どの方向にも身体を廻したり、のびをしたりでき、柔かく暖かく、いよいよそのなかへ身体が沈んでいく。両腕を拡げ、頭はいつでも待ちかまえているようなクッションにもたれかけ、Kはそりのなかから暗い建物のなかをながめた。クラムが降りてくるまでに、なぜこんなに時間がかかるんだろう? 雪のなかに長くたたずんでいたあとなので暖かさで身体が麻痺したようになりながら、Kはクラムがついにやってくることを願った。今のままの状態でクラムに見られないほうがいいという考えは、微かな障害のようにぼんやりと意識に上ってくるだけだった。こんな放心状態のなかにいるのは、馭者の態度に助けられているためであった。馭者は、Kがそりのなかに入っているのを知っているはずなのだが、彼をそこにほっておき、コニャックをくれといいさえしなかった。これは思いやりある態度だったが、Kは馭者にサービスしてやろうと思った。けだるげに、姿勢を変えないで、ドアのポケットのほうへ手をのばしたが、離れすぎている開いたほうのドアへでなく、自分のうしろの閉まっているドアのほうへであった。ところで、それはどちらでもよかった。そちらにも壜がいくつかあったのだ。一壜取り出して、栓を廻して開け、匂いをかいでみた。思わず微笑しないではいられなかった。匂いは甘美で、媚(こ)びるようであった。まるで、大好きな人から賞め言葉や親切な言葉を聞かされて、なんのことなのかよくはわからず、またわかろうともせず、そういう言葉を語ってくれるのが自分の大好きな人なのだということを意識しているだけで幸福感を味わうようなものであった。
「これはコニャックかな?」と、Kは疑いながら自問して、好奇心からためしてみた。ところが、驚いたことにやっぱりコニャックであり、身体が燃え、暖まった。これがどうして、ほとんどただ甘美な香りをもつだけのものから、飲んだ場合には馭者にうってつけの飲み物に変わるのだろう!「こんなことがありうるのだろうか?」と、Kはまるで自分自身を非難するように自問し、もう一度飲んだ。
 そのとき――Kはちょうどぐうっとあおっているところだった――あたりが明るくなった。建物のなかの階段や廊下や玄関にも、屋外の入口の上にも、電燈があかあかとついたのだ。階段を降りてくる足音が聞こえた。壜がKの手からすべり落ち、コニャックが一枚の毛皮の上に流れた。Kはそりから跳び出した。ドアを閉めると、大きな音がしたが、やっと閉めたとたんに、建物から一人の紳士がゆっくりと出てきた。それがクラムではなかったことがせめてもの慰めであるように思われた。それとも、それは残念に思うべきことだったのだろうか。その紳士は、Kがさっき二階の窓辺に見た人物だった。若い紳士で、色白で顔が赤く、見たところ健康そうであったが、ひどくまじめくさっていた。Kもその男を陰気そうに見つめたが、この眼つきで自分自身を見ているのだった。むしろ助手たちをここへよこしたほうがよかった、と思った。こんなふうに自分がやったようにふるまうことは、あの二人も心得ていたろう。彼と向かい合っても、その男はまだ黙っていた。このひどく胸幅の広い胸のなかにも、いうべきことをいうのに十分な息はないかのようであった。
「これはまったく驚いた」と、男はやがていって、帽子を少しばかり額からずらした。
 え? この人はおそらく自分がそりのなかにいたことを全然知らないのに、何か驚くようなことを見出したのだろうか。自分が内庭のなかへ入りこんだことでもいっているんだろうか。
「いったい、どうしてここへこられたのです」と、早くも紳士は声を低めてたずねたが、もう息を吐いていて、動かしがたいことをじっとこらえているようだった。



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