フランツ・カフカ 城 

「おそらくちょうど鍵穴のところにいたときなんでしょう」と、おかみはまず紳士を弁護するためにいった。次に、クラムがやったことももっともだといおうとして、言葉をつけたした。「といっても、わたしはクラムがそんなに神経質だとは思いませんわ。わたしたちはたしかにあの人のことを心配し、あの人を守ろうとはしています。そこで、クラムが極端に神経質だということにして、その前提から出発するのです。それはいいことですし、クラムもそれをきっと望んでいます。でも、ほんとうはどうなのか、わたしたちにはわかりません。たしかに、クラムは自分が話したくない人間とは、けっして話さないでしょう。そんな人間がいくら骨を折って、我慢できないほど出しゃばったところで、そうよ。でも、クラムはそんな人とけっして話さないし、けっしてそんな人を自分の面前にこさせないというこの事実だけで十分だわ。でも、なぜあの人はほんとうにだれかを見るのもいやというのでしょうねえ。少なくともそのことは証明できないわ。だって、これはけっしてためしてみるわけにいかないんですもの」
 紳士は本気でうなずいた。
「それはもちろん、根本において私の意見でもあります」と、彼はいった。「ちょっとばかり別なふうにいったのですが、それは測量技師さんにわかってもらうためにいったことです。でも、クラムが外へ出たとき、何度かあたりを見廻したということは、ほんとうなんですよ」
「きっと私のことを探していたんでしょう」と、Kはいった。
「そうかもしれません」と、紳士がいった。「そこまでは気がつきませんでしたが」
 みんなが笑った。話の前後がほとんどわかっていないペーピーが、いちばん大きな声で笑った。
「今はわれわれはこんなに朗らかな気分で集っているんだから」と、次に紳士がいった。「測量技師さん、どうかいくらか陳述していただいて、私の書類を補って下さるようにお願いしたいんですが」
「それにはずいぶん書いてありますね」と、Kはいって、遠くから書類のほうを見た。
「ええ、悪い習慣です」と、紳士はいって笑った。「でも、あなたは私が何者か、まだご存じないでしょう。私はクラムの駐在秘書モームスです」
 この言葉のあとでは、部屋じゅうがまじめになった。おかみとペーピーとはもちろんこの人を知ってはいたのだが、こうして名前といかめしい肩書が口にされると、すっかり驚いてしまったようだった。そして、紳士自身、自分の資格以上のことをいいすぎてしまったかのように、また少なくとも自分の言葉に含まれている、あとあとまで残るようなものものしさから逃がれたいというかのように、書類に没頭し、書きものをし始めたので、部屋のなかではペンの音以外には何も聞こえなかった。
「いったいなんなんです、村の駐在秘書っていうのは?」と、Kはちょっとたってからいった。今は、自己紹介をすませてしまったのだから、そんな説明を自分でやるのはもうふさわしくない、と考えているモームスにかわって、おかみがいった。
「モームスさんは、クラムのほかの秘書たちと同じように、クラムの秘書なんです。けれどもこの人の勤務の場所と、またもしわたしの思いちがいでなければ、勤務の性質とは――」そのとき、書きものをしていたモームスが勢いよく頭を上げた。で、おかみはいいなおした。「では、村に限られているのは、勤務の場所だけのことで、勤務の性質のことではないんです。モームスさんは、この村で必要になるクラムの書類上の仕事をいろいろやっているのでして、村から起こるクラム宛の請願はみんなこの人がまっさきに受け取るんです」Kがまだほとんどこうしたことに心を動かされずに、うつろな眼をしておかみをじっと見つめているので、彼女は半ば当惑してしまって、つけ加えた。「こういうふうになっているんですの。城のかたたちにはみんな、村に置いている駐在秘書っていうものがあるんです」
 Kよりもずっと注意ぶかく耳を傾けていたモームスが、今の言葉を補うようにおかみにいった。
「たいていの駐在秘書っていうのは、ただ一人の城のかたのために仕事をするんだが、私はクラムとヴァラベーネと二人のかたのために仕事をしているんだよ」
「そうでしたね」と、おかみはそういわれて自分でも思い出しながら、いった。そして、Kのほうを向いた。
「モームスさんはクラムとヴァラベーネと二人のかたのために仕事をしているんですのよ。だから兼任の駐在秘書っていうわけです」
「兼任のねえ」と、Kがいうと、モームスに向ってうなずいてみせた。モームスは今ではほとんど身体を前に乗り出して、Kのほうをまともに見上げていたが、Kのそのうなずきかたは、眼の前でほめられている子供に向ってうなずいて[#「うなずいて」は底本では「うなずい」]みせるようなやりかたであった。そのなかにはある種の軽蔑がこもっていたが、二人は気がつかなかったか、それともまたむしろ軽蔑を望んでいるかであった。ほんの偶然にであってもクラムに会ってもらえるだけの値打をもってはいないKの面前で、クラムのすぐ側近にいる一人の男のいろいろな功績がことこまかに述べられるのだが、それはKに一目置かせ、賞めさせようという、見えすいた意図をもってやられるのだった。けれどもKにはそんなものがよく通じない。全力をあげてクラムを見ようと努めていたKではあるが、たとえばクラムの眼の前で暮らすことが許されているモームスのような男の地位でも、そう高くは評価していないし、いわんや感嘆や嫉妬といった気持からは遠かった。というのは、クラムの身近かにいるということが彼にとって骨折りがいのあることなのではなくて、ほかならぬKという自分だけがほかならぬこの自分の願望をもってクラムに近づくということこそ、骨折りがいのあることなのだ。しかもそれは、クラムのところに落ちつくためではなく、彼のところを通りすぎてさらに城へいくためなのだ。
 で、彼は時計を見て、いった。
「ところで、もう家へ帰らなければならない」
 たちまち事情が転じてモームスのほうが有利になった。
「むろん、そうですとも」と、この男はいう。「小使の仕事があなたを待っていますからね。でも、ほんのしばらく、私のために時間をさいていただきたい。ほんの二つ三つだけ質問があるので」
「そんなことはしてもらいたくありませんね」と、Kはいって、ドアのほうへいこうとした。モームスは書類の一つを机にたたきつけて、立ち上がった。
「クラムの名において、私の質問に答えるよう要求します」
「クラムの名において、ですって!」と、Kは相手の言葉をくり返していった。「いったいあの人は私のことなんかに気を使っているんですか?」
「そんなことは」と、モームスはいう。「私には判断できません。だが、あなたは私よりももっとずっと判断できないんですよ。判断を下すことは、私たち二人は安心してクラムにまかせておきましょう。だが、クラムからあずかっている私の地位において、私はあなたがここにとどまり、答えることを要求します」
「測量技師さん」と、おかみが口をはさんだ。「わたしはこれ以上あなたに忠告はしないようにします。これまでいろいろな忠告をし、しかもおよそありうる好意的な忠告をいろいろとしてあげたのに、それは法外なやりかたであなたに拒絶されてしまいました。そして、この秘書のかたのところへわたしがやってきたというのも――わたしは隠さなければならないことなんかちっともありませんけれど――ただ役所にあなたの振舞いともくろみとを相応にお知らせし、あなたが改めてわたしのところへ泊まるように命じられるなんてことがけっしてないようにするためだったのです。わたしたちのあいだはこんなふうになりましたし、この関係はもう全然変わらないでしょう。で、わたしが今、意見を申し上げるのは、なにもあなたをお助けするためではなくて、秘書のかたのむずかしい任務、つまりあなたのような人と交渉するという仕事を、少しばかりやさしくしてさしあげるためなんです。でも、わたしという人間は完全に公明正大なんですから、――わたしはあなたとは公明正大にしかおつき合いできないのです。わたしの意志に反してもそういうふうになるんです――もしあなたがやろうとお思いになりさえすれば、わたしのいうことをご自分のために利用できるはずです。そこで、今の場合、あなたにとってクラムへ通じているただ一本の道はこの秘書のかたの調書を通っていっているのだ、ということをご注意申し上げておきましょう。でもわたしは誇張したくないので申し上げますが、おそらくその道はクラムのところまで通じているのではなく、おそらくクラムのところへ達するずっと手前で終っているのですよ。そのことについて決定するのは、この秘書のかたのお考えによるものなのですよ。でも、いずれにせよ、これがクラムの方向へ通じているたった一つの道なんです。それなのに、あなたはこのただ一つの道を諦めようと思うんですか。それもただ反抗したいという以外にはなんの理由もないのに」
「ああ、おかみさん」と、Kはいった。「それはただ一つの道でもなければ、ほかの道よりも価値がある道でもないんです。ところで、秘書のかた、私がここでいうことをクラムまで伝えたほうがいいかどうかを、あなたが決定するんですか」
「そりゃあそうですよ」と、モームスはいって、誇らしげに眼を伏せて左右を見たが、見るものなんかは全然なかった。「そうじゃなかったら、私はいったい何のため秘書になっているのでしょう」
「それ、ごらんなさい、おかみさん」と、Kはいった。「クラムのところへいく道が必要なのではなく、まずこの秘書のかたのところへいく道が必要なわけです」
「その秘書のかたのところへいく道というのを、わたしはあなたに開いてさしあげようと思ったんですよ」と、おかみはいった。「あなたの頼みをクラムに通じてあげましょうか、とわたしは午前にあなたに申し出てあげませんでしたか。これはこの秘書のかたを通じてやられるはずだったんですよ。ところが、あなたはそれをおことわりになりましたが、あなたには今ではこの道だけしか残されてはいないんですよ。むろん、あなたのきょうのようなふるまいのあと、つまり、クラムを不意に襲おうなんていう試みのあとでは、成功する見込みはいよいよ減ってしまったのです。でも、この最後のちっぽけな消えかかっている期待、ほんとうは全然存在してなんかいない期待というものが、あなたのもちうるただ一つの期待なんですわ」
「おかみさん、どうしてなんです」と、Kはいった、「あなたは最初、私がクラムの前に出ようとするのをあんなにもとめようとしたくせに、今では私の願いをそんなにまじめに取って、私の計画が失敗する場合、私のことをいわばもうだめなんだと考えていらっしゃるらしいのは? およそクラムに会おうなどと努めることを本心からとめることができたのなら、今同じ人が同じように本心から、クラムへ通じている道を、たといそれが全然クラムまでは通じてはいないにしても、まるで前へ前へとけしかけるようなことが、いったいどうしてありうるのですか」
「わたしがあなたを前へ前へなんてけしかけているとおっしゃるんですか?」と、おかみはいった。「あなたのやることには望みがない、とわたしがいえば、それは前へ前へとけしかけるということになるんですか。そんなことは――もしあなたがそんなふうにご自分の責任をわたしに転嫁しようとされるのならば、ほんとうに極端な厚かましさというものでしょうよ。あなたがそんなことをする気になるのは、おそらくこの秘書のかたがいらっしゃるからでしょうね? いいえ、測量技師さん、わたしはあなたをどんなことにもそそのかしたりしてはいません。ただ一つだけ打ち明けていえることは、わたしがあなたに最初に会ったとき、あなたをおそらく少しばかし買いかぶりすぎたということですわ。あなたがすばやくフリーダを征服したことは、わたしを驚かせましたし、あなたがこの上さらに何をやるものか、わたしにはわかりませんでした。そこで、それ以上の禍いを未然に防ごうと思い、それには頼んだりおどしたりしてあなたの心を動かすこと以外には手がないのだ、と思ったのです。そのうち、わたしは全体をもっと落ちついて考えられるようになりました。お好きなようにすればいいわ。あなたのやることって、おそらく外の雪のなかに深い足跡を残すぐらいのもので、それ以上ではないんですわ」
「どうも矛盾(むじゅん)がすっかり説明しつくされたようには思えませんね」と、Kはいった。「でも、その矛盾にご注意してあげたことで満足することにしましょう。ところで秘書のかた、おかみさんのいわれることが正しいのかどうか、つまり、あなたが私について取ろうと思っておられる調書ができれば、私はクラムのところへ出ることが許されるのだ、というおかみの意見が正しいのかどうか、どうぞ私におっしゃって下さいませんか。もしそうなら、私はすぐどんなご質問にでもお答えするつもりですよ」
「いや」と、モームスはいう。「そんなつながりはありませんね。ただ問題は、クラムの村務記録のためにきょうの午後の記録をくわしく取っておくということなんです。記載はもうすみましたので、ただ二つ三つの穴を整理のために埋めておくだけなんです。ほかの目的なんかありませんし、またあったとしても、そんな目的なんていうものは達しられませんよ」
 Kは黙ったまま、おかみを見つめた。
「なぜわたしを見つめるんです?」と、おかみがきく。「何かそれとちがったことをわたしがいいましたか。この人ったらいつでもこうなんです、秘書のかた、この人ったらいつでもこうなんですよ。人が伝えたいろいろな情報をみんなつくり変え、そうしておいて、まちがった情報を聞かされた、なんていい張るんですからね。クラムに迎えられる見込みなんか、ちょっとでもないのだ、ということは前からいっておきましたし、今でもいつだってそういっているんですよ。ところで、そうした見込みが全然ないとするなら、その調書によったって見込みなんか手に入るわけはありません。これよりはっきりしていることがあるでしょうか。さらにいえば、その調書だけが、この人のクラムとのあいだにもちうるただ一つのほんとうの公務上のつながりなんです。これも十分にはっきりしたことで、疑いの余地なんかありません。ところが、この人はわたしのいうことを信じないで、いつでも――なぜなのか、またなんのためなのか、わたしにはわかりませんが――クラムのところへ出ていくことができるかもしれないと期待しているとすれば、この人の考えかたのとおり考えてあげるとしてのことですが、この人がクラムとのあいだにもっているただ一つの公務上のつながり、つまりその調書というものが、あるだけなんです。このことだけをわたしはこの人に申しました。何か別なことをいい張る人は悪意でわたしの言葉をねじ曲げているんですわ」
「おかみさん、そういう事情でしたら」と、Kはいった、「あなたにお許しをお願いします。それなら、私があなたのおっしゃることを誤解していたんです。つまり、今はっきりしたことですが、私はまちがって、あなたがさっきおっしゃった言葉から、何かほんのわずかばかりの希望が私にはあるのだ、とお聞きできたと思ったんです」
「そうですよ」と、おかみはいった。「それはなるほどわたしの考えなんですが、あなたはまたわたしの言葉をねじ曲げていらっしゃるのよ。ただ、今度は反対の方向にですけれど。あなたにとってのそういう希望は、わたしの考えによれば、あるんです。とはいっても、その希望はただその調書に根拠を置いているだけなんですわ。けれども、あなたは『もし私がそういう質問に答えたら、クラムのところへいけるのですか』なんていう質問で、簡単にこの秘書のかたを襲うことができる、というような事情ではないんですよ。子供がそんなことをきくのなら、人は笑うだけですが、大人がそんなことをやれば、それは役所を侮辱するものです。この秘書のかたはただうまくお答えになってお情けでその役所に対する侮辱を隠して下すっているんですよ。ところで、わたしがここでいう希望っていうのは、あなたが調書を通じてクラムと一種のつながり、おそらく一種のつながりをもつということのうちにあります。これはりっぱな希望というものじゃありませんか。こんな希望を与えられるに価するだけの功績があなたにあるかってきかれたなら、あなたはほんのちょっとだって示すことができますか。もちろん、この希望についてくわしいことは申せませんし、ことに秘書のかたは職務の性質上、それについてほんのわずかでもほのめかすことはできないでしょう。このかたがおっしゃったように、このかたにとって問題なのは、きょうの午後のことを整理のために記録することだけなんです。たといあなたがわたしの言葉と関係づけて、今そのことをきいてみたところで、このかたはそれ以上のことをおっしゃらないでしょう」
「秘書のかた、いったいクラムはこの調書を読むんですか」と、Kはたずねた。
「いや」と、モームスはいった。「なぜかっていわれるんですか。クラムはとても全部の調書を読むことなんかできません。それに、あの人はおよそものを読まないんです。『君たちの調書はよこさないでくれ』と、あの人はいつでもいっていますよ」
「測量技師さん」と、おかみはこぼした。「あなたはそんな質問でわたしをうんざりさせます。クラムがこの調書を読んで、あなたの生活のこまごましたことを一つ一つ知るなんていうことが、必要なんですか。あるいは、必要とまでいかなくとも、望ましいことなんですか。それよりもむしろつつましやかに、その調書をクラムに対して隠してくれるようにとお願いしようとしないんですか。ところで、その願いも、前のと同じようにばかげた願いですけれどね。――というのは、だれだってクラムに対して何かを隠すというようなことができるものですか。――でも、その願いは前のよりも同情できるたちのものではありますけれどもね。ところでそれは、あなたがご自分の希望と呼ばれているものにとって、必要なんですか。あなたご自身、クラムがあなたに会い、あなたのいうことを聞いてくれなくたって、あの人の前で話す機会さえ得られるならば満足だって、おっしゃったじゃありませんか。ところがあなたは、その調書によって少なくともそのことは、いや、おそらくはもっとずっと多くのことができるじゃありませんか」
「もっとずっと多くのことですって?」と、Kはたずねた。「どうやってです?」
「あなたはいつでも」と、おかみが叫んだ。「子供のように、なんでもみんなすぐ食べられるようにしてさし出してもらいたがらないではいられないんですか! だれがそんな質問に答えられますか? 調書はクラムの村務記録に入れられるのです。そのことはお聞きになりましたね。そのことについてこれ以上のことははっきりとはいえません。でも、あなたは調書やこの秘書のかたや村務記録の意味をみんな知っているのですか? この秘書のかたがあなたから聴取するということは、どういうことなのか、あなたはご存じですか? おそらくこのかた自身知らないんですよ。あるいは、知らないように思っていらっしゃるんですよ。このかたは、ここに坐っておっしゃったように、整理のためにご自身の義務を果たしていらっしゃるんです。でも、考えてもごらんなさいな、クラムがこのかたを任命したんですし、このかたはクラムの名の下に仕事をしていらっしゃるんです。また、このかたのなさることは、たといけっしてクラムのところまではとどかないにしても、あらかじめクラムの同意を得ているんです。そして、クラムの精神にあふれていないようなことが、どうしてクラムの同意なんか得られるでしょう。こんなことをいって、へたなやりかたでこの秘書のかたにおもねろうなどと思っているんでは全然ありませんよ。そんなことは、このかたご自身、全然してもらいたくないとおっしゃることでしょう。でもわたしはこのかたの独立した人格のお話をしているんじゃなくて、今の場合のようにクラムの同意を得ているときのこの人のありのままの姿のことを申しているんですわ。こういう場合には、このかたは、クラムの手がのっている道具なんです。そして、このかたに従わない人は、だれでもひどい目にあいますよ」
 Kはおかみのおどかしを恐れはしなかったし、彼を捉えようとしておかみが口にする希望というものにもうんざりしていた。クラムは遠くにいるのだった。さっきはおかみはクラムを鷲(わし)と比較したが、それはKには滑稽に思われた。ところが、今はもうそうではなかった。彼はクラムの遠さ、攻め取ることのできないこの男の住居、まだKが一度も聞いたことのないような叫び声によってだけおそらく中断される彼の沈黙、見下すような彼の視線のことを思ってみた。その見下すような視線は、けっして確認もされないし、そうかといってまたけっして否定もできないものだ。そしてまた、クラムが理解できがたい法則に従って、空に輪を描いて飛ぶ鷲のように上のほうで引いている、そしてKのいる低いところからとうてい打ち破ることのできない輪形のことを思ってみた。こうしたすべてがクラムと鷲との共通点だった。だが、きっとこの調書はそんなこととは全然関係がないのだ。その調書の上では、モームスはちょうど今、塩ビスケットを割っていた。それはビールのさかなにしているもので、彼はすべての書類の上にそのビスケットにかかっている塩とういきょうとをこぼしていた。
「おやすみなさい」と、Kはいった。「事情聴取なんていうのはどうもにがてでね」そして、今度はほんとうにドアのほうへいった。
「ではあの人はいくんだよ」と、モームスはほとんど不安げにおかみにいった。
「ほんとうに帰ったりなんかしないでしょうよ」と、おかみはいった。それ以上のことはKは聞かなかった。彼はすでに玄関に出ていた。外は寒く、強い風が吹いていた。向う側のドアから亭主がやってきた。そのドアののぞき孔のうしろで、玄関を見張っていたものらしい。上衣のすそを身体へ抑えつけなければならなかった。この玄関のなかでさえ、風が上衣のすそをそんなにもまくり上げるのだった。



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