フランツ・カフカ 城 

 Kはスタンドにもたれ、両眼を手で抑え、何事にもかまわなかった。それから、コニャックをちびりと飲み、まずくて飲めないというふうにそれを押しもどした。
「みなさんがそれを飲むのよ」と、ペーピーは手短かにいって、その残りをあけ、グラスを洗って棚のなかに置いた。
「みなさんはもっといいのももっているよ」と、Kはいった。
「そうかもしれないわね」と、ペーピーはいった。「でも、わたしにはそんないいのはありません」
 これでKのことは片づけ、また紳士の用をたしにいった。ところが、紳士のほうは何も用はないので、ただそのうしろを弧(こ)を描きながらたえずいったりきたりして、彼の肩越しに書類をちらりとのぞこうとしておそるおそるのぞき見するのだった。しかし、それはつまらぬ好奇心と大げさな身振りとだけだったが、おかみも眉をひそめてそれをとがめていた。
 ところが、突然、おかみは聞き耳を立て、耳を傾けることにすっかり没頭したまま、空(くう)をじっと見つめた。Kは振り返ったが、何も特別な物音は聞こえず、ほかの連中にも何一つ聞こえないようだった。ところが、おかみは爪立ちの大股で内庭に通じているうしろ側のドアへいき、鍵穴(かぎあな)からのぞき、次に眼を見開き、顔をほてらせながらみんなのほうへ振り向いて、自分のところへくるように指で合図するので、みんなはそこへいってかわるがわるのぞくのだった。おかみがやはりいちばん多くのぞいていたが、ペーピーもなかなか念入りにのぞき、紳士はなかでいちばん気乗りしないようだった。ペーピーと紳士とはすぐもどったが、おかみだけはなお緊張した様子で、身体をかがめ、ほとんどひざまずくようになって、のぞいていた。まるで自分を通してくれと鍵穴に願ってでもいるかのような印象を与えるのだった。というのは、もうずっと前から見るものなんかなくなっていたはずだ。次にようやく身を起こし、両手で顔をなで、髪の毛を整え、深く息をつき、これでまた両眼を部屋とここにいる人たちとに慣らせなければならなくなり、いやいやそうしたとき、Kは自分の知っていることをたしかめるためではなく、彼がほとんど恐れているおかみの攻撃に先廻りするために、つぎのようにいった。彼は今ではそれほど傷つきやすくなっていた。
「では、クラムはもういってしまったのですか」
 おかみは無言のまま彼のそばを通り過ぎていったが、紳士が小さなテーブルのところからこちらへ向っていった。
「そうですとも。あなたが見張り番をやめたので、クラムは出ていくことができました。でも、あの人の神経質なことは驚くべきものです。おかみさん、クラムがどんなに不安そうにあたりを見廻していたか、気がつきましたか」
 おかみはそれに気づかなかったようだが、紳士は言葉をつづけた。
「それでは、ありがたいことにもう何も見られなかったのだな。馭者も雪のなかの足跡を掃(は)きならしてしまっていたし」
「おかみは何も気づかなかったんです」とKはいったが、それをいったのは何か思わくがあったわけではなく、ひどく断定的で異論を許さないような調子のその紳士の主張に刺戟されただけのことだった。



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