ビクトル・ユーゴー レ・ミゼラブル 第二部 コゼット


     七 謎(なぞ)の続き

 夜の北風が吹き初めていた。それでみるともう夜中の一時か二時の頃に違いなかった。かわいそうにコゼットは何とも口をきかなかった。ジャン・ヴァルジャンは彼女がそばの地面にすわって自分の上に頭をもたしているので、もう眠ってるのかと思った。彼は身体をかがめてその顔をのぞいた。彼女は目を大きく開いていて何か考えてるようなふうだった。彼は痛ましく感じた。

 彼女はまだ震えていた。

「眠くはないかね。」とジャン・ヴァルジャンは言った。

「ひどく寒いの。」と彼女は答えた。

 それからややあって彼女は言った。

「まだ向こうにいるの?」

「だれが?」とジャン・ヴァルジャンはきいた。

「テナルディエのお上さんが。」

 ジャン・ヴァルジャンはもうコゼットを黙らせるためにとった手段のことなんか忘れていた。

「ああ、お上さんならもう行ってしまったよ。」と彼は言った。「もうこわがるものはない。」

 子供は重荷が胸から取り去られたようにため息をついた。

 地面は湿っていた。物置きは四方が開いていて、寒い風は一刻ごとに鋭くなっていた。老人は上衣をぬいで、それをコゼットにまとってやった。

「これで少しは暖いかね。」と彼は言った。

「ええ、お父さん。」

「ではちょっと待っておいで。すぐに戻ってくるから。」

 彼はその廃屋から出て、もっといい隠れ場所をさがしながら、大きな建物に沿って歩き出した。幾つも戸口はあったが、どれもしまっていた。一階の窓にはみな格子(こうし)がついていた。

 建物の内側の曲がり角(かど)を通り過ぎると、アーチ形の窓が幾つもある所に出た。光がさしていた。彼は爪先(つまさき)で伸び上がって、一つの窓からのぞいてみた。それらの窓はみなかなり広い一つの広間についていて、広間の中は大きな石が舗(し)いてあり、迫持揃(せりもちぞろい)と柱とで仕切られ、ただ一つの小さな光と大きな影とのほか、何も見分けられなかった。その光は、片すみにともされてる一つの有明(ありあけ)から来るのだった。広間の中はひっそりとして、何も動くものはなかった。けれどもじっと見ていると、床石の上に、喪布におおわれた人間の形らしいものが、ぼんやり見えるようだった。それはうつ向きになって、床石に顔をつけ、腕を十字に組み、死んだようにじっとして動かなかった。床の上に引きずっている蛇(へび)のようなもので、そのすごい形のものには首に繩(なわ)がついてるようにも思われた。

 広間のうちは薄ら明りに浮かび上がってくる一種の靄(もや)が立ちこめて、いっそう恐ろしい趣になっていた。

 ジャン・ヴァルジャンがその後しばしば言ったことであるが、彼は生涯(しょうがい)に幾度か陰惨な光景に出会ったけれども、その薄暗い場所でま夜中にのぞき見た謎(なぞ)のような人の姿が、何とも言えない不可解な神秘を行なってるありさまほどぞっとする恐ろしいものは、かつて見たことがなかった。それはたぶん死んでるのかも知れないと想像するのは恐ろしいことだったが、あるいは生きてるのかも知れないと考えるのはなおさら恐ろしいことだった。

 彼は勇気を鼓して額を窓ガラスに押し当て、それが動きはしないかをうかがった。だいぶ長い間そうしてうかがっていたが、横たわってるその形は少しも動かなかった。と突然名状し難い恐怖を感じて、彼は逃げ出した。後ろもふり返り得ないで物置きの方へ駆け出した。もしふり向いたら、後ろにはきっとその形が腕を振りながら大またに追いかけてくるのが見えるに違いないような気がした。

 彼は息を切らして小屋の所へ帰ってきた。足もまっすぐには立てなかった。腰には冷や汗が流れていた。

 いま自分はどこにいるのであろう。パリーのまんなかにこんな墓場のようなものがあろうとは、だれが想像し得られよう。この不思議な家は何だろう。夜の神秘に満ちた建物、天使のような声でやみの中に人の心を招く家、しかも近づいてゆくと突然に現わるるその恐るべき光景、輝かしい天国の門が開けるかと思うと、恐ろしい墓場の門が開いてくる。そしてそれはまさしく現実の建物である、街路の方には番地がしるしてある一軒の家である。夢ではないのだ。しかし彼は容易にそう信ずることができなかった。

 寒気、心配、不安、その夜の種々な激情、そのために彼は実際熱をも発していた。そしてあらゆる考えが頭のうちには入り乱れていた。

 彼はコゼットに近寄った。コゼットは眠っていた。




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